納戸神

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納戸神

 ああ。勘解由小路への怒りが、粘着質な、異様な空気を全て蹴散らした。  身に纏わり付いていた、ヌメっとした感覚が、綺麗さっぱり消えていた。  解った上のことだろうか。きっとそうだ、あいつは。  探せというなら探してやる。記憶を辿りながら、島原は歩き出していた。  改めて思い起こしてみると、曾祖父との思い出は、殆ど残っていなかった。  ひたすらなまでに、島原を愛していたという感覚だけがあった。  あの馬鹿が、あると言った以上、必ずあるのだろう。  永遠の叡知、ソロモンの指輪。あいつの言葉に嘘はない。  静かな故郷の風景を、島原は歩いていた。  あいつは、ここをベツレヘムだと言っていた。ならば、  かつて、あの馬鹿ともう1人の3人で回った記憶を辿りに、島原は進んだ。  有り得ない。まさか、こんなことが。  確かにここは過疎が進んだ寒村ではあるのだが、それにしても、出来すぎていた。  村の東南に、島原の生家があった。  家の前には、なだらかな道があって、そこを走っていくと、やがて分校がある村の中心地にたどり着く。  ゾワゾワしている。確かに、縮尺で言うとそうではないが、ここは、間違いなく、かつて観光したベツレヘムなのだった。  なら、ならば、あそこがきっとある。  島原は、北を目指した。  確かに、曾祖父との記憶はないが、それでも、共同体における、曾祖父の存在感を、島原は感じていた。  1度だけ、島原は、曾祖父が祈りを捧げているのを、側で見たことがあった。  そこは、薄暗い狭いあばら家のようなところで、部屋を照らす蝋燭の明かりと、板壁の隙間から漏れる、細い陽光が差していて、低い声で、曾祖父のオラショが聞こえていた。  飾り戸棚の傍らに、設置されていたお掛け絵は、雅に描き出された、日本画の受胎告知があった。  あばら家を出た先には井戸があって、曾祖父が、水を汲んで飲ませてくれた。  気が付くと、島原は走り出していた。  村の北限は、切り立った崖になっていて、隘路のような急坂になっていたが、それでも、島原は隘路を駆け上がっていく。  ここが、ベツレヘムを模した位置関係にあるなら、曾祖父は、既にこれを見出していたに違いない。  ゼエゼエと息を吐いて、切り立った崖の側道を上った先に、それはあった。  苔生した小さな廃屋。廃屋脇の井戸。  強い悪寒が、身を走っていた。  教会の体をなしてはいないが、確かにここは、受胎告知教会だった。  聖母マリアの前に、天使ガブリエルが降臨し、井戸に立つ彼女に、預言者の受胎告知をしたという奇跡の痕跡。  網元の立場故に、曾祖父はそこを発見したのだ。  そして、人知れずこの小屋を建てた。井戸は飾りではない。地下水と繋がっていた。俺は、そこの水を曽祖父と飲んだのだ。  ここで、曽祖父はオラショを歌っていたのだ。  確かに覚えていた。島原は、何度かそこに通っていた。  祖父にも、両親にも告げることなく。  6畳ほどの狭い小屋の中は、土が剥き出しになっていた。  上座には、扉で区切られた納戸があり、そこには、アンデレ十字(クロス)が振舞われていた。  島原は、納戸の扉を開けた。  開けて、島原は息を飲んだ。  納戸の中には、何もなかった。殆ど全てが持ち去られていた。  普通あるはずのマリア観音の姿はなく、1枚のお掛け絵だけが残されていた。  お掛け絵は、日本風な筆致ではあったが、受胎告知と、キリスト降誕ののち、3賢人がヘロデ王の元を訪れた絵に、間違いなかった。  この小屋は、未だに使われていたことは明白で、ここで、一体誰が、何の為にオラショを?  ガタリ、と音がした。島原は振り返った。 「お前は――」  いつも大きな背中が遠ざかった記憶、広島カープのキャップを被った、大きな子供。今も変わらない、その面差しは、 「――道隆か?」  分校時代の、年上の生徒だった。子供組の頭だった道隆は、今は、漁師の格好で、ジャンパーに漁協のキャップを被っていた。  道隆は、無言でオラショを口ずさんでいた。  黙殺して、島原は口を開いた。 「曾祖父が死ぬ前も、死んだあとも、ここは、礼拝所として機能していたんだな。お前か?納戸から曾祖父の遺物を持ち出したのは」  道隆は、鉛のような目で、こちらを無言で見つめていた。 「答えろ!誰が曾祖父を殺した?!その、無言で唱えているオラショは何だ?!」 「さいわいなるさんと様に祈り奉りてパライソへと至らん」 「何?」 「孕み小屋に参るぞ。ここはあんげる様が、聖母マリヤ様が孕みたる場所にして祝福された」 「何を言っている?!」  島原は、道隆に掴みかかった。 「何だ?!何が言いたい?!俺は、お前達とは違う!オラショなんぞ知らん!俺にそんな文句が通じると思うな!さんと様?!それは何だ?!お前達が信仰しているそれは何だ?!」  道隆は、目に見えて怯えていた。震える手で、島原を指差して言った。 「さんと様はお導きになる」  もう耐えられなかった。島原は、かつての学校仲間を殴り飛ばしていた。 「くっーーうう」  道隆が吹っ飛んでいき、焼けるような痛みが、手に広がった。  血か、汗かは解らないが、殴った際、道隆から分泌された何かが、島原の手の皮膚を侵食していた。  小屋の外に(まろ)び出た道隆は、震えながら這い蹲り、震える手で挙げられた手の上に、古びた、ミニカーが乗っかっていた。  手の痛みに耐えながら、島原はそれを見た。  確か、小学校に上がった直後、道隆が集めていたものだった。  マシンロボ。だったか?俺はあまり、欲しいと思わなかったが。 「マシンパズラー、だな?マシンロボは、タカラトミーのメインアイテムだったな?」  突如、外から声が聞こえた。  その馬鹿は、道隆が捧げているものを、興味深そうに見下ろしていた。 「ちなみにだな。俺も興味がなかった。マシンロボには」 「何を言っているんだ?お前は?」  話の本質が、訳の解らん方向にそれていった。 「まあいい。ところでこんな話があるな。東の空を走る星を見た3人は、ヘロデ王の元を訪れこう聞いた。ユダヤの王はどこにいるのですか?ヘロデ王は即答した。門前の柏の木を切り倒せ」  だから何を言い出すんだこいつは。  突然現れて、宗派がごっちゃになったことを言ったのは、そして、こんなふざけたことを言う奴はもう決まっていた。 「勘解由(かでの)――小路(こうじ)」 「ん?ちょっと伝わらなかったかな?」  ある日、僧が趙州(じょうしゅう)和尚に聞いた。達磨は何故西から来たのか?庭の柏の木だ。  またある日、仏弟子の迦葉(かしょう)が、釈尊から貴方は金の袈裟の他に、何をもらったのか?と阿難(あなん)に聞かれた。迦葉は阿難を呼んで言った。門前の旗竿を倒せ。  間違ってるし、混ざってるし。何が門前の柏の木だこいつは。 「仏か神かどっちかにしろ!しかも間違ってるぞお前!庭の柏の木だ!門前の旗竿と庭の柏の木は違うぞ!」 「ええ?そうだったっけ?まあいいや。大体、納戸に何もなかったのは、俺の所為じゃないだろうが。更に言うとな。おい、お前、洗礼名は何だ?バルタザルか?メルキオールか?カスパルか?ずっと島原を監視してただろう?お前はその為だけに遣わされていた訳だ。お前の上の奴等に」 「俺の監視、だと?どういうことだ?」 「言わんならおしおきしてやろう。聖なるビブーティーを食らえ」  また宗派が違っていたことを言い、勘解由小路が軽く振りかけたものに、道隆は悲鳴を上げて、身を捩っていた。  わずか数粒、振り掛けられたそれは、道隆の頬に当たった瞬間、忽ち白く焼け上がり、かすかな煙を上げた。 「い、いいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいい!」  道隆が、苦痛に満ちた声を上げていた。 「まあ、よく考えたら、お前達に試すまでもなかったんだよな。眼鏡おっぱいは同郷だが出身地がそもそも違うし、お前はブライトンビーチに蹴り込んだことがあったよな?そのあと殴りかかってきて、またポーンと飛んでった」  思い出したくもない思い出だった。確かに本気で殴りかかって、何故か遙か彼方に飛んでいって、通りがかった漁船に救助された。 「まあ礼は要らん。どうせトキの金だし」  まあそれはいいどうでも。 「お前が振り掛けたのは、塩――か?何故だ?道隆は漁師だろう。常に潮風に当たっているはずだ」 「ナメクジみたいな人間がいたとして、塩で溶けるのはまあ解る。ただ、塩水かけるとどうなるかは解らん。乾燥して、それで死ぬのかな?要するにこいつ等は、生きていること即ち苦痛なんだろうな。オプスデイがシリスを巻いて、自らを鞭打つのと同じだ。お前の曾爺さんもそうだった。人を取る漁師になるには、どうしてもそうなるしかなかったんだろうな。バルタザル、メルキオール、カスパル。そして12人の使徒。お前の曾爺さんはどれだろうな?いや、現状得た結論としては、共同体の中では、それはユダだった。村人全員が、お前の行動を知りたがっていた。その情報をもたらしてくれた、この漁師と曾爺さんは、かなりの地位にいたことになる。だが、やがて曾爺さんは共同体を裏切ることになった。ポウロは転んでユダとなり、この受胎告知教会は、こいつの管理下に置かれることになった。マシンロボもらっとけよお前。だから」  何を言っているんだこいつは? 「曾祖父が、俺の動向を、連中に漏らしていたと?だが、ついこないだだぞ?曾祖父から電話をもらったのは。しかも――元気でな?と」 「それが、裏切りの証だったんだろうな。曾孫のお前の情報なんか、知ろうと思えば容易に知れたのにな。何故か曾爺さんは口を閉ざしていた。さながらガリラヤの閉じた二枚貝のように。共同体における、曾爺さんの信頼は揺らいでいた。恐らく死んだのは、その電話のあとだったんだろうな。最期の言葉だそれは」  ああ、それなら。  電話口から、村人達のオラショが聞こえていた。  それは、つまり、 「ああそうだ。お前の曾爺さんを殺したのはな?例の、さんと様とやらを拝んでいる、村人全員だったことになる」  唐突に、真相がもたらされていた。
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