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やくそく
高速道路の単調な景色が、前から後ろへみるみる流れていっては、消えていく。
それはまるで、過去の記憶をタイムスリップするような映像だった。
思えば子供だったあのころには、こうやって自分一人で遠出なんて出来やしなかった。
しかし今の私は車を運転し、たったひとりでどこだって行ける。
道の行き方だって、カーナビに任せていればなんとでもなる。
目的地へは二時間ほどかけてたどり着いた。思っていたより近かった、というのが率直な感想だった。
ネットで調べた住所の付近をゆっくり走っていると、いずれそれらしき廃墟が姿を現す。たぶん、ここがあのときのリゾートホテルのはず……。
廃墟の空き地に車を停めたものの、あたりに人通りは見当たらない。どこに停めたって咎める人間もいないだろう。
車を降り、あたりを見渡すと、そこは私の記憶とはずいぶんかけ離れた景色だった。
場所が違ったか?
私の脳裏に不安がよぎった。
しかし砂浜側へと降りてみたとき、私の懸念はすぐさま払しょくされる。
──やはり、自然というものは変わらない。それは二十年以上たっても、同じことだった。
まるで記憶の糸を手繰り寄せるように、私は照りつけるような日差しの中、ひとり砂浜を歩く。
潮の香りが服を揺らす。まるであのときの賑わいが聞こえてくるようだ。
途中、古びた小さな廃墟が見えた。その木製の小屋は吹き曝された骸骨のように、骨組みだけが残されている。
ここはたしか、"あのとき"の海の家だったはず。
アナウンスで名前を呼ばれた際、私はなぜかこの店で声の主を探そうとしたのだ。
どうしてここに本人がいると考えたのか?
私は思わず苦笑する。
子供というのは実に不思議な生き物だ。
いま思えば、あのときの女性は何歳くらいだったろうか?
あの頃はずいぶん大人に見えたものだが、きっと今の私の年齢よりも年下だったに違いない。
思えばあの女性には申し訳ないことをした。
あの状況は今にして思えば、男としてはなかなかいい経験だったのではないか?
覚えている限りでは彼女は相当な美人だったはず。
きっとあの頃の私は、彼女の言うとおり"可愛かった"のだろう。
涼しい風が汗を乾かし、ふたたび汗が肌にあふれる。不安定な足場を渡るように、私は足元を見ながらただ歩みを進めていた。
一歩、一歩──
まるで、知らない間に年月を重ねるように。
やがて、いつのまにか現れた黒岩を前に、私は足を止める。それはまぎれもなくあの例の岩礁だった。
しかし、あの日絶壁の迷路のように入り組んでいたはずの岩礁たちは、案外そんな大したものでもなかった。
ともすれば登ろうと思えば登れるくらいの高さだ。
記憶の産物を前にして、私の心には、ある疑念が沸いてくる──
はたして『あの日』の出来事は本当にあったことなのだろうか?
なにせ二十年以上も前のことだ。
あとから夢とか妄想の中で、ありもしない事実を付け足していったために、いつの間にか自分の中で虚構の記憶が出来上がってしまったのではないか?
十分あり得る話である。
私は、まるでふたつの世界を隔てるような岩礁を前にして、なかなかその向こうを覗けないでいた。
なぜなら──
ごく常識的に考えて、人魚なんてものは、この世に存在しないからだ。
現実味を帯びた不安を胸に抱えながら、私は息を吸い込み、足を踏み出す。
そして私は、岩の陰から顔を出した。
彼女は当たり前のようにそこにいた。
まるで昨日から私を待ってたかのように。
「あ! きた!」
彼女の姿は二十年前とまったく変わっていない。
エメラルド色の尾を横たえた幼い少女が、あの日と変わらない笑顔で、こちらに向けて手を挙げていた。
「もう! ずっとまっててんで!」
「ごめん……その、久しぶりだね」
私が謝ると、彼女は屈託のない笑顔をこちらに向ける。
しかし、そんな彼女と対照的に、私の態度はどこかよそよそしい。
「そーた、めっちゃかわったなぁ! まえはあんな小さかったのに」
「はは……」
無理に笑ってはみたものの、続きの言葉が出てこない。
ここにきて私は、彼女と再会したときに掛ける言葉をいっさい用意していなかったことに気が付いた。
どこかぎこちない動きで、私は彼女の前へと腰を落とす。
「きょうはなにしてあそぶ?」
唐突にそう言われ、私はつい口ごもってしまった。
私は頭の中で、”子供が喜びそうな遊び”を必死で考えていた。
そして私が何かを言おうとした時、彼女が思いついたように叫んだ。
「すなあそびしよう! そーたってお城つくるんめっちゃうまかったやろ⁉」
「え?」
彼女はそう言うや否や、私の反応も待たずにさっそく周りの砂をかき集めだした。
言われるがまま、私は目の前の砂山に手を伸ばす。そして両手をすこしだけ触れてみた。
しかし──
そのあとの手順がいっさい思い浮かばない。
以前の私は、どうやってお城を作っていただろうか?
そもそも、最後に砂に手を触れたのはいつだろうか?
しばらくのあいだ、自信なさげな手つきで山を弄る私だったが、とても前みたいな力作ができる気配もない。
とうとう私はしびれを切らすようにして彼女に言った。
「あー……やっぱりべつの遊びにしない?」
「え~なんで~?」
彼女が駄々をこねるように口を尖らせる。
私はふと、その様子にどこか”演技臭さ”を感じた。だがそれは取り立てて気にする必要もないほどのささいな違和感だった。
私は手についた砂を丁寧に払いつつ、
「いや、ちょっともう、前みたいなのは作れそうにないや。
はは……前はどうやってあんなの作ったんだろね」
どこか弁解をするような口ぶりに、私はひとりで気まずさを感じていた。
「じゃあいっしょに泳ご!」
一瞬だけ顔を曇らせた彼女だったが、すぐさま表情を切り替え、私にそう提案する。
「うん。あ、でも──」
とりあえず頷いた私だったが、すぐ思い出したように、
「でも水着がないな……
じゃあちょっとだけ、浅いところで遊ぼうか?」
「こないだの洞くつ行こ!」
私はすこし困った。
別に行きたくないわけではない。しかし、私の記憶では、あそこに行くとなると海に潜らなければならなかったはずだ。
そうなればいよいよこの格好では無理だろう。かといって服をすべて脱いでしまうわけにもいかない。
さまざまな懸念が渦巻いたのち、私は彼女を抑えるようにして、
「じゃあ、ここでちょっと待ってて、すぐに戻るから。どこかで水着を買ってくるよ」
たぶん、どこかのホームセンターで水着くらいは売ってるだろう。車で行けばもしかしたら……
「え?」
その途端、ふいに私の腕が小さく握られた。振り返ると、彼女が私を引き留めるようにしてこちらを見つめている。
「おねがい、行かないで」
俯きながら、彼女は言った。
「もう、時間がないの……」
「それって、どういう……」
打って変わったような彼女の態度に、私はただそう呟くことしかできなかった。
「本当はそーたも知ってるんでしょ?」
急に彼女の方言が抜けた事とか、あどけなさが無くなったこととか、いま気になる点はそこじゃない。
私はただ呆然としながらその続きを待った。
彼女は絞り出すような声で、私にこう告げた。
「本当はね……
この世に人魚なんか存在しないの……
だから──」
そして真っ直ぐ私を見上げると、彼女は悲しそうに笑った。
「だから私も、最初から存在しないんだよ」
言葉を失う私に向かって、「はは……やっぱり昔みたいに振る舞うのは難しいね」と彼女はいじらしく笑う。
だが、当然いまの私には笑い返す余裕などない。
「なにを言ってるんだ?」
私は無造作に首を振っていた。
「君はたしかにここに”いる”じゃないか」
しかしそんな私とは対照的に、彼女はゆっくりと首を振る。それはまるで、ただ”分からないふり”をしている私を、すっかり見透かすみたいに。
そのときだった──
私の腕が、突然淡く光り始めた!
私は驚いて目を向ける。
しかしその光は、私ではなく、私の腕を握る彼女の手から放たれたものだった。
「あなたが、最後の一人だったんだよ」
彼女は全身から輝きを放ちながらそう告げた。
その姿はもはや人魚というより、天女と呼んだほうがふさわしい。
「ど、どうして⁉ なんで⁉」
私が取り乱したのは、彼女の体が光を放ったからだけではない。私の腕からは、徐々に彼女としての感触が失われつつあるからだ。
光り輝いているように見えたその体は、少しずつ光の粉となって霧散していたのだ。
「一緒に遊べなくて、ごめんね」
今まさに自身の体が着実に溶けていってるというのに、彼女はそう謝った。
「待って! いかないでくれ!」
私は焦った。
その弾みのせいか、つい私は彼女に目掛け、乱暴に手を伸ばした。
しかし、その手が彼女の肩を捉えることはなかった……。
まるで空を掴むように、彼女の体をすり抜けたのだ。
「そーた……」
彼女が私に手を伸ばす。やはり感触はない。
だが、彼女の手は、私の頬の上をうまく撫でる。
「本当に、強くなったね。昔はあんなに泣き虫だったのに」
彼女の言うとおりだった。現に今、私は涙を流していない。
でも、それは違う。
私はべつに強くなったわけではない。
これはただ、泣き方を忘れてしまっただけなんだ。
彼女が消滅していく様を、私はただ茫然と見守ることしかできない。
そんな私に対し、彼女はまるで最後の頼みとばかりにこう告げた。
「私のこと……いつまでも忘れないでね」
そういえば私は、前も同じようなことをお願いされていたような気がする。
いつか来るこんな日を怯えるようにして、彼女が私に懇願してきたのだ。
いちど約束を破っていることも忘れ、私はただがむしゃらに頷くのみだ。
「忘れないよ。きっと忘れない。
だから……
だからさあっ……!」
続きの言葉が出なかった。
切迫したこの状況から言葉を選び出すには、かけるべき言葉があまりにも多すぎるのだ。
そして、私がそうやって手をこまねいてる間に、その瞬間はとうとうやってきた。
彼女を包む光がいっそう輝きを増したことが、それを証明していた。
まるで最後の力を振り絞るように、彼女は微笑んで見せる。
「そーたさえ覚えていてくれたら、私たち、きっとまた、会えるはず……」
光の粒がまるで蛍のように美しく舞い上がる。
その中の一粒が、彼女の頬を伝っていったような気がした。
「きっと覚えてる。きっと覚えてるから……」
そう繰り返す私だが、それはなんだか自分に言い聞かせているようにも聞こえた。
そして──
「いつかお城で、いっしょに住めたらいいね……」
その言葉を最後に、夢のような淡い光は、完全に姿を消した──
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