火野猛

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火野猛

 署に戻ってきた火野猛(ひのたける)の目に飛び込んできたのはまさに半狂乱といった風の女の姿であった。 「本当なんですっ弟がっ……死んだはずなのに! 弟がっ……!」 「わかりました、わかりましたから少し落ち着いてください」 「信じてください! 本当に……あの子は死んだはずなのに…!」 「わかりましたから」  青白い顔に瞳をいっぱいに開きカウンターへ身を乗り出さんばかりの勢いで訴える女をまだ年若い女性警察官が宥めている。宥めているというよりもどこか適当にあしらっているという方が適切のようにも見えた。   「本当なんですっ……本当に死んだはずの弟が生きてて……それで……!」  事情が何かは分からないが【死んだはずの弟が生きていた】と彼女は訴えているのだ。にわかには信じがたい話だが、彼女の様子はあまりにも鬼気迫るものであった。少なくとも冗談や暇つぶしで訴えているとは思えない。それに―― 「火野くん」    性格上そういうのを見過ごせない火野が仲介に入ろうとしたとき、背後からポンと肩を叩く者があった。  振り返るとそこにいたのはやたらとひょろりとして背の高い男であった。黒髪をぴっちりと七三に分け、ブランド物のスーツを着こなし、銀縁の細いフレームの眼鏡の奥では狐目が鋭く光っていた。 「……室伏課長」  全身から神経質そうな雰囲気を醸し出すこの刑事の名は室伏孝太郎(むろぶしこうたろう)といい、火野とほぼ同時期に地方からこの鳴神署へと転属してきた人物であった。そして、なにかにつけては火野を敵視している男でもある。 「また外に行ってきたのかい? 大変だねぇ、キャリアともあろうキミが」 「……いえ、今の仕事も性に合っていますから。それにもうキャリアじゃないですよ」  内心で舌打ちをしながらも火野はどうにか表面上を取り繕った。  室伏が敵視する理由は至って単純だ。火野が元とはいえキャリアであるからだ。とはいえ警部補である自分に対して室伏の役職は警視である。しかも刑事課の課長だ。  そんな彼が何故、自分なんかを敵視するのか火野にはさっぱり分かりかねた。 「まァ、確かに今の君にはお似合いの仕事かもしれんねぇ。毎日毎日、外で窃盗犯を追い回すのが似合っているよ」 「はぁ……」  室伏は神経質そうな顔に皮肉めいた笑みを刻み付けた。が、カウンターで騒ぐ件の女をチラリと横目で見ると不快気に顔を歪めた。 「それにしてもやかましいな」 「ああ、あの女性ですか。何か相談事があるんじゃないですかね? あんなに必死になって」 「ああキミはほぼ毎日、外にいるから知らんのか。彼女、ここ最近よくやって来てはああやって喚き散らしていくんだよ。死んだ弟が生きてる! とかなんとか言ってね」 「そうだったんですか」  はぁとわざとらしい溜息を吐く室伏から視線をずらして、火野はもう一度、女性の方を見た。あいかわらずカウンターに向かって何事かを訴えているのだが、他の署員もこの状況に慣れっこらしく平然として自分の仕事に集中していた。 「話を聞いてやった方が良いんじゃ……」  と言いかけた言葉を遮るように、室伏は笑った。それは他人を小馬鹿にするような心底厭な笑いだった。 「その必要はない。彼女からは既に一度話を聞いている」 「そうなんですか?」 「ああ、その結果、彼女の言っていることは真っ赤な嘘だったよ。確かに弟さんはいるようだがご存命だ。ちゃんと生きている。ウチの刑事がちゃんとその目で確かめているんだ」 「でもじゃあなんであんなことを」 「頭がおかしいんだろう」  室伏は自身のこめかみの横で人差し指をくるくると回してみせた。なんとも差別的で侮蔑的な仕草であり、火野は穏やかに取り繕っていたのも忘れて思わず顔をしかめた。 「不愉快そうな顔だね火野くん。失言したかな? だがこれは彼女の弟さんも言っていたことだよ」  くすくすと笑う室伏。 「仮にも家族だろ。そんな言い方はねぇんじゃねぇのかよ」 「おっと、素が出たなァ? 本当にヤクザみたいな男だなキミは。キミを見ていると北関東の蛮人がなんでキャリアなんかになれたのか心底不思議だよ」 「なんだと?」 「その短気さもエリートには程遠いと思うがね」  室伏はまたもやくすくすと笑った。この男はいちいち人を挑発しないと気が済まないらしい。 「まぁいい、キミにも言っておくが……彼女の妄言には付き合わん方がいい。あれは精神疾患だ。まともに取り合うだけ時間の無駄だよ」  室伏はそれだけ言うと火野の脇を抜けて歩き去ろうとしたのだが、そこでふと何かを思い出したように足を止めて振り返った。そしてまたあの不快な笑みを浮かべ、言ったのだ。 「それでもどうにかしてやりたいと思うならで担当すればいい。ああそれがいい、もし今度あの女が来たらそっちへ通すように私の方から話を通しておいてやろう」  それだけを言うと室伏は本当にその場から去って行った。遠くになっていく背中を見て火野は特大の舌打ちをくれた。 「クソ野郎が」  火野はムシャクシャした気分を抱えたままジャケットのポケットに手を突っ込んで探ると煙草の箱を取り出した。が、中身が入っていなかった。 「クソッ……!」  火野は箱を握りつぶすともう一度ポケットへと突っ込んだ。
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