小野寺さんは結婚したい

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6月4日(日)今野サキの結婚披露宴会場にて 『まさか、サキが最初に結婚するなんてね。  結婚なんて興味ありません、みたいな顔して、しっかり婚活してるんだもの。  しかも、つかまえた相手がいわゆる青年実業家で申し分のないイケメン。  年収1億はくだらないらしいわ。  保育士から将来有望な若き社長の妻の座への華麗なる転身。  あら、このステーキ美味しい。  挙式といい食事といい、相当お金かかっているわね。  サキ、こんなに派手好きだったっけ?』 「本当にうらやましい……」  チカの言葉を無視して、まばゆいばかりの照明を浴びて輝く笑顔を振りまいている新婦のサキを、指をくわえんばかりの熱視線で見つめていた未来(みく)がうわごとのように呟いた。 「私、子どものころ24歳なんて絶対結婚してると思ってた」 『あたしたち、まだ24じゃない。この先出会いなんていくらでもあるわよ。仕事だって慣れてきて、楽しくなってきたところだし』  ワインを一口飲んで口元をナプキンで拭ったチカを、未来が恨めしげににらみ、口を尖らせる。 「そりゃ、チカはいいよ。大手広告代理店で若きエースとして期待されて、バリバリ働いてさ。収入だって充分すぎるほどあるでしょ。  それにひきかえ私は大きくも小さくもない病院の医療事務……。  はあ、同じ大学出てるのに、なんでこうも違っちゃったのかなあ」 『あのね、アンタと一緒にしないでくれる?あたしは努力したの。男にうつつをぬかしているアンタとは比べものにならないほどにね。  男をとっかえひっかえして、「今度こそ結婚する、運命の相手だ」って耳にタコができるほどアンタに聞かされながら、必死に勉強したの。  それが今のあたしとアンタの差。  勉強も仕事も「結婚するから」のひとことで妥協してさ。医療事務に謝んなさい』 「うう……だって、私結婚以外に将来の夢がなかったんだもん」 『そもそも、なんでそんなに結婚したいの?』 「私さ……小さいころに両親が離婚してるって話はしたでしょ?家族団らんってものを知らずに育ったわけ。  早く結婚して、優しい旦那さんと可愛い子どもに囲まれて、穏やかで幸せな家庭を築きたいのよ。  仕事優先で恋愛は二の次のチカには一生かかってもわからないよ、私の気持ちは」 『わかりたくもないけどね。男に依存しすぎの恋愛体質の気持ちなんて』  チカの辛口はいつものことだ。  さほどショックを受けてもいないのか、未来はさっと表情を切り替える。 「でもね、今日はちょっと期待してきたんだ。見て、今日の私。気合い入ってるでしょ?」  対面に座る未来を品定めするようにチカの視線がなぞっていく。  新婦より目立たないよう気を使った、淡いピンクのシンプルなワンピースに白のカーディガン。アクセサリーは真珠のピアスのみだが、ブラウンの髪を編みこんでいて、メイクは隙のない華やかさだ。小柄で童顔。  本人はそれがコンプレックスだが、幼い顔立ちはどこか無防備で、細いけれど均整のとれたスタイルをしており、なるほど、男が寄ってくるのもうなずける、とチカは思う。  しかし、強すぎる結婚願望が裏目に出ているのか、焦って選んだ男は、チカの目から見ればクズばかり。未来に男を見分けるセンスはなさそうだ。  気軽に声をかけられそうなルックスも手伝って付き合った男の数は多いほうだが、未だ結婚には至っていないところをみれば、チカの男を見る目が間違っていない証明といえそうだ。 「今日の披露宴、新郎の知り合いも来るでしょう?ということは、将来有望な社長さんやセレブなお友達がいっぱい来てるってことよね。上手くいけば、お近づきになれるかもしれない。こんなチャンス、滅多にないもの。連絡先を交換できたら今日来た甲斐もあるんだけどなあ」  未来の視線がひとつのテーブルに投げられる。  新郎の親族や職場の同僚とおぼしき人間が囲むテーブルとは、明らかに毛色が違う男性たちが座っているテーブルがあった。  新郎の知り合い、あるいは友人だろう。  親しげに歓談している彼らは一様に若く、スーツやちらりとのぞく腕時計から、生活のレベルがうかがえる。  ルックス、収入……未来が求めるものは、全てそのテーブルにあった。  未来の視線を追って振り返ったチカが呆れた声でいう。 『休日に友達の披露宴なんてとか面倒臭がってたわりによく来たな、と思ったけど、狙いはそっちだったわけね』 「貴重な休みを潰すんだもの。相応の収穫がなければ来ないわよ。サキの相手がセレブだと知って、今日にかけてきたんだから。今、彼氏いないし、千載一遇のチャンス、これを逃す手はないわよ」 『で、お眼鏡にかなう人はあの中にいるの?』 「うん、あの……」 『ちょっと待って。当ててあげる。グレーのスーツに銀縁眼鏡の黒髪を撫でつけた、ちょっと年上っぽいひと』 「当たり!すこいね、チカ」 『ふん、アンタの好みなんて熟知してるっての。で、どうお知り合いになるつもり?』 「うーん、それなんだよねえ。席も遠いし、どう近づこう……」  ふたりがスーツの男性にぶしつけな視線を注いでいると、当の男性が、ふと流し目をこちらに寄越した。  同じテーブルの男性たちと、未来たちの方を見て、何事かささやき合っている。  彼と目が合って、ドクン、と未来の心臓が飛び跳ねる。 「ちょ、チカ!今目合った!見てるよね、私たちのこと!」 『……見てるね。アンタかあたしかわからないけど』  彼らはすぐに未来たちから視線を外すと、話を再開させた。  未来はグレーのスーツの彼から、目が離せない。  胸が高鳴る。体が熱を持つ。  風邪で熱が出たときの気だるさや浮遊感に似た感覚が脳をしびれさせる。 「ちょっとお手洗いに行ってくるね」  そうチカに断って、早くも暴走をはじめた己の単純極まりない細胞を冷やそうと、未来は賑やかな会場からお手洗いに向かって、人通りのないホテルの廊下を歩きはじめた。  およそ10分後。  出て行く前より紅潮した顔で未来は披露宴会場へと戻ってきた。  高級ワインに酔っているのか、メイク直しでチークを濃くしてしまったのかとチカは訝しんだが、席に着くなり興奮した未来は早口でまくしたてた。 「聞いてよ、チカ!今、廊下でね、さっきの男のひと、グレーのスーツで眼鏡のあのひとに、偶然会ってね、声かけられて、連絡先まで交換しちゃって、それで……」 『落ち着け。どんな相手なのかもわからないのに、ホイホイついて行く軽い女にみられて遊ばれて捨てられる……今まで何回繰り返してきたのよ、それ。いい加減こりたらどうなのよ』 「でもっ今回は年上の落ち着いたひとだし、素性もはっきりしてるし、名刺だってもらって……今回こそ、運命の相手かも……」 『運命を気安く使いすぎ』  未来の手から、光の速さで名刺を奪い取ると、チカはスマホで検索をはじめた。 『横島衛司(よこしまえいじ)、35歳。都内で輸入家具店を3店舗経営か。へえ、かなり儲かってるわね。今後別の事業にも手を伸ばす予定、か。将来性はあるわけね。ふうん、いいんじゃない?』 「チカが褒めるなんて珍しい。本当に私、すごいひとと出会っちゃったかも……」  会場ではサキが、両親への感謝の手紙を泣きながら読んでいる。  酒に酔った親族の男性たちが赤ら顔で、大声で笑っている。  新郎の知り合いを虎視眈々と狙っている、未来と同じ捕食者の目をした女性たちがいる。  逆に、酒に興じるふりをしながら、あわよくばお持ち帰りできそうな新婦の友人を、血走った目で探している男性もいる。  サキの披露宴は、様々な思惑入り混じるなか、無事にフィナーレを迎えた。 6月14日(水)焼肉屋にて 『乾杯〜!』  カツンっとビールがなみなみと注がれたジョッキを合わせると、チカは一気に半分ほどを喉に流しこみ、『くは〜』と奇声をあげた。  常連の焼肉屋は、夕食時とあって、仕事帰りの会社員で満席になっている。  店の立地の関係か、曜日の影響か、家族連れは少ない。  嗅ぐだけで胃が小躍りしそうな煙が充満し、肉から溢れる油が爆ぜる小気味良い音があちこちで客の食欲を刺激している。  目の前のチカも、早速カルビを焼きにかかっている。  ビールをひとくち飲んだだけで黙する未来を、ようやく不審に思ったのか、『どうかした?』とチカがきいてきた。  今日、食事に誘ったのは未来だった。  未来は重いため息をつくと、おもむろに口を開いた。 「またチカの好きな失敗話だよ」 『やめてよ、あたしの性格が悪いみたいじゃない』 「でもノロケ話より不幸話のほうが好きでしょ?」  『まあね。それをききながら呑む酒のほうが、断然美味しい』 「そんなチカのために新しい失敗話を持ってきたよ」 『へえ。興味ある。今度はどんな男に手ひどく捨てられたの?』 「まだ捨てられてはいない。……ただ、その可能性が高いってだけ」 『タイミング的にいうとあれか、横島とかいう……』 「そう。サキの披露宴で知り合った横島さん。日曜日に食事に行ったの」 『へえ、展開が早いね。あっちも彼女いなかったの?』 「うん、そうみたい。で、高級なフレンチの店に連れて行ってもらったんだけど……。ほら、私育ちが悪いでしょ。あんな格式高いお店に行ったの初めてでさ。フォークとナイフの使い方もよくわかんないし、テーブルマナーが壊滅的で……。  でもね、横島さん優しくて、若いから知らなくてもおかしくないですよってフォローしてくれて。  それだけなら、まだ良かったんだけど……。  私、緊張してワイン飲み過ぎちゃったみたいで酔っちゃって……。すっごく眠くなっちゃったの。  食事が終わるか終わらないかってころには、ほとんど目も開けられない状態になってて、ふらふらしながら横島さんとタクシーに乗って、なんとか家まで帰り着いたんだけど、もう歩けなくて……。そしたら横島さん、私をお姫様抱っこしてアパートの部屋まで運んでくれて、ベッドに寝かせてくれたんだけど、そのあとの記憶がなくて……。気がついたら朝で、横島さんもいなくなってた。  頭がはっきりしてきたら、もう恥ずかしくてたまらなくてさ。チカにだって見せたことのない築50年の六畳一間のボロアパートを見られたんだってことに気づいて、もうダメだって確信したの。  横島さんみたいな大人の余裕があるひとと付き合える器じゃなかったんだなって。若いだけで世間を知らない女なんて、恋人にしないよねえ。  セレブ婚なんて夢見てた自分が恥ずかしい。私には相応しい知識も品格もなかったんだって思い知らされたよ」 『へえ。気づけて良かったじゃない。知識なんてこれから頭に詰めこめばいいんだしさ。勉強させてくれた横島さんに感謝しなさいよ』 「……どう?満足?」 『うん、満足。ビールがすっごく美味しいわ。  自重しようかと思ってたけどやめとくわ。  久々に未来の不幸話がきけて、これ以上ないほどお酒が美味しいんだもの。今日は好きなだけ飲むわよ。ほら、アンタも失恋の傷を癒やすためにも飲みなさいって。  新しい男との出会いと、次なる不幸話をあたしにきかせるために、これにめげずに頑張ってよね、乾杯!』 6月23日(金)居酒屋にて 『付き合うことになった!?』  予想の斜め上を行く報告に、チカは素っ頓狂な声をあげた。  賑やかな居酒屋でチカに注目が集まる。  だがそれも一瞬のことで、すぐに客は自分たちの会話に戻っていく。  仕事終わりの金曜日。  週末を迎える会社員たちの顔は一様に明るい。    そんな客のなかで、一際輝く笑顔を浮かべているのは未来だった。 『横島さんと……?なんでそんなことになったのよ?』  チカは噛みつかんばかりの勢いだ。 「あんな醜態を見せちゃったあとだから、2度と会うことはないと思ってたんだけど、「あれから大丈夫でしたか」って電話があって、よければまたお食事でもって誘ってくれて……。で、家に行ってきた」 『待った!話が飛びすぎ!』 「あ、ごめん。横島さん、料理が趣味で、振る舞いたいから家に来ませんかって誘ってくれて。で、行ってきた。家でならマナーを気にしなくていいからって、私のこと考えてくれて。料理も本格的ですごい美味しかったんだけど、家がとにかくすごくて。  タワーマンションの上階で、街を見下ろすと成功者になった気分でさ。部屋も広くて私のアパートの部屋がいくつも入りそうで、まるでモデルルームみたいに生活感がなくて、清潔で……語彙の少ない私の頭じゃ説明できないくらいに素敵な家だった」 『男の独り暮らしでそんなに手入れが行き届いているなんて、女の影が見え隠れするんだけど』 「ハウスキーパーがいるんだって。ちなみに今は彼女がいなくて……」 『で、告白してきたって?アンタみたいな、なんの取り柄もない、いつまでも学生気分の向上心の欠片もない女を、地位も名誉も手に入れた男が選んだって?』 「ひどい言い様だけど反論できない……。確かに、今まで付き合ってきたのはモデルさんとか起業してるひととか、自立した女性だっていってた。私みたいなタイプは、知り合ったことがなくて、新鮮だったみたい。  イチから育てて、自分好みの女性にしたいって」 『その発言、ハラスメントに抵触しない?自分好みの女に仕立てるって、ゾッとするんだけど』 「別に私は我が強くないから、特に問題は感じないけど。育てるってことはさ、長い目で私との将来を見てるってことだよね。それってつまり、結婚するって暗にいってるのと同じことじゃない?  一度は諦めた玉の輿婚が現実を帯びてきたってことだよね」 『アンタどんだけ主体性がないのよ。思いっ切り下に見られてるってことなのよ。恋愛関係じゃなくて主従関係よ、それ。悔しくないの?アンタにプライドはないの?』 「うーん、チカみたいに自立してるひとは、そう感じるかもしれないけど……。横島さんに一人前にしてもらって、彼に相応しい大人の女性になれば、横島さんの隣にいても誰も文句はいわないでしょ?  そうすれば対等な恋愛関係になれるかもしれないし……。  まあ、チカには理解できないよねえ。  でも、横島さん、ちゃんと「好き」だっていってくれたし、主従関係以上に想ってくれてるって信じてるから」 『ああそう。そこまでいうならもうなにもいわないわよ。お幸せに。ビール一杯おごれ』 「うん、ごめんね。もうチカに不幸話はできなくなるかも」 『そりゃ困った。酒が不味くなるわ』 「私、頑張るよ。彼と並んで恥ずかしくない大人の女性になれるよう努力する。変わるんだ、私」 7月7日(金)ファミレスにて 『あー、暑い。こんなに暑かったら、真夏はどうなっちゃうのよ』 「チカ、暑いの苦手だもんね。チカの汗をみると、夏が来たなあって思うよ」  ブブブ……と、テーブルに伏せて置かれた未来のスマホが震える。 『ちょっと、馬鹿にしてんの?』 「ちょっとね。半分からかってる。次会うときは、かき氷食べに行こうよ。ちょっと並ぶけど、美味しそうなお店みつけたんだ」 『あたしに炎天下に並べって?』  ブブブ……と未来のスマホが着信を告げ震える。 「涼しいところで冷たいもの食べられるんだから、悪くないと思うけど」 『そんなに行きたいなら彼氏でも連れて行きなさいよ。……うまくいってる?彼氏と』 「残念でした。チカの好きな失敗も不幸話もありません。仕事も頑張ってるし、彼との関係も至って良好。  この前も彼のベンツで海までドライブに行ったし、高級レストランに連れて行ってもらったりして経験値積んでる。  彼、すごく優しいの。やっぱり年上だからかな、大人の余裕ってやつがあって、私が初めてすることを見守ってくれてる感じ。温かくて包容力があって、私にはもったいないくらい。  でもね、完全無欠の完璧な彼氏にみえて、可愛いところもあるんだよ。  ドライブに行ったら道に迷うし、格好つけて歩いてたらガラス扉に気づかなくて激突するし、料理うまいのに意外と好き嫌い多いし、帰ろうとしたら離してくれなくて結局一晩彼の家に泊まったし……。甘えてくるところ、本当可愛いんだから」  未来のスマホがラインが来たことを告げる。 『ああそう。そりゃなにより。で、挙式はいつ?』 「あははっ気が早いよ。  でもね、私、彼が仕事で疲れて帰ってきたときに、癒せる存在になりたいの。そこまで自信がついたら、結婚も考えられるようになるかな」  ブブブ……と、テーブルに伏せて置かれた未来のスマホが震える。 『……』 「……」 『ねえ、さっきからなんなの?この店に入ってから、20回くらい電話かかってきてない?ラインも異常なくらいきてるけど。なにかあった?』 「ああ、気にしないで。多分、全部横島さんからだから。  付き合うってなってから、ずっとこの調子なの。私の居る場所を常に知りたいみたい。  夜も必ず電話がきて、その日1日なにがあったか、誰と会ってどんな話をしたかきかれて、1時間くらい喋ってる」 『え、なにそれ、うざくない?ものすごい束縛男じゃない。どこが大人の余裕よ。大丈夫なの、ストーカーになったりしない?』 「大丈夫だよ。彼がわざわざ仕事の手を止めてまで連絡をとりたがってるって、愛されてる証拠じゃない。  ここまで愛情表現してくれるひとって今までいなかったから、嬉しいよ。本当、いい恋人ができたなって思う」  ブブブ……と、テーブルに置かれた未来のスマホが震える。  ようやくスマホを手に取り、着信履歴を確認すると、「やっぱり全部横島さんからだ」と口元を緩めながら未来が立ち上がる。 「今夜も横島さんの家に行くから、そろそろ帰るね。また今度、連絡する」 『そう、あたしはもう一杯飲んでから帰るわ。お幸せに』 「うん、ありがと。もう、愛されすぎて困っちゃう。幸せすぎて、帰り事故に遭ったりしないかな」 『ずいぶん不吉なこというけど、今のアンタの状況からみると、有り得ない話でもないかもね。運を全部使い果たしたみたいな。飲酒運転の車には気を付けて帰りなよ』 「はーい、じゃ、またねチカ」 『またね未来』  軽く手を振りながら店を出て行った未来の姿が見えなくなると、チカはぼそっと呟いた。 『本当、気を付けなよ、未来』 7月20日(木) 未来の自宅にて 「ただいま〜」  仕事を終え、久々にアパートに帰ってきた未来は、服もメイクもそのままにベッドに倒れこんだ。  仕事でミスをした。  上司からはたんまりとお説教され、たっぷりと嫌味も追加された。  ……あのユキチ……。  閉じた瞼の裏に、福沢諭吉にそっくりな憎き上司の顔が浮かぶ。  寝転がったままスマホを取り出すとチカの番号を呼び出す。  こんなときは親友に愚痴をきいてもらうのが、手っ取り早い立ち直る手段だ。  約1時間、渋るチカを相手にユキチの文句を、一方的に話したところで満足して通話を切る。  お風呂から出て、テレビを点けながら、再びベッドに倒れこむと、カタ、となにかが落ちる音がした。  なんだろうとベッドの下を覗きこむ。  元は畳の部屋をリフォームしてから10年は経過していそうな、くたびれたフローリングの床に、黒くて小さななにかが落ちている。  ベッドの下に、テープで固定されていたものが落ちたらしい。  手を伸ばして拾うと、なにかの部品のようだった。  しげしげとそれを観察していた未来の背を、突然寒気が襲った。  ぶんぶん、と激しく首を左右に振り、思いついたばかりの恐ろしい推測を打ち消そうとする。  チカに、「明日会いたい」というラインをすると、返事も待たずに照明を点けたままベッドに潜りこみ、毛布をかぶった。            
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