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マジョラムスイート
洞窟を出ると、私たちは最初に待ち合わせをした場所にまた戻ってきた。
ふと浜辺を見れば、そこにあったはずの私のお城──いや、彼女に譲ったのだから『彼女のお城』か──が崩れている。
正直なところ、私はお城を作ったことなんてほとんど忘れていた。
しかし、彼女にとってはそうでもなかったらしい。
「せっかく作ってくれたのに……」
無様に晒されたお城を前にして、彼女は悲しげにそう呟いた。
そんな姿に、なんだか私もいたたまれない気持ちになってくる。
「また作ったるやん」
深く考えず口に出した一言だった。
「ほんまに?」
「うん。今度は本物のお城作ったるわ」
となぜか途方もないような見栄を張る私。
「めっちゃうれしい!
あ、じゃあ、そーたもいっしょに住も!」
「え?」
彼女の急な申し出に、思わず変な声が出た。
「だってお城やねんやろ? ひとりやったらひろすぎるやん」
ふと私の頭の中で、まるで夢の国のようなお城での生活が映し出される。
そこにはもちろん、ドレスに身を纏った彼女もいた。
「そうなったらウチらさ──」
彼女はあくまで無邪気な声で言った。
「ウチらまるで、『フウフ』みたいちゃう?」
「フーフ?」
はじめて聞く単語だ。たぶん、『ケッコン』とかだったらまだ理解できたのかもしれない。
「うん。ふたりでいっしょにくらすことを『フウフ』っていうねんで」
彼女の説明も今にして思えばだいぶ雑ではある。
だがその頃の私からすればそれくらいがちょうどよかったのかもしれない。
「それおもしろそう!」
「やくそくやで! いつか大きなったら、ウチらフウフになろな!」
指切りをしてから、私は足を踏み出した。
すると、「ちょっと待って」と、背中から彼女の声が掛かった。
「あしたもまたあそぼな!」
うん、と当然のように私は頷く。
そしてその後にも、
「ぜったいあそぼな!」
と付け加えたことも──
私は”はっきりと”覚えている。
* * * *
寝ぼけた目を擦ってみると、せわしなく右往左右する家族の姿が目に映った。
なにしてるんだろう──? と、ぼうっとしていると、
「早く用意し! もうチェックアウトせなあかんから!」
と、母親の怒号が飛んできた。
「もう帰るん?」
私がぼやけた声で尋ねると、また何事か怒鳴られてしまった。
そういえば私はこの旅行が何泊の予定だったのか、何日に帰る予定だったのかをまったく把握していなかったのだ。
身支度を終えた私たちは、ホテルを出てからすぐに車に乗り込んだ。
ふと窓から、例の岩礁の群れが小さく見える。私は彼女との待ち合わせのことを思い出していた。
しかし、いよいよ車を発進させようという時も私は何も言えなかった。
どうせ何か言ったところで、先日のように馬鹿にされるに違いない……。
そしてそれ以降、私が再びあの場所を訪れる機会はなかった。
彼女との約束を置いてけぼりにしたまま、ただ年月だけがさざ波のように押し流されて行った。
中学、高校では部活に励み、大学では遊びとバイト三昧、それから就職活動にあくせくし、サラリーマンとして心身をすり減らし……。
徐々に体と心が大人になっていくなかで、人魚と過ごしたたった一日の思い出などすっかりと色あせていった。まるで、滲んで読み取れなくなった文字のように。
そして気がつけば、私の年齢は三十歳を迎えていた。
* * * *
ある日、お盆の大型連休に入った頃のことだ。
私はなにもやることもなく、ただ家でごろごろとテレビを眺めていた。
ごく当然の如く、私は独身である。恋人と呼べる人すらいない。
もちろん、女性に縁のない星のもとに生まれたこともあるだろう。しかし──
たったひとつ”強がり”を言わせてもらうと、私はとくに恋人を作りたいと思ったこともなかったのだ。
大きなあくびをしながら、最近よく見る夢を思い出していた。
──不思議な夢だ。あまり憶えていないが、自分がおとぎ話の世界に入る話だったような……
もちろん、それがどんなお話だったのかは覚えてはいない。
テレビでは朝の情報番組が、さまざまなVTRを交えながらニュースを垂れ流している。特に興味もなかったが、まあBGMがわりにはなるだろう、私はテレビをつけっぱなしにしながら作業机に座った。
目の前には無数のアロマオイルの瓶が乱立している。これこそが私の最近の趣味だ。
今日はなんのブレンドを試そうか──?
と、私は手頃なアロマ瓶を手に取ってみる。
蓋を開けては匂いを嗅いでみて、別の香りも嗅いでみて、物思いに耽るように、香りのイメージを膨らませた。
ちょうどそのころ、テレビでは例のパンデミックによって大打撃を受けた観光業界の現状を嘆いている最中だった。
なにやら旅行客の激減により、リゾートホテルの閉館が相次いでいるらしい。
VTRの映像では閑散としたビーチや、寂れたホテルの様子などが虚しく映し出されていた。
上空から撮影されたであろう景色──広大な真っ黄色のビーチが、まるで齧られたビスケットのように水色の波に浸食されている……。
どれも行ったこともない、見知らぬ土地の話だった。
まったく、世知辛い世の中だ──私は他人事のように考えながら、テレビの電源を消した。
リモコンを置くと、私は代わりに『マジョラムスウィート』の瓶を手に取った。
この精油は最近購入したばかりのものだ。私は何の気も無く、瓶の蓋を開けてみる。
甘く、ツンとした香りが鼻腔を貫いた──
懐かしい。
私はふと、最近よく見る夢のことを思い出した。そういえば夢を見るようになったのも、この精油を購入した頃だったか?
瓶の蓋を閉めると、今度は背もたれに身を預けた。
そして何もない宙ぶらりんの空間を見つめながら、私は空想に耽った。
この大型連休も、私は特になにもしないのだろう。
べつにそれ自体は苦ではない。特に何がしたいというわけでもないし……。
ビーチリゾートが廃れていたって、私には関係のない話だ。もともと海はあまり好きじゃない。私は典型的なインドア派なのだ。
映画を見ようか? 小説を読もうか? アニメを見ようか?
──さまざまな提案が頭を巡るが、どれもあまり気が乗らない。
べつにワクワクしたい気分でもないし、感動して涙を流したい気分でもなかった。
あまりにも暇だったので、私は部屋の片づけをすることにした。
なにをすべきか分からないときは、部屋の掃除でもしておけばいい。
複数ある時間消費の方法としては、まだ有意義な方だろう。
ふすまの中には引っ越したとき以来さわってもいない段ボール箱が放置されている。
たぶんこの機会に整理しなければ、もう金輪際この箱に触れることはないと思う。
私は中身を空け、古い本や漫画などを取り出していく。
これらを古本屋で売ってしまえば多少の金には──ならないまでも、精神的な部分では多少すっきりするのかもしれない。
ふと、CDケースの奥に、何かの紙片が顔を覗かせているのが見えた。
なぜか無性に気になった私は、いつ何のために買ったかも思い出せないダビング用の空CDを取り出してみる。
するとその下に隠れていたのは、一枚のA4用紙だった。慎重に箱から取り出すと、懐かしい埃が舞った。
紙はすっかり古くなって、黄ばんでいる。
そこには下手くそで幼稚な字で、こう書かれていた。
『そーたすたじお』
そうだ──確か……私はむかし、こんなバカなことを言っていたような気がする。
恥ずかしいような、それでいて微笑ましい記憶が私の脳裏に蘇る。
その思い出の品をどうしようかと扱いに困っていると、私はさらに箱の奥に何かを見つけた。
片付けの途中に思い出に浸るのはよくある話だ。
箱からその品を取り出すと、それは一枚の写真だった。
海をバックに撮影したであろう、遥か昔の家族写真。
両親も今よりずいぶん若く、連れている子供なんて一瞬だれだか分からない。
なんとか目を凝らして、やっとどれが自分か分かったくらいだ。
なぜこんなものが一枚だけ私物に紛れ込んでいたのかは分からない。
いつ入れたのかは全く覚えていないが、まあそんなこともあるのだろう。
しかしだ──
それにしても、私はこの写真を見た瞬間、ひどいデジャヴを感じていた。
昔の記憶だからそう感じて当然なのだろうが、それも違う。
私は直感で思った──
これは最近よく見る、夢の一部だ。
すると私は立ち上がるや否や、スマートフォンに手を伸ばす。
立ち上がる際、誤って足元の空のCDケースを踏んづけてしまった。
スマートフォンを手に取ると、ほとんど無意識的に指を動かした。
そしてそれを耳に押し当てた。
数コールのあと、電話口から声が聞こえた。
「どうしたん?」
相変わらず呑気な声だ。
私は写真を眺めながら言った。
「ああ、オカン。ちょっと聞きたいことがあって」
どうしたん?──とさっきと同じ調子の声。
「あのさ、昔の写真が出てきてさ……」
と、そこまで言ってから、私はいまさら気がついた。電話で写真のことを尋ねても仕方がない。
「ちょっと待ってて……」
と残すと、私は通話したままスマホ画面を操作する。
「……いまラインで画像送ったんだけど、見れる?」
「う~ん、待ってや~」
母親は今から、私がスマホカメラで直接撮った写真の画像を確認するのだろう。
私は電話口の雑音を聞きながら、妙な緊張感を持って部屋の中に立っていた。
そしてしばらくすると、
「なにこれ?」
母親がふたたび電話口に出た。
「覚えてる?」
私はできるだけ、平静な口調を心掛けた。なぜそうするのかは、自分でも分からない。
「めっちゃ懐かしいな。いつの写真やろ? なんでやのん?」
「いや、なんか……荷物を整理してたら出てきたから……」
「う~ん……覚えてないな」
私は静かにため息を吐く。
まあ、それはそうだろう。背景はただの海だ。こんな昔の写真、覚えているほうが不思議なくらいだ。
すると私が諦めて話を切り上げようとしたとき、母親が相変わらずな口調でこう言った。
「日付はいつって書いてあんのん? ちょっと見えへんわ」
「日付?」
呟きながら、私は写真を目の前に向けた。
写真の右下には、まるで暗号とも思えるような二桁ずつの数字が並んでいる。
思い出した。そういえば、昔の写真には日付が記されているのだ。
私は並んだ日付を唱えてみる。
すると母親はしばらくその日付を繰り返しブツブツ呟くと、
「ああ!」
なにか懐かしい物でも見たかのような声を上げた。
その声に、私はピタリと動きを止める。自分でも気付かない間に、私は作業机の前に腰かけていた。
「そうやそうや!」
母親は声を高らかに叫んでいる。そして私に言った。
「これ、アレやないの! あんたが海で溺れたときやん!」
また、夢の記憶が舞い降りる。
その間、母親はまるで堰を切ったようにその当時のことを一方的にしゃべり続けていた。
その際に、地名も、ホテルの名前までも同時に答えてくれた。もちろんすべて聞いていたが、私はまるで話を聞いていないみたいに、ずっと黙っていた。
「でももうこのホテルとっくの前に潰れたみたいやな~。
でもどうしたん? なんでいきなりこんなこと聞くのん?」
ふいにそう問われた時、私はなぜか慌てて取り繕った。
私は、「なんでもない」と、無理やり話を終わらせると、通話を終了した。
「……」
静かになった部屋の中、私は背もたれに身を預けている。
目の前には懐かしい写真と、マジョラムスウィートのアロマ瓶。
無言のまま蓋を開けると、私はそれをアロマストーンの上に垂らしてみた。
目を閉じると、目の前一杯に青い世界が広がった。
透明な泡が、心地よい音を立てて私のからだを包みこむ。
爽快感が鼻の奥を刺激し、手を伸ばす先には甘い輝きを放つ太陽。そしてその先から現れる影は……
──なるほどな。たしかに似ている。あのときの匂いと。
記憶のパズルがすっかり填まった今、私は椅子から立ち上がった。
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