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秘密基地
私はとくに動揺することもなかった。それは幼さゆえの事だろうからか。
だからこそ、彼女がなぜそんなことをしてきたのかも分からなかった。
ただ、わずかな水の音が反響する洞窟のなか、私たちは静かに唇を合わせていた。
(いったいなにをしてるんだろう?)と、純粋な心で訝しむ。
しかし、次の瞬間、私の口内が熱い空気に満たされた。
それは、まぎれもなく彼女の吐息だ。
その息吹は、彼女の口から私の口へ、艶めかしい熱をもって送り込まれてくる。
それは私の喉を潜り抜け、肺の中を生暖かく満たしていった。
やがて、私の唇から彼女の唇が離れていくと、暗闇のなかで彼女がニッと笑いかけてくるのが分かった。
「息できた?」
まるで一緒にどこかに隠れているときのような声で彼女は囁く。
私はなんども頷いた。
まるで特殊な能力を与えられた少年のように、とにかく顔が熱くなるくらいに興奮していた。
そして、目と目を交わし、再び唇を重ね合うと、ふたりはすっぽりと姿を消した。
まるで絵本のような不思議の国へ潜るように……。
* * * *
穴の中は真っ暗で何も見えず、まるで宇宙をぐるぐると回ってるみたいだ。
そんな上下左右の概念すらも取り払われた自由な世界を、私と彼女は飛んでいく。
ときどきふたりは導かれるようにして互いの体を引き寄せる。まるで互いの存在を確認し合うみたいに。そして私たちは互いに呼吸を分け合うのだった。
夜の大空を自由飛行──それは、まさしく忘れられないような体験だった”はず”だ。
しばらくのあいだ、私はこの非現実をなんの疑問を持つこともなく楽しんだ。
何も見えない綺麗な空間をふたりで漂う。
するとやがて、私の目と鼻の先に、ほんの小さな光明が灯った。
青く輝く、小さな星みたいだ。
手を伸ばせば届きそうなくらい、それはすぐ目の前で輝いているように見えた。
その光は、まるで膨張する様にみるみる大きくなってくる。
やがて私たちの頭上に広がったのは、青色に光る巨大な天窓──
まぎれもなく、それこそが光の正体だった。
彼女はその上空のガラス窓に向けてひらひらと上昇していく。
二人の目前までそれが迫った時、その一面の天窓はまるで魔法のように波紋を打った。
彼女は私を連れて、音も立てずに、まるで押しのけるようにしてその水面を突き破った。
大きく息を立てる必要はなかった。
ただ静かな水の音色だけを響かせて、私は優雅に顔を出す。
そしてそれは、彼女も同じだった。
「いけた? だいじょうぶやった?」
顔中を水滴で光らせながら彼女はニッと微笑む。
その蒼く美しい姿に、私は彼女が人魚であることを改めて感じた。
「みて。ここがウチの”ひみつのばしょ”」
彼女の視線を追うと、そこはぽっかりと開けた異次元の空間だった。
ドーム状に広がる岩壁は青く輝く水面によってライトアップされ、まるで洞窟内ぜんたいを青紫色の空気に染め上げているみたいに見えた。
神聖なまでの静寂さを内包したその空間は、もはやこの世のものとは思えないほど幻想的だ。
それこそまさに、『おとぎ話』の世界に迷い込んだように。
「すっげぇ……」
そんな言葉しか出なかった。しかしもちろん、その乏しい一言には万感の思いが込められている。
「ひみつきち」
と、私はそう口にしてみた。
男の子的には、やはりそう呼んだ方が気分が上がるものだ。
彼女は頬に張りついた長い黒髪をかき上げると、その指先を口元に添えた。
「だれにもゆったらあかんで。ここは、ふたりだけのヒミツやからな」
陸地は意外なほど平らに出来ていた。
私たちは岸辺に上がると、そこでふたり、隣りあって腰かけた。
洞窟内は時間が停止したみたいに、涼しい。
こんな青い世界で、私と彼女はふたりきりだ。
その瞬間は、まるでこの地球上のみんなが私たちのためだけに停まってくれているみたいに、かけがえのないものに思えた。
「なあ」
私はなにげなく呼びかけた。
彼女は人魚の尾を水面に入れたまま、小さく声を上げる。
しかし私はそれっきり言葉を発しない。
彼女の尾ひれに夢中になっていたからだ。
水面からゆっくりと、彼女の尾ひれが上がると、まるで宝石箱を掻き上げるように水滴が零れ落ちた。
「どうしたん?」
見ると彼女が窺うようにこちらを覗き込んでいる。
「なんで海って青いんかな?」
なぜ私がこんな質問をしたのか分からない。
ただ純粋な疑問をぶつけてみただけなのか……。
それとも、ここに来てからの彼女がまるで別人のような雰囲気を纏っていたせいで、すっかりドギマギしていたからなのか……。
「しらん」
彼女はあっさりと答えた。
「海におるくせにしらんの?」
べつに悪気があったわけではないが、彼女の意外な返答につい、そう口をついてしまった。
するとその言い方が癪にさわったのか、彼女はムッとした顔でやり返す。
「じゃあ、そーたはなんで空が青いかしってるん?」
「……わからん」
「陸におるくせにしらんの?」
彼女は口真似をしながら悪態をつく。
完全にやり返されてしまった私は、それ以上何も言えなくなってしまった。
それっきり、二人の間には気まずい空気が流れた。
彼女はずっと黙ったままで、私はなんとなく、彼女を怒らせてしまったのではないかとバツの悪さを感じていた。
そんな時間がじれったく、ここは一言謝ろうかどうか逡巡していると、
「そーた」
彼女はおもむろに私を呼んだ。
私は黙って顔だけを向ける。そこにはどこか思いつめたような様子の彼女がいた。
「ウチのこと、わすれたらあかんで」
唐突なその言葉に、私はつい呆気に取られてしまう。相変わらずこの人魚の女の子はなにを考えているのかがわからない。
私はやや反射的に、
「わすれへんよ」
と当然のように答えた。しかし……
「ぜったいウソや──」
ふて腐れるようにつぶやく彼女。
彼女はときどき、脈絡もなく不機嫌になる。
「みんなそう言うて、けっきょくウチのことわすれていくねん」
私には彼女が何の話をしているのか見当もつかない。だから二人の会話はとことんまで噛み合っていなかった。
「むこうがわすれてたら、しゃべりかけたらええやん……」
──ふんじゃあ思い出すやろ?──と、私はそう続けるつもりだった。
しかし、彼女が口を引き結び、首を振る姿を見て、私は途中で言葉を止めた。
「ムリやもん。しゃべりかけても、むこうはウチのことムシしてくる」
「なんで? だれかとケンカしたん?」
彼女はまた首を振った。また違うらしい。
そして、彼女は噛み締めるような唇で、こんなことを呟いた──
「みんな、ウチのことがみえてないみたい」
私は現在になって、彼女と出会った当初のことを思い出す。
前述したとは思うが、あのとき彼女は私に対してこんなことを言ったのだ。
──なあなあ、あんたってさ、ウチのことみえるん?
いま考えれば、彼女はあくまで『人魚』であり、その存在はあきらかに非現実的だ。
しかし、当時の幼少の私には彼女の言葉の真意を推理することなど到底できなかった。
「ぼくは……」
「そーた」
なにかを言おうとした私を彼女の言葉が遮った。
ちなみにそのときの私がなにを言おうとしていたのかは今になっても思い出せない。
そして、次に口にした彼女のセリフは、今でも私の耳に焼き付いている。
「もしウチがきえたら、ウチって……いったいどうなるんかな?」
その言葉の真意だけは、はっきりと分かった。
それは、私も夜、電気を暗くして寝るときによく考えていたことだった。
いちど考えてしまうと、実際に足のつま先からサラサラと消えてしまうような感覚に襲われる。
「わからん……だって、きえたひとは、もうしゃべらんもん」
「ウチ……きえたくない」
涙がボロボロとこぼれる音がする。それは、まるで人魚のように、純粋で、きれいな音を奏でていた。
「──ってなんで⁉ なんでそーたが泣いてんのよ!」
懸命に涙を我慢してたであろう彼女からすれば、はなはだ馬鹿々々しかったに違いない。
「だって、きえたくないもん……!」
私は震える声で叫んだ。
「なんでそーたがきえるんよ⁉」
「だって、だれだっていつかはきえてまうねんやろ……!
きえたら……ぼくがきえたら……
なにもかもぜんぶきえてまうねんもん!」
──自分が死ぬと、自分が見ている世界も消滅してしまう。
子供にとって言えば、それはすなわち世界そのものが消えてしまうのと同じことだ。
さらには、死にたくないという感情すらも"死んでしまう"ことが、当時はなによりも怖かった。
「もう! そーたはほんまになきむし!
ウチだってきえたくないのに……っ!
ウチだって……っ!
ウチだってこわいのに……っ!」
最初は私の泣き虫に怒っていた彼女だったが、徐々に感情が高ぶったのか、それとも自分の未来をリアルに想像してしまったのか、しまいには私に負けないくらいの大声で泣き出してしまった。
いま思えばこの時こそ昨日からかわれた仕返しをする絶好のチャンスだったろう。
しかし、私も泣いていたことが痛恨の失敗だった。
私たちは二人して号泣した。
隣どおし、並んで座って、前を向いて泣いている。
まるで同じ時間を分かち合うように。
それはまさしく、お互いが、たしかにそこに存在している証明だった。
ロマンチックに光るウルトラマリンブルーの洞窟に、あどけない二つの泣き声が共鳴している。
そんなとき、私の視界にふと、水面に浮かぶ二つの影が映った。
彼らは情けない顔を二つ並べ、仲良く一緒に泣いている。
その姿がなんとも滑稽だ。
「そーた……っ!
泣き顔……っ!
おかしい!」
彼女はまた馬鹿にしてきたが、そういう彼女だって泣いている。
「そっちだってっ、
……なきむしやんっ!」
私も負けじと応戦する。
すると、今度は二人して声を出して笑いだした。
それはもう泣いているのか笑っているのかわからない有様だ。
そのことがさらに二人の笑いを誘う。
もう今となってはなにが悲しくて泣いていたのか、なにが可笑しくって笑っていたのか判別すらつかない。
気が付けば私たちは、顔を見合わせて笑い転げていた。
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