マーメイド・ティア

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マーメイド・ティア

 さっきと同じように、高速道路の単調な景色が流れていた。さっきから私の前では大型トラックがのろのろと走行している。まるでセメントで固められたような乾いた私の瞳が、その背中をずっと見つめていた。  何事もなかったかのような光景だった。まるで退屈な映画を見るように、ただその映像を眺めていた。どの道をどう帰ったのかもうろ覚えのまま、いつの間にか私は帰宅していた。  部屋にたどり着くと、私はまっ先にベッドの上に突っ伏した。  そして私は目を閉じ、彼女のことを思い返す。  たぶん、彼女はずっと私を待ち続けていたのだろう。  何十年も、現れることのない私のことを。  私は寝返りを打った。  仰向けになると、そこには無数のシミですっかり変色してしまった天井が目に映る。  まるで星座のように、シミとシミを結び付けてみると、都合よく彼女の姿が現れたような気がした。  そういえば──  私が最後に思い切り泣いたのはいつだったろうか?  私はふたたび目を閉じて、彼女が最後に浮かべた笑顔を思い出そうと試みた。  ──しかしなぜか、彼女の笑顔どころか、その顔立ちすらもうまく思い出せない。  私は悟った。  消えようとしている。  彼女の記憶が、さっそく失われつつある。  なぜだかは分からないが、たぶんそんな気がするのだ。  思い出せるのは、彼女が消えていくあの最後の瞬間だけ。  いくら大事に、いくら必死に握りしめようとしても、彼女は美しい光粒となって揮発していく。  どうしようもない焦燥感が分厚い胸の奥底で沸騰していくのが分かった。  そしてそれは、ぶつけどころのない怒りにも見える。  私は自らの頭をたたきつけた。そして搔きむしるように、頭を抱える。  約束したのに……。  もう二度と忘れないと、彼女と約束したのに……!    美しい光の粒となって、刻一刻と溶けゆく彼女の姿を、心の中に留めようと精いっぱい足掻いた。  でもいくらそう念じたところで、おそらく最後には初めから何もなかったかのように、なにもかも霧散してしまうのだろう。  薄暗くなってきた部屋の中、私はただひとり、感情に苛まれていた。  苦しくて、やり切れなくて、はち切れそうな思いだ。  しかし、やがてはそんなことももう、どうでも良くなってくる。  私はふっと魂が抜けたように、ため息を吐いた。まるで、辛い感情を消去するように。  これは、大人になってから私が身につけた術のひとつだ。  私は再び目を閉じる。今度は彼女を思い出すためじゃない。彼女を忘れるためだ。  次第に心地よいまどろみが脳を溶かしていくと、私も特に抗うことなく身を任せた。  眠りに就くまでにそう時間もかからなかった。  * * * *  また、夢を見た。  海の中で溺れたときの夢だ。怖い体験だったはずなのに、どこか幻想的で美しい。  青い世界を漂っていると、ふと──  透きとおるような甘い香りが、ツンとの奥を突き抜けた。  夢だってことは分かっているのに、なぜか感触が妙にリアルだ。  しかし、息苦しさは感じない。    ゆらりゆらりと影を揺らす太陽は、やがて人魚の姿に形を変える。  そして、”あの時”みたいに光り輝く彼女に、私は手を伸ばしていた。  彼女は、泣いていた。  たった一滴の涙が彼女の目から流れ落ちると、一筋の流れ星のように私に向かって落ちてきた。  ──塩辛い味覚と同時に、私は目を覚ました。  暗闇の一室のなか、私は思わず口元に手を当てる。  私は、泣いていたのだろうか? ……まさか。  身をひるがえしてベッドに腰掛けてみると、気分はだいぶ落ち着いたみたいだ。  彼女のことを忘れたわけではない。  でも、心地よい静かな感情だった。部屋に差し込む月明かりが、日向のように温かく感じた。  月の光をたよりに、照明のリモコンに手を伸ばす。スイッチを押すと、真っ白の照明光が一挙に目に押し寄せてきた。  顔を顰めつつ腰を上げると、ふと目の前のガラス戸に自らの姿が映った。  決して若いとは言えない、三十路過ぎの男性の姿がそこにあった。  大人になるにつれて失われていくのは、果たして思い出だけなのだろうか?  私はガラス戸に近づくと、押しのけるようにカーテンを閉める。  背を向けると、相変わらず散らかったままの部屋がそこにあった。そういえば私は掃除の途中で部屋を飛び出したのだった。  そんな中でふと目に映ったのは、ふすまの下で突っ伏している一枚の紙。  拾い上げてみると、それは家を出る前に見かけた例の思い出の品だった。 『そーたすたじお』  相変わらず汚い字に、つい口元が緩んでしまう。そのA4用紙を片手にしばらく思案にふけっていると、私は突然なにか思いついたように小道具入れの中を漁り始めた。  画鋲をいくつか手に取ると、私はその黄ばんだ紙切れをドアの前に押し止める。  そしてしばらくの間、その幼稚臭い張り紙を、まるで絵画展の作品を眺めるように見つめていた。  そしてその体勢のまま、私は考えていた。  人魚なんてこの世に存在しない。  だから、彼女も最初から存在しない。  それじゃあ、私が見ていたものは、いったいなんだったのか?  私は心の中で首を振った。  あれは決して、夢や幻なんかではない──私はそう確信した。  イジワルで、おちゃめで、でもそんなところが堪らなくいじらしくて……。  彼女は私の記憶のなかで、確かに息づいている。  実在するしないなどは、もはや問題ではないはずだ。    そのとき──  ふと私の鼻先に、”あの匂い”がよぎった。    反射的に振り向いた先にあったのは、かつて自作したアロマストーン。  部屋を出る前、たしかあのアロマストーンにマジョラムスウィートの精油を垂らしたのだった。  刹那、私は胸の中に、ある一つの灯火が宿るのを実感した。  その灯火は小さく、冷たく、しかし業火のような激しさを内包している。 『香りは海馬に直結する』  どこかでこんな話を聞いたことがある。アロマテラピーを学んだ時だったか? いや、そんなことはどうでもいい。  私はマジョラムスウィートの瓶を手に取ると、握りつぶさんばかりにそれを見つめた。自らの眼差しが、徐々に鋭さを帯びていくのが分かった。  そうか。だからか──  だからあの香りを嗅いだとき、私は彼女を思い出したのか?  なら──と、私は思考を巡らせる。    それなら、もしこの香りを通じて、彼女との思い出を完全に再現することができたなら……?  マジョラムスウィートを中心に他のアロマを調香し、”彼女自身”を表現することができたなら……?  その香りの中で、彼女を蘇らせることができたなら──あるいは……。  胸の中の小さな火種だったものは、今や目に見えるほどの炎へと燃え上がっている。  すでに輪郭を失った人魚の娘。しかし私はその最後の別れ際、彼女が放った一言だけは未だしっかりと耳に焼き付いていた。 『そーたさえ覚えていてくれたら、私たち、きっとまた会えるはず』  そうだ。  私はたしかに約束したはずだ。    もう絶対に忘れない。  もう二度と約束を、彼女を、忘れてなるものかっ!  私は強く決意した。  創るんだ……!  彼女の香りを……!  彼女がたしかに、この世界に存在したという”証”を……!  彼女を、永遠のものにするために……!  それから数日間、私のなかで時間という概念が消滅した。  飯も食わず、風呂も入らず、睡眠もろくに取らず、ただひたすらにあらゆる精油を調香し、香りのイメージを紙に書きとめては、試行錯誤を繰り返した。  カーテンを閉めていたせいもあってか、今が朝なのか昼なのか、夜なのかすら分からない。  唯一眠るとすれば、それはもうほとんど失神したように意識を失ったときだった。  夢の中に彼女は出てこなかった。  ただ磯の香りが鼻腔をすり抜け、まるで風にさらわれた麦わら帽子のように大空へ飛翔していく──  そんな果てしなく抽象的で、温かな記憶が、まるで陽炎のように現実と夢の境目で揺らめいていた。  起きると再び手が動き出す。まるで最初から眠ってなどいなかったように。  なかば自動的に手元の作業を続けながら、私は別のことを考えていた。  私は、いったい彼女にどんな感情を抱いていたのだろうか?  恋愛? 興味? 人魚への憧れ?  ──いいや、きっとどれも違う。  私はただ、彼女と友達になりたかった。  それは、友情なんてたった一言で表せるものではない。  お互いに感情をさらけあい、共感しあい……。  だから、悲しいときは泣けばいいし、嬉しいときは喜べばいい、笑いたいときに笑って、怒りたいときに怒ればいい。  もういつからだろう……私はいつからか、そうやって感情をぶつけあえる友達がいなくなってしまった。  ──もう一度だけ、彼女に会いたい。  私は初めて”心から”そう思った。  途端、まるでその気持ちに応えるように、切なげな痛みが私の鼻を突いた。  まるで海の中で溺れたあの時のように……。  ああ、思い出した──  これこそが大人になるにつれ、私が置いてきてしまった感情だったのだ……。  別れ──それはたぶん、この世界でいちばん悲しいことだったはずなのに。    大人になることが、強くなる事とは限らない。  痛々しい傷口を見たくないがために、心を殺す術がどんどん巧くなっていくだけのことだ。  ひとりっきりの部屋のなか、情けない嗚咽が音を上げる。  まるで降り出した雨のように、大粒の雫が机を濡らしていた。  宝石のように溢れるこの涙は本当に私のものなのだろうか?  久しぶりに舐めた涙の味は海のようにしょっぱかった。  彼女に、会いたい……っ  彼女に、会いたいよぅ!  会ってまた遊びたい! 会ってまた冒険したい! 会ってまた……笑い合いたい!  もし仮に、もし仮にだけど──  もし仮に本当にその望みが叶うのならば──  私はこの命、いや、この世界すらも投げ捨ててやる!  止めどなく溢れる涙もそのままに、視界に映る精油ビンを片っ端から手に取った。視界はすっかりぼやけている。しかし、いくら涙を拭ったところで無駄なことだろう。  こうじゃない、これでもない、こんなものじゃない──頭と感性をフル回転させて、さまざまなブレンドを試していく。  ラストノートにはシダーウッドを使おうか──?  この香りには子供時代を想起させるようなノスタルジックな印象がある。  突き抜けた感触を表現するからには、やはりペパーミントは欠かせないだろう。  トップノートには淡い甘さが欲しい。甘すぎない程度の優しい柑橘系といえば、ベルガモットが最適か──?  感性と知識が交差する。  熱くたぎる感情を具現化するには、磨き上げた技量と、確かな知識が必要だ。  私が作りたいのは、”良い匂い”なんかじゃない。  べつに、市販の香水のような、そんな”造られた”ものを作りたいわけじゃないんだ。  私は、『彼女』そのものを創り出す──  彼女の存在そのものを、この香りのなかに再現するのだ。  もしこれを聞いている人がいたならば、きっと私の頭がおかしくなったと思うだろう。  確かに、狂ってるのかもな。  でも、それでも一向に構わない。  なぜなら、それこそが『そーたすたじお』の真骨頂だったではないか──!  そのとき、無尽蔵に流れる涙の中から、ふいに一滴の雫が計量カップの底へと落ちた──まるで精油を垂らすように。  塩辛いその涙粒は、すでにカップ内でブレンドされたアロマオイルと混ざり合い、溶け合っていく……    これだ……  私はこのとき、はじめてその香りの中に彼女を感じ取ることが出来た。  あの日の海のように輝くその液体に、私は恐る恐る鼻を近づけてみる──  目を瞑り、意識を沈め、呼吸すらも止めてしまうように、その潮の香りに身を預けた。 (できた)  まさに灰となって燃え尽きた手は、小刻みに震えている。  私は、音も立てず計量カップをテーブルに置くと、全身の糸が切れたように背もたれに身を預けた。  ついに完成した。  私はほとんど放心状態のまま、その作品の姿を眺めていた。  私の目はカラカラに渇いていた。もう、からだ中の水分が全て流れ切ったような、そんな感覚さえある。  部屋の中には、”あのとき”の匂いが立ち込めていた。  無音の流れる頭の中で、私はこれからの事を考えた。  まるでエンドロールが流れきった物語のように、この先の予定はなにも考えていなかったのだ。  これをどのように使おうか?  本来この香りを作った目的は、私自身が彼女のことを忘れないために──との理由だったはずだが、今では私の考えは少しだけ変わっていた。  この香りを、世界中に広めたい。  香水、練り香水……形はどうだっていい。とにかく一人でも多く、人々の潜在意識の中に彼女の存在を刷り込ませるんだ。  私だけが忘れない為に──などと生温いことは言ってられない。  彼女は人々の記憶の中で生きる存在──  もし本当にそうだとしたら、大衆の記憶の中に彼女を定着させれば、彼女は再び復活するのではないか?  そうだ。きっとそうに違いない。  その時、ふと私の視界の端に、一枚のハガキが見えた。  テーブルの片隅に放置されていたそれは、高校時代の同級生から送られた、結婚式の招待状だった。  そういえばまだ返事を出していない。私はハガキを近くに寄せると、万年筆で丸を付けた──参加、と。  私は別に、友達の結婚が嬉しくて行くわけではない。  友達の晴れ舞台なんて、知らない。どうだっていい。  私が彼の結婚式に参加する理由はただひとつ──表向き彼らの結婚を祝いながら、お祝いと称してこの香水をプレゼントしてやるのだ。  いや、新郎新婦の二人だけでは不十分だ。他の参加者にも分け与えてやろうか──?  それなら大量に作る必要がある。出来るだけ多くの人にこの香りを届けるんだ。  しかし、あまり目立つようにやってしまうと、私は周りから痛々しい人間に思われてしまわないか?  ともすれば新郎新婦に迷惑が掛かることになりかねない……。  ──いや、そんなこと、今更どうだって良いんだ。  彼女が蘇るのであれば、私は悪魔にだって魂を売り渡してやる。  きっと彼女だってそれを望んでいるはずだ。  そして、  そしてもし、彼女とふたたび出会うことができたなら、今度こそ私は、彼女と交わしたもう一つの約束を果たすんだ。  どれだけ時間がかかってもいい。  いつか私たちは二人だけの『お城』を作って、彼女と……。  私はそう決意すると、万年筆を机に置いた。小気味よい音が、静かに響く。  すると一人っきりの部屋のなか── 「ありがとう」  ──と、だれかの声が聴こえた、ような気がした。
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