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あったかい人
小さいころ森はノアが何かあるたびに放り込まれる「おしおき」の場所だった。猫の姿になると叱られて罰を与えられた。
発情期がくるようになってからは、森じゃなくて家の外に小屋を作りそこにノアは一人閉じ込められた。
獣人の本能が暴走したら自分では抑えられないし、ノアだって他人に迷惑をかけたくなかった。だから素直に従っていた。暗い小屋に家畜のように閉じ込められても我慢した。小さい頃は寂しくて鳴いていた。大きくなってからは、抑えられない性欲に翻弄された。
医者は人間同士から生まれた獣人のノアを診て気の毒そうな顔をした。
人間の子から獣の子が生まれるのは、めったにないことだった。
拾われた子じゃないか、子供を取り違えたんじゃないか。獣と交わったのではないか。
そんな誹謗中傷にノアも両親も苦しんでいた。
ノアはどんな手を使っても、自立して一人で生きられるようになりたかった。
家を出て猫の姿のまま一人で生きられるなら良かった。
猫になってしまえば幸せなんじゃないか、と魔法学校の先生に言われたとき胸が痛んだ。
ノアだって、それで幸せになれるなら最初からそうした。
けれど、猫の友達は、猫だ。
半分が猫、半分が人間の半端者は、どこに行っても仲間に入れてもらえない。
だからノアは猫の友達がいない。人間も動物もノアを同じ生き物と認めてくれない。ノアには居場所がなかった。
(一度だけだ、誰かと遊べて楽しかったのは)
その猫がノアと遊んでくれたのは、魔法使いの弟子で、特別な猫だったからだ。
森で「魔法使い」に出会ったのは、あの一度だけ。それどころか、あのぽっかりと空に向かって口を開けていたまんまるの空間には、何度行っても不思議と辿り着けなかった。
「常闇の魔法使いって、どんな人だろう」
魔法学校の先生は偏屈だと言っていた。
昔、この森でノアが出会った魔法使いは、とても温かくて太陽みたいな人だった。闇ってイメージはなかったように思う。弟子入りするなら怖い常闇の魔法使いじゃなくて、昔出会った優しい魔法使いがいいな。そう思った。
思い出が次から次へと蘇ってくる。温かくて、優しくて、ずっと大事にしていた、楽しかった思い出。どんなに悲しくても魔法使いと黒猫のことを思い出すと、幸せな気持ちになれた。
ふと、頭に浮かんだ名前を口にした。
――そうだ、エイミーって名前だった。
「もう一度、エイミーに会いたいな」
名前を呼んだ。心から会いたいと思った。初めて出来た猫の友達だった
猫の姿の今なら、会って話せるかもしれない。そう思った。あれから何年も経っている。ノアのことなんて忘れてるかもしれない。
「俺、エイミーに結婚してとか言った気が……。会って覚えてたら笑われるだろうな」
空は、あの日と同じように灰色の雲がかかっている。
雪の降る季節が近づいていた。
考えごとをしながら森を歩いていたら、前方の森の奥に太陽の光が見えた。さっきまで、ずっと薄暗かった。ノアは突然現れた隙間の太陽に誘われるように、草むらをかき分け暖かな場所を目指す。
たどりついた場所には見覚えがあった。あのあと何度行こうとしても無理だった。エイミーと遊んだオークの木に囲まれた空間。
「ここだ!」
森の中ぽかりと空に向かって口を開けた場所。雲の隙間から差し込んだ太陽の日差しが、その場を優しく照らしている。
サンルームみたい。まるでその場だけ時間が止まっている。
そこには全身黒ずくめの男が眠っていた。外でロッキングチェアーに座っているなんて変だなとノアは思った。
「え、もしかして死んでる……とか」
おそるおそるノアは男に近づいた。真っ黒なローブは地面につくほど長い。足元からノアは様子を窺った。男の服からは薬草のような匂いがかすかにした。
カラスみたいな真っ黒な髪は肩につくほどの長さで、風が吹くたびサラサラと揺れている。その髪の揺れが気になって、ノアはピョンと地面を蹴って男の膝に乗った。
揺れる黒髪に前足で触れた。とても細くてノア前足で触れた先からすぐに離れてしまう。
「あっ」
男の膝に乗ってから気づいた。
人間でも初対面の相手の膝に乗るなんて普通はしない。猫の本能。揺れるものを見ていると気になってしまい衝動が抑えられなかった。
ノアはゆっくりと顔を覗き込む。雪みたいに白い肌をしていた。長いまつ毛は瞼の下にうっすらと影を落としている。唯一、生きている人間らしい血色の感じられるところは唇だった。薄いピンク色をした形の良い唇は今は固く引き結ばれていた。笑ったらきっと綺麗だろうなって思った。柳眉に高い鼻梁。整った顔立ちをしている。よくできた人形みたい。
二十代後半くらいだろうか。大人の男性だった。
「森で、お昼寝が好きとか? ここ、あったかいしなぁ」
ノアが知っている周囲の大人は昼寝をしないし、毎日、王都の街であくせく働いている。猫のようにお昼寝している男をなんだか羨ましく感じた。
朝から魔法学校の試験に行って外に追い出され、この森までやってきた。小さな猫の体で歩き疲れ、お腹も空いている。
ノアは太陽の光で温かくなっているローブの誘惑に勝てなかった。くるんと、その場で一回りして、膝の上で落ち着く体勢になった。
どうせ人にはノアの言葉は分からない。怒られたら逃げればいい。空腹から散漫な思考になっていた。ノアがそのまま深く考えずに男と一緒にお昼寝しようとしたときだった。
ひょいと、首をつかまれてしまった。
「うわ!」
「さっきから、ニャーニャーうるさいな。なんだ、お前は」
いつの間にか黒いローブ姿の男は目を覚ましていた。骨張った大きな手に掴まれている。外見は細く見えたが、男は成猫を易々と片手で掴んでいた。もしかしたら、見た目ほど非力な男ではないのかもしれない。男の吊り目の二重がジッとノアを観察していた。嵐の夜の稲妻みたい。薄暗い紫の瞳が少し細められる。
ノアの体は鋭い男の瞳に睨まれて、びくんと震えた。
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