魔法使いの家

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魔法使いの家

「ご、ごめんなさい。お、俺、誘惑に勝てなくて! 服、真っ黒だから、あったかくて!」  身振り手振りで慌てて謝った。当然、人間にノアの言葉は通じないだろう。 「貴様。どうやって森に入って来た」  口を開いた男は、眠っていたときと印象が違っていた。さっきまでは太陽みたいに温かい人に見えた。けれど実際の声は刃物のように鋭い。服の温かさに反して周囲に漂う空気は氷だ。  でも冷たいからといって膝の上に乗っていたノアを追い払ったりはしなかったし、怒鳴りつけたりもしなかった。ひどいことはされていない。  それでも猫の扱いは雑だ。掴まれている首の柔らかいお肉が伸びて、ノアの両手足が空中でぶらぶらしている。  ノアは足が地面についていないと、そわそわするから嫌だった。 「まぁ、いい」 「え、なぁに」 「少し黙れ」 「は、はい」  男にはノアがニャーと鳴いている声しか聞こえていないはずだ。  猫に話しかけるなんて変な男だ。男の中には温かいと冷たいが一緒に住んでいる。  ロッキングチェアーから立ち上がった黒いローブの男は、胸の前で開いていた左の手のひらを握った。すると、さっきまで男が座っていた椅子がその場から音もなく、魔法のようにたちどころに消えた。 (あ、そうだ! 忘れてた)  うっかりしていたが、ノアはここに常闇の魔法使いを探しに来たのだった。  全身黒ずくめの男が目の前で魔法を使ったことで、本来の目的を思い出す。  彼が常闇の魔法使いなのだろうか。  杖も使わず椅子を一瞬で片付けてしまうなんて、並外れた力がないと出来ないはずだ。  ノアは男に首を掴まれたまま、空中で足をぶらぶらさせていた。ノアは顔をくいと上に向ける。 「魔法使いさん。もしかして俺の言葉わかる?」  ノアの声に男は答えなかった。優秀な魔法使いならノアの喋っている猫の言葉が伝わるかもしれない。 「ねぇねぇ! ねぇったら!」  聞こえなかったのだろうかと、もう一度大きな声で呼ぶと、静かに歩いていた男は、その場で足を止め呆れたように肩を落とす。そうしてノアを左腕に抱え直してくれた。ノアは、すっぽりと男の片腕におさまった。両手両足が男の胸に当たり、ほっと息を吐く。 「なんだ、不服か?」 「う、ううん。ありがとう。俺、足が地面に着かないの気持ち悪いから嫌なんだ」  言葉のキャッチボールはしてくれないのに、不思議とコミュニケーションが成立している。  なんだか掴みどころのない男だった。 「着いたぞ」  そうこうしているうちに木造二階建ての古い家の前についた。男の服から薬草の匂いがしたから、街で薬屋でもしているのだと思った。けれど着いたのは森の奥深く。絶対こんな場所までお客なんて来ないし、外観からは店をやっているようには見えない。ノアが男の腕の中で不思議に思っていたら、磨かれていない自然味溢れる木の扉が開かれる。  部屋の中を見てノアは驚いた。  外の粗雑な作りに反して内側は正しく店の様相をしている。赤い別珍の貼られた待合用の椅子や薬の調合台、接客用のカウンター。ノアが街中でよく見る薬店の姿をしていた。  ノアは不思議に思って男を見上げる。 「こんな場所にどうやって家建てたんだろ」 「魔法使いなんだから、魔法に決まってるだろう」 「え?」  目を細めて見下ろされた。 「あ、やっぱり魔法使いなんだ。俺の言葉通じている?」 「一体なんだと思っていたんだ。貴様は馬鹿猫なのか」  とりあえず森へ来た最初の目的を達成できて一安心した。ノアが一方的に喋っていると思っていたが、相手は道中ちゃんとノアと会話しているつもりだったらしい。やっぱり変な人だ。コミュニケーションが一貫して適当過ぎる。 「それで、私に用事があったのだろう。何しに森へ来た」  やっとまともに会話する気になったらしい。男はノアと目を合わせてくれた。 「えっと、俺」 「あぁ」  魔法使いは入り口近くの床にノアを下ろして一人奥に進む。  降ろされた場所には、マットが置かれていた。泥だらけの足を拭けという意味だろうか。あまり意味があるとも思えなかった。既に彼の黒のローブはノアの足の泥で汚れている。  ノアは試しに両手両足をマットの上でトントンしてみた。  ふと顔を上げると横に骨董品屋さんでしか見ないような美しい姿見があった。四隅には赤や青の小さな宝石が埋まっていて繊細な紋様が金色のフレームに施されている。その姿見に映る自分の姿を見た瞬間、ノアは部屋中に響き渡る声で叫んだ。 「な、んで! え、これ、どうして」 「貴様は本当に騒がしい猫だな」  姿見にはノアの人間の時の姿が映っていた。  亜麻色の少し癖がかった柔らかい髪にオレンジの瞳。縦のアーモンド型の虹彩。周囲と比べてやせっぽちの小柄な体躯。薄い肌色の体のあちこちには、大小さまざまな傷跡が残っている。  全部、全部。普段からノアが見慣れている姿だ。  びっくりして手のひらを確認しても、ノアの手は、もこもこのクリームパンみたいな猫の手のままだった。何度も鏡と自分の姿を見比べる。  いくら確認しても薄茶色の猫の姿をしているのに、鏡に映っているのは「ノアの人間の時の姿」だった。  ――鏡の中のノアは何も身につけていなかった。  当たり前だ。  魔法学校の試験会場で先生に猫の姿にされた。  そのときノアが着ていた服が地面に落ちた。結果、学校の外へ出された際に服は荷物とともにまとめて地面に放り投げられてしまった。  森の入り口までは服と小さなカバンを口にくわえ引っ張ってくることが出来た。けれど草が生えている森では持って歩くのには無理があった。だから荷物は森の入り口の木陰に置いてきている。もし森で人間に戻ったところで、誰かに裸を見られる可能性は低いと、たかを括っていた。途中で人間の姿に戻ったら服を森の入り口まで取りに行けばいいと思っていた。  姿見には、下着すら付けていない生まれたままの姿のノアがいる。下半身丸出しで堂々と鏡の前に立っていた。  子供なら許されても、十八歳の大人が許されるはずがない。  ノアが大騒ぎしていたので、魔法使いは部屋の奥から戻ってきた。慌てて鏡を体で隠そうにも、今ノアは猫の姿だから全身を使っても鏡全体を覆い隠せない。 「み、見るなぁ!」  その場でジタバタしていたら、再び男に玄関先で首根っこを掴まれる。そのせいで再び隠そうとしていた股間が鏡に映ってしまった。 「普通の鏡だろう。何が怖い。あぁ、猫だからか?」  男はノアが鏡を怖がっていると思っているらしい。 「だって、服! 俺、服着てないから、鏡!」 「お前みたいな貧相な男の体を見たところで、私は何もする気にならないが? 自意識過剰なのか?」  魔法使いは、それがどうしたと全然取り合ってくれない。鏡の中のノアを男に隅々まで見られてしまう。 「だ、だから、恥ずかしいんだって!」 「あーもう分かった。服を出せば、お前は静かになるんだな」  ノアは何度も頷いた。  鏡の中のノアの顔は真っ赤。髪の毛は暴れたせいでぐしゃぐしゃだ。  男はノアを床に下ろすと、右手の人差し指を一回くるりと回した。すると手に再び魔法使いの杖が現れた。  杖をノアに向けてもう一度回すと、ノアは猫の姿から元の人間の姿に戻っていた。  服も学校で面接のときに着ていたネイビーのズボンと生成りの襟付きシャツになっている。重くて持って帰るのを諦めたハーフコートも、入口のコートかけに綺麗にかかっていた。  最後に仕上げとばかりに、もう一度男が杖を振ると靴まで現れた。  ノアは脱力して玄関近くの床にペタリと座り込む。 「す、ごい。あ、ありがとう、ございま、す」  男はノアを一瞥すると再び部屋の奥へ進む。 「それで、どうやって、この森に来た」  男は獣人のノアを見ても、少しも気にしていないようだった。 「どうやって、歩いて?」 「違う」  男が部屋の中で手を動かす度に眠っていた部屋が命を吹き返したように動き始める。奥にある暖炉の火が付き、玄関横の薬草棚の前に明かりが灯った。森の中には電気なんて通っていない。だから全て魔法なのだろう。  薬を煎じている瓶は炉に火が入ると、ぽこぽこと泡を出し始める。紫色の草の入ったガラス瓶からは、青や赤の小さな雲が時々上がっている。 「この森は招かれた人間しか入れない。だから訊いている」 「俺、あなたに招かれたんですか?」 「まさか。私は自分の森に人間を招いたりしない」 「えっと、俺、ノア・リーシア、です」  ノアが自己紹介を忘れていたと名前を言うと男はニヤリと笑った。 「迂闊に名前を教えない方がいい。どんなに力のない魔法使いでも、相手の名前さえ知れば簡単に殺せるから」 「ぅ……なん、で」 「魔法使いに名前を預けるのは命を預けるのと同じ行為だ」  入学試験の会場でノアは魔法使いに名前を呼ばれて猫の姿にされてしまった。そのことをぼんやりと思い出していた。 「あと、この森は会いたい人に会わせてくれる。――面倒な魔法がかかっている」 「面倒な魔法?」 「魔法というより一種の呪いだな。常闇の魔法使いが残した呪い」  男は心の底から忌々しいみたいな顔で言った。  確かにノアは魔法使いに会いたいと当て所なく森を歩いていた。ノアにとっては呪いじゃなくて素敵な魔法だと思った。無事に魔法使いと会えたのだから。 「俺、常闇の魔法使いに会いたかったんです。……どうしても、会いたくて」 「どうしても、会いたい、ね」  魔法使いは、にやりと笑った。声色だけだと感情の起伏が乏しいように見えるが、小さく怒ったり、笑ったりしている。ノアが話す度に、想像と違った反応が返ってくるので、ちょっぴりワクワクした。  普段、誰にも相手にされないから構われると嬉しくなってしまう。 「何故、私に会いに来た。内容によっては協力してもいい」 「え、本当ですか!」  急に目の前がぱっと開けたような気がした。 「あぁ。私の仕事の範囲内なら、な」
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