スーパームーン

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ホルマリン漬けの瓶に、月光が透けてゆらめく。 骸骨と人体模型の影が伸び、仲良く親子の影をつくる。 試験管の水滴が、照らされて奇妙な模様をつくる。 「…つかれた。」               *  理科室はいい。夜は不気味だなんてよく言われるけれど、私にはこのひとときがたまらなく美しく見える。真っ暗な理科室に座っている私の方が不気味だとよく言われるが、安月給で深夜まで残業しているおっさんに、少しくらいお目こぼしをやったっていいじゃないかと思う。  私は理科の教員。理科を愛し理科に愛された男。と言えば聞こえはいいが、実際研究者にも普通のサラリーマンにも向かずとりあえず理科の教員としての道を選んだ、しがない平凡なおっさんだ(前に「彼女いるんですか?」と聞かれ、カッコつけて「理科」と答えたら、「へえ、リカちゃんっていうんですねえ、しかも呼び捨てなんて意外と大胆なんですね」と盛大な勘違いをされた。慌てて訂正したら、めっちゃ嫌悪感のこもった目で見られた。平凡ではなく変態認定されているかもしれない)。だからと言ってもの凄い苦労をした、というわけでもない、本当に、普通に幸せで、普通に不幸せな人生を歩んできた。いや、好きな理科を仕事にできているだけ、私は幸せ者の部類に入るのかもしれない。  試験管を洗い、乾燥棚にかけ、帰り支度をする。 ホルマリン漬けの瓶に、月光が透けてゆらめく。 骸骨と人体模型の影が伸び、仲良く親子の影をつくる。 試験管の水滴が、照らされて奇妙な模様をつくる。  ーーデジャヴ?  見たことがある気がする風景。  (まあ…そりゃ毎日ここにいるんだから、既視感も何もあったもんじゃないか)それよりも、腹が減ったので早く帰りたい。                 *  月がやけに大きかった。そういえば、いつものお天気キャスターのお姉さんが今日はスーパームーンだって言ってたな。空を見上げる。逆光になった校舎に、月が映える。そして黒い人影がなんともいえないムードを…ん?は? ………屋上に人がいる⁉︎⁉︎⁉︎⁉︎  私は、慌てて屋上に通じる道を探した。非常用階段が目に入り、急いで駆け上がる。屋上は普通、人の出入りが禁止されている。生徒に限らず、教師をはじめとする職員もだ。別にいい景色が見られるわけでもないので、危険をおかして登ろうとする者は滅多にいない。そもそも、外階段を使わないと屋上には出られないのだ。そんな面倒なことをしてまで屋上に入り込むなんてーーまさか。  ようやく階段を上り切る。息があがる。五十路を目前に控えたおっさんにはきつかったか…息がゼーゼーどころかヒューヒューシュコーシュコーいっている。え、ここで死んだりしないよね?大丈夫?  そんなシュゴシュゴいってる私に見向きもせず、縁に座っていたのは、小学生か中学生くらいの男の子だった。まだあどけない顔をしていて、肌は小麦色に焼けている。膝頭には勲章のバンソウコウがピタリと貼られていた。スーパームーンをじっと見ている。私は、普通の表情をしていることを見て安心する。 「おい君」 少年がビクッとこちらを振り向く。私は安心させるようにできるだけ柔らかい声で話しかけた。 「こんなところで何してるんだい?ここは本当は立入禁止なんだよ」 「…月見てた。今日、なんか、デケーから。」 声変わりとの境目くらいの、まだ少し高い声。意外と幼く聞こえる声だった。 「そうかあ、でもなんでここに?危ないじゃあないか」 「そうだな、変質者も出るみてーだし」 変質者呼ばわりされて心が複雑骨折しかけたが、堪える。(考えてみれば、もじゃもじゃ頭のおっさんが屋上に全力ダッシュで駆け上がってきた時点で、悲鳴を上げられていてもおかしくなかった) 「おじさん、ここの教員なんだ。一緒に降りよう、鍵閉まっちゃうぞ」 「あ、いーよ別に」 ? 「え?」 「最期にキレーな月みれたし、そろそろいこうかな」 「行くって…」 「理科室」 ?? 「何しに?」 「、いやだから、」  いくんだよ。 ⁇?? その少年は、物分かりの悪い子供に教えるように、「つまりー」と逡巡した後、 「死ににいくんだよ」 と、 いった。                 * 「え………」 それ以上言葉がでなかった。 「俺さー、学校でいじめられててさー」 つらくてさ。 別に生きててもいいことなくてさ。 じゃあ、もういっかなーって。 「理科の実験でさ、先生がさわるとキケンだっていってた薬品があってさ、あ あ、それ飲んだら多分死ねるなーって。理科好きだし、だから…」 言葉が頭に入ってこない。この子は、 この人は、 まるで『このゲーム飽きたからやめちゃえ』みたいな。 すごく軽いノリで、『死』を語った。 どうする?どうすればいい?止めなければいけない。けどどうやって?どうすればどうすればどうすればどうすればどうすればどうすればどうすればどうすればどうすればどう 「もう、さ」 つかれたんだよ。 つかれた。 ……… 「…ふ 「ふざけんじゃねえよ!」 意識よりも先に、口が動いていた。 「つかれた?死ぬ?冗談じゃねえよ!つかれたなんてみんな一緒だ!生きづらさ感じてるやつがお前だけみたいな言い方するんじゃねえ!悲劇の主人公気取りか!?ああ!?」 男の子は、さすがに驚いたようで、ビクッと肩をすくめる。だが、それしきのことで私の口は止まってくれなかった。 「いじめ?ああそうだなぁ、辛いだろうよ。だがなあ、人生学校だけじゃねえんだよ、仕事だけじゃねえんだよ、家庭だけじゃねえんだよ!居場所ねえなら、自分で作ってみろやあ!」 「そ…そんなこといったって…」 「文句あんのか」 「あるよ!  あんたに何がわかるってんだ!当事者でもないあんたに!どうせ今まで、のほ  ほんとテキトーに生きてきたんだろ!なんでそんなやつに人生語られなきゃ  いけねーんだよ!」 「テキトーなんかじゃねえよ!‼︎‼︎」 はたからみれば適当で、平凡で、つまらない人生なのかもしれない。 one of them の大多数の、十把一絡げでくくれる人間なのかもしれない。 「だからって、自分の人生捨てたりしてねーよ! 「挫折も後悔も絶望も悲哀も裏切りも鬱も苦しみも憤怒も、いろんな感情乗り  越えてきてんだ!」 こんなんでも、 たった一つの人生なんだ。 「テキトーに生きてるのはお前の方だろうが!簡単に死ぬとか言いやがっ  て!」 「………っ!」 痛いところをつかれたのか、顔をしかめる男の子。 「自分が死んだら神様からいじめっ子に罰が下るとでも思ってんのか?あめー  んだよ!世界はーー」 悲しいくらいに自由で。 悲しいくらいに理不尽で。 悲しいくらいにまわっている。 「だから自分から動かなきゃ変わんねーんだよ…………!」 息が切れる。本日2度目だ。男の子の方は、今にも泣きそうな、崩れ落ちそうな顔をしている。 …というか、何をしているんだ私は。いきなり現れて説教するなんて、本物の変質者ではないか…。 でも、 なぜか、ほっとけなかった。 「居場所がねえってんなら、 最期ではなく最後に、言いたかった。 「いつでも理科室来い。いくんじゃなくて、実験でもしよう。」                 *  昨夜のことは夢だったのではないかと思うくらいに、いつも通りの朝を迎えた。男の子はまだ生きているだろうか。生きようと、思ってくれただろうか。  あのあと、若干不貞腐れたような男の子を無理やり屋上から地上に引っ張ってきて、スーパームーンを見上げながらてくてく歩いた。男の子の家まで送っていきたかったが、男の子は「いい」と断った(自分でわかるからいいという意地なのか、変質者に家の場所を教えないようにするしっかりした警戒心なのかは分からない)。その後のことはよく覚えていないが、どうやら普通に帰ってきたらしい。しかし何か食べてはいなかったようなので、−8分目くらいの腹に何か入れようと冷蔵庫を漁る。  いつ開けたかわからないランチョンミートと真っ白な卵を取り出し、フライパンに放り投げた。フライ返しを探す。ーあった、左か。右手でフライパンの蓋を取り、そのまま被せる。と、その時、フライパンの蓋のガラス窓部分に映った自分の顔を見て、愕然とする。  ーー昨日の男の子の顔にそっくりだった。  …そうか。今更ながら分かった。どうして立入禁止の屋上から見える景色が、大して綺麗でないことがわかったのか。なぜ、屋上に立つ人影を見て、すぐに自殺の可能性に繋がったのか。  簡単な話だ。  自分が“そう”だったからだ。  あの日、スーパームーンのあの日、私はあの学校の理科室で薬品を飲んだ。  その時に見た、ホルマリン漬けの光や、試験管の影。それはとても美しかった。大して私は、みっともなく床に転がり、光を遮る邪魔者でしかなかった。美しいの対極に位置していた。  そうだ、なぜ忘れていたのだろう、私はーー“普通に幸せ”ではなかったのに。 「………………はっ」  声が漏れた。自分に都合の悪い記憶を消し去っておいて、よくもまあ、人生論なんて語れたものだ。  けど。  自分を助けるというのも、悪い気分じゃない。  彼がスーパームーンの見せた幻だったのか、自分が別の世界に迷い込んだのかはわからない。だが。  一度死にかけたこの命。  生かしてみせようじゃないか。  あの少年に、負けないように。 次のスーパームーンは、10年後。
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