岩丸祥子

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岩丸祥子

   確かに「死んでほしい」と何度も思ってはいた。  思ってはいたのだが、いざ本当に死なれるとショックを受けるものなんだな。と、祥子はぼんやりと思った。  仕事から帰ってくると弟が死んでいた。  それも、祥子の部屋で首を吊っていた。天井の梁で吊ったようだが、3桁を超える巨体がぶら下がっていてよく折れなかったものだと妙に感心した。弟の首に食い込んでいるのが自分のスカーフであるということに気が付いて祥子は顔を歪めて舌打ちをした。 「やっぱり、私への当てつけにこんなことしたのね……」  それを理解すると弟が死んだショックよりも怒りが勝ってきた。  床には弟が漏らしたであろう糞尿が撒き散らされていた。苦悶に満ちた弟の顔がなんだか自分を嘲笑っているようにも見えてきて、祥子は思わず手にしたままだったコンビニの袋を死体めがけて投げつけた。柔らかいものがつぶれる音がして、床の糞尿の上に袋の中の菓子やペットボトルが散らばった。  昔からこうだった。  弟は昔から、自分の思い通りにいかないことがあると当てつけのようにわざと祥子に迷惑をかける行動をとっていた。それは成長してからも変わらず、祥子はずっと弟の機嫌を窺って生きてこなければならなかった。  今回もその延長だろう、と思った。  原因も分かっている。  兼ねてから付き合っている相手と結婚し、この部屋を出え行くと伝えたからだ。  そのことを伝えたのは3日前の夜だった。  「ハァ!? なんだよ結婚って!?」  弟の第一声は、姉の結婚を祝福するものではなく非難するものであった。 「だから、結婚。私結婚するから。ここも出ていく」 「だからなんでだよ!? だって今までそんなこと一言も言ってなかったじゃん! 付き合ってる男がいるなんて聞いてねえよ! 祥子のくせに俺に隠れて男と付き合ってやがったのかよ!」 「別にあんたの許可なんかいらないでしょ」  祥子はわざと突き放すような言い方をした。  だがその態度が逆に弟の神経を逆なでしたらしい。座っていたソファが倒れる程の勢いで立ち上がると、手にしていたグラスを投げつけてきた。グラスは見事に祥子の額に命中し、砕け散った。 「あっ」と弟は言い、やってしまったという顔をした。だが、その表情も一瞬で、すぐに怒りに染まった顔に戻った。 「……まァ、結婚は百歩譲っていいよ。でも部屋を出ていくってなんだよ? 別に出ていく必要はないだろ、部屋数ならまだ余ってるし旦那とここで暮らせばいいだろ!」  弟はいかに祥子が間違った選択をしようとしているのかを必死で訴えた。  ずきずきと痛む額を押さえながら祥子は弟の姿を冷静に眺めた。今までだったらここで「そうだね、お姉ちゃんが間違ってたわね。ごめんなさいね」と謝ってご機嫌伺いのひとつでもするのが恒例となっているのだが、今回ばかりは折れる訳にはいかなかった。  ようやくこの地獄のような環境から抜け出すチャンスが巡ってきたのだ。ふいにする訳にはいかない。ここを逃せば本当に、この怪物のような弟が死ぬまで搾取され酷使され続けることになるのは分かっていた。  弟が……哲夫がこんな風になってしまったのはいつからだったろうか?  母が哲夫の父親と再婚したときは、まだいくらかの善良さはあった気がする。  やはり決定的におかしくなり始めたのは【あの事故】が切っ掛けだったように祥子は思った。  哲夫が小学4年生、祥子が中学1年生の時だ。  その頃は一軒家に住んでいたのだが、哲夫がその家の階段から落下したのである。頂上から真下まで段差に体を打ち付けながら落下していく哲夫の驚愕に満ちた顔を祥子は未だに覚えている。  原因は他の誰でもない自分であった。  いきなり真後ろから抱きつかれ、それに驚いて思わず力いっぱい突き飛ばしてしまったのである。  物音を聞きつけ駆け付けた母親によってすぐに救急車が呼ばれ哲夫は運ばれていった。幸いなことに怪我は大したことはなかったのだが、哲夫はひと月ほど意識不明に陥った。  祥子はそのことを実母から激しく叱責された。  おそらくは哲夫の父親に愛想を尽かされたくなかったのだろう。彼と再婚するまで貧しい暮らしを強制されていたし、生活が楽になった今、このことが原因で祥子はともかく母親である自分まで家を追い出されることを懸念したのだろう。一度上がってしまった生活水準を下げるのは難しいと聞く。哲夫の父親は複数の会社を経営するヤリ手の経営者であった。 「祥子! どうして哲夫くんにあんなことをしたの!」 「だって、急に抱き着いてきたから」 「その程度のことで突き落としたの?!」 「だって、驚いて……それに気持ち悪かったから」  思わず出た本音に母の平手が飛ぶ。 「気持ち悪いって何!? まるで哲夫くんがで抱きついたみたいじゃないイヤらしい子ね! そんな風に思うあなたの方が気持ち悪いわ! あの子はまだ小学4年生の子供なのよ? そんな子にそんな風に思うなんて、あなたの方が(よこしま)な目で見ている証拠でしょ!? 汚らわしい!」  普段は物静かで穏やかな母が般若のように顔を歪めて唾を飛ばしながら罵倒する姿を、祥子はこの時初めて見た。同時に、自分が愛していた母はもういないのだと思うと悲しかった。口の中には鉄くさい臭いと味が充満し始めていた。 「聞いているの? 祥子? とにかく、あなたはこれから一生を尽くして哲夫くんに罪滅ぼしをしなさい。いいわね?」  母のその宣言通り、祥子はその日から弟に従属することを強いられ続けてきた。  祥子とて多少の罪悪感はあったが、哲夫の奴隷として生きていくなどまっぴらごめんである。最初のうちは弟や両親の命令を突っぱねていた。が、それはすぐに破綻した。  祥子が逆らうたびに、祥子の大切にしている私物が壊された。食事を抜かれた。些細なことではあったが、それが頻繁に続けば精神も擦り減っていく。よりにもよって敵は身内なのだ。逃げ場がない。  結局、祥子が可愛がっていた猫が風呂場で溺死させられたのが止めとなった。  祥子はそれ以来、哲夫に従属してきた。奴隷として尽くしてきた。それは両親が死んだあとでも変わらなかった。  が、そんな屈辱的な生活とももうすぐおさらばである。 「とにかく、私は結婚するしこの部屋は出ていくから。哲夫くんは哲夫くんで好きに暮らしなさい。両親の遺産は全部あなたにあげるから」  そう告げると哲夫の顔面は赤黒くなった。  哲夫はその場で地団太を踏んだ。成人して久しい大の大人が、年甲斐もなく、子供のように。今までは弟の癇癪を必死に優しく宥めていたが、もう捨てると決めてから見るとなんとも滑稽だった。  思わず「ふ」と口端を歪める。哲夫はそれを嘲笑と受け取ったらしい。 「ふざけ……ふざけんなよこのクソ女! だいたい俺がこんなんなってまともに働きにも出れないのはお前のせいなんだ! だからお前は一生俺に尽くす義務があるんだよ! クソ女! バカ女! 最近帰りが遅いと思ってたら男としけこんでやがったのか! 汚い女だ!」 「下品な物言いしないでよ。確かに昔の事故のことは悪かったと思ってるわよ、だからこそ青春も犠牲にして哲夫くんに尽くしてきたんじゃない。私は私なりに罪滅ぼしをしたわ。でももう沢山! もうアンタの面倒なんか見きれない!」 「ああああああああ! ふざけんなバカ女! バカ女! バカ女あああああ!!」 「そうやって勝手に泣いてなさいよ」  それだけを冷ややかに言うと、祥子は荷物をまとめて部屋を出た。  そして今の今まで帰ってこなかったのだが……。 「最後まで私に迷惑かけて……本当に憎たらしい子だわ」  死体を見上げて祥子は嘆息した。  いっそこのまま放置してやりたいと思ったがそういう訳にもいかない。 「ええと、まずは警察に電話……」  バッグからスマホを取り出しながら祥子は部屋を出ようと哲夫に背を向けた。  その時だった。 「どこ行くんだよ……祥子……」  くぐもった声が確かにそう言った。
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