小野寺さんは結婚したい

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7月21日(金) ランチタイムのカフェにて 「忙しいところ、ごめんね」 『別にいいけど。で、話ってなに?』 「これ、なんだけど……」  おずおずとテーブルにハンカチに包んだ物体を差し出す。 『なにこれ……?』  チカは、ハンカチから黒い小さな部品のようなものをつまみあげ、照明に透かすように眺めはじめる。  そして、ある一点に思考が至ったのだろう、眉間にキュッと皺を刻む。 『……これ、盗聴器じゃないの?』  チカの言葉に、未来は詰めていた息を大きく吐き出す。 「……やっぱり、そうだよね……」 『なんでアンタがこんなもの持ってるの?』 「……昨日、うちで見つけたの。ベッドの裏に貼ってあった」  さすがのチカも目を見張り、険しい表情になる。 『ねえ、それやばくない?ベッドに仕掛けられてたのなら、部屋の前の住人が残していったもの、ではないよね。アンタを狙って誰かが仕掛けた……。誰の仕業か、心当たりある?』 「……」 『……あるんだね?』  チカに詰め寄られた未来は、首を左右にゆるゆると振る。 「まさか、あのひとが、そんなことするはずないよ」 『あのひと?』  大学を卒業し、就職と同時に今のボロアパートに引っ越した。  廃墟と見紛うあまりの外観が恥ずかしくて、住みはじめてから今まで、約2年間、チカを含めた友人知人誰も部屋に招いたことはない。  未来以外に足を踏み入れた者はいないのだ。  ーーーたったひとりを除いては。 『……もしかして、あのひとって……横島さん?』  相変わらず観察眼が鋭いチカの指摘に、未来の肩がぴくりと跳ねる。  心当たりならある。でも信じたくない。  認めたくなかった。  横島と初めて2人きりで食事をしたあの夜。  酔った未来をアパートのベッドまで送り届けてくれた。  後にも先にもあの部屋へ入った人間は、横島しかいない。  泥棒のたぐいの犯行でなければ、の話だが。 『酔って前後不覚になったんでしょ?飲みすぎて眠りこんだアンタなんてみたことないんだけど……』  確かに、そんな経験は1度もなかった。  それに、あのときは、酔ったというより強烈な眠気に抗えなかったという感覚に近い気がする。  なにもいえずにいると、チカがさらに踏みこんで、未来の耳に優しくない可能性を告げる。 『食事したレストランで、一服盛られたんじゃないの?』 「一服……?」 『睡眠薬とか、そういうの。  介抱して送って行くふりをして、部屋に入って、寝ているアンタの横で、堂々と盗聴器を仕掛けていったとか。……あ』 「なに?」 『カメラは?カメラは探してみた?盗聴器があるなら盗撮だってされてる可能性があるわ』  にわかに物騒な方向に話が転がり、疑心と、それを打ち消そうとする自分がいる。  横島が、そんなことするはずがない、という思いが混在し、光と闇が交互に胸中で吹き荒れる。 「そんな……まさかそんなこと、するはずないよ」  あの紳士的な横島が。なにもものを知らない自分を、大切に扱ってくれるあの横島が。 『横島さんがそんなことするはずないって?……こういっちゃ悪いけど、アンタ、横島さんのなにを知ってるの?』  雷が落ちたようだった。  目の前が真っ暗になる。  ……知らない。  チカのいうとおり、自分は横島の深くを、なにも知らなかった。  優しい大人の恋人。  横島の一面にすぎないであろう、自分にみせる顔以外の、別の横島、彼という人格を成す核ともいうべき本性を、未来は知らない。  そこにどんな闇があるのか、あるいはそんなもの存在しないのか、考えたこともなかった。  頭痛をこらえるように頭を抱え、ギュッと目を閉じる。  次に瞳をあけたとき、照りつける日差しも、耳に入る見知らぬ人の談笑も、店内からみえる通りを歩く人々の笑顔も、全てが灰色の薄闇に包まれ、色を失っていた。  家に帰った未来は、結局チカに指摘された隠しカメラを探すことはしなかった。  真実を知る勇気はなかったし、自分に誠実に向き合ってくれる彼の、一点の曇りを疑っている自分に罪悪感を抱いたせいでもあった。  結局自分は、恋人を疑い切れなかったし、信じ切れなかった。  もやもやしたものを抱えながらも、横島と別れるという選択肢は未来にはなかった。  互いを想い合う相手がいるという、心地よいぬるま湯をたゆたっていたい。  それは弱さで、甘えだった。 8月4日(金) ランチタイムの洋食店にて 「夜ごはんに行くこと、できなくなるかもしれない」 『なに、急に呼び出したと思ったら、突然なんの宣言?断酒でもするの?』  オムライスをひとくち頬張ると、チカは怪訝そうな顔をする。 「違うの。横島さんがね、仕事以外は自分の家にいてほしいっていうの」 『自分の家って、横島さんの、ウワサのタワマンのこと?』 「そう。心配なんだって。自分のそばにいれば安心だからって。  最近、横島さん、すごくストレートに愛情表現してくれるの。私が必要だって。愛されてるんだ、私」  夢見るように、焦点の定まらない視線で、うわ言のように未来はいった。 『ちょ、ちょっと待って、未来。アンタ大丈夫?本気でいってるの?それって家に閉じ込められるってことよ。おかしいわよ、アンタ、横島さんに洗脳されてるんじゃないの?』 「彼のこと悪くいわないで。洗脳なんかされてない。家にいてくれっていうのは、暗にプロポーズしてくれたってことでしょ。すごく幸せなことだよ。  私ね、今すごく満たされた気分なんだ。こんなの初めて」  うっとりとした目で虚空を見つめる未来に、チカはなにもいえずに小さく首を振った。  今の未来に、なにをいっても無駄だ。  輝かしい将来を描き、夢物語を現実に手に入れたことに酔っているのだ。  酔いを冷ましてやりたくて、チカはいった。 『盗聴器の件は?確認してみたの?』 「それは……」    少し地に足がついたのか、未来は表情を曇らせる。 『疑惑を抱えたまま結婚するの?晴らそうとは思わないの?』 「……たとえ、やったのが本当だとしても、それだけ私に執着してくれてるってことだから……。  今まで出会った男は、結局は我が身が一番可愛いひとばかりで、私を一番に考えてくれるひとはいなかった。  でもね、横島さんは……」 『わかった。もういいわよ。親友より恋人を選んだってことね。はいはい、サキの次に結婚するのはアンタで決まり』 「うん、そうなるといいね」  未来は弱々しく笑った。 8月20日(日) 顔なじみのカフェにて 「ごめんね、急に呼び出して」 『本当よ、せっかくの休日の真っ昼間に突然連絡してきて……』  文句をいいながらやってきたチカは、対面に腰かけながら、未来のやつれた顔に、言葉を止めた。  眉をひそめて注意深く観察した未来は、メイクをしておらず、部屋着のようなラフな格好でバッグも持っていないようだった。  着の身着のまま自宅を焼け出されたようにもみえる。 『……なに、なにかあったの?』  キョロキョロと辺りに目を配りながら、未来は口を開く。 「横島さんの束縛がすごいの。  今も急な仕事が入ったとかで出掛けていった隙に、こっそり出てきたの」  怯えた視線で周囲を見回す未来に、チカが長いため息を吐きながら目を閉じる。 『ほら、言わんこっちゃない。お金につられてホイホイついていくからよ。面倒なことにならないうちに別れなさい』 「うん、そうするつもり」 『なにをそんなに警戒してるの?横島さん、仕事でいないんでしょ?』 「実は……最近見張られてるの。専門のひとまで雇って。それ以外にも、誰と喋ったのか、一言一句完璧に報告しろとか、スマホをチェックされたりとか、友達とメールもできないし、一秒でも門限を過ぎると反省文書かされるし、メイクも服も、あのひとがいいっていわないと外にも出してくれなくて……。  自由に外も歩けないし、ちょっと男のひとと話しただけでも浮気だって疑われるし、あのひとの理想通りに振る舞わないと怒るから、怖くて……。仕事にも支障が出てきて……」 『DVは?』 「え?」 『暴力は振るわれてないかってきいてるの』 「あ、ううん。手を上げられたことはないよ」 『で、どうするの?』  幽霊のような青白い顔で、疲れを滲ませ、げっそりと痩せた未来は、決意したように顎を上げてチカをみた。 「帰ったら、別れてほしいっていおうと思ってる」 『横島さんの家に帰るの?危なくない?』 「今日で行くの最後にする」 『なにかあったら、警察呼ぶんだよ』  未来は小さく笑った。 「そんな、大事にはならないよ。警察も、恋愛関係のもつれなんて、通報しても動いてくれないでしょ」 『経験者は語る、か』 「ちょっと、私そんなに修羅場くぐってきてないから。やめてよね、私を男好きキャラにするの」 『違ったっけ?ドロ沼のひとつやふたつ、アンタなら経験したことあるかと思ってたわ。てっきり別れ話を切り出すくらい余裕だと思ってた。いらなくなった男なんか虫けらのように棄てられる冷酷な女だから次々男を乗り換えられるのかと思ってた。意外と優柔不断で気が小さいのね』 「ひどいなあ、もう。私は浮気したこともないし、こうみえて、付き合っている間は一途に尽くすタイプなんだから」 『別れてからの切り替えも早いけどね』 「ふふっそれは否定できないなあ」 『だから男好きだっていわれるの。いつになったら破るのやら、3ヶ月の壁』 「3ヶ月の壁?なにそれ」 『嘘でしょ、自分で自覚してないの?  思い出してみて。今までアンタ、付き合った男たちと、3ヶ月しか続いてないのよ。だから3ヶ月の壁。長続きしない、深い間柄になれない。それがアンタのこれまでの恋愛。結婚できないわけね、改めて考えると』 「うーん、的確な考察……。ぐうの音も出ないとはこのことか……。また、私は3ヶ月の壁を破れなかったってことだね」 『そう。だから、今回のことも、悲観することないわよ。いつものことだって、縁がなかったんだって、気楽に考えなさい。男好きのアンタなら、またすぐ次の男が現れるわよ』 「だから、男好きキャラやめてって。私はたくさんの男と付き合いたいんじゃない、運命の相手と巡り合いたいのよ。  はあ、なのになんでこうなっちゃうのかな、毎回。外れクジばっかり。  横島さんに洗脳されてるっていってたチカの言葉の意味を今更理解するなんてね。  本当、男運ないなあ、私」 『それがアンタの運命なんじゃない?理想の男に永遠に出会えない』 「ちょっと、不吉すぎるって、やめて!」  声に少し弾力が戻った未来は、素早く時計に目を向けると、慌ただしく立ち上がり、無理やりな笑顔をチカに向けた。 「今日はありがとう。やっぱりチカに話してよかった。気持ちが固まったよ」 『そう。それはよかった。健闘を祈るわ』 「あはは、大げさ。じゃあね」  『うん、また』  小さく手を振ると、未来は背筋を伸ばすように歩きながら店を出て行った。 「お待たせしました〜」  運ばれてきたアイスティーのストローをくわえながら、チカは物憂げな眼差しで、休日の昼下がりの街への消えていく未来の背中を見送っていた。 8月20日(日) 横島衛司宅にて 「今日のワインの味はどうでしょう?」  夕食の席で、ワイングラスを口に運んだ未来に、横島がにこやかに問いかけた。  相変わらずテーブルには、ふたりしかいないにも関わらず、横島お手製の豪勢な料理を載せた皿が所狭しと並んでいる。  思い詰めた顔で、未来は料理には手をつけずに、緊張を和らげるため先ほどからワインばかり飲んでいる。  そんな未来を、目を細めて眺めながら、横島はやはり威圧感を与えない柔和な声音で、「スマホをみせてください」と手を差し出した。  いわれるがまま、ポケットからスマホを取り出そうとすると、「今日はお友達と会って、なにを話したんですか?」と横島にそう問われ、思わず手を止めた。 「……やっぱり、私のこと監視してたんですか?」 「監視?さて、なんのことでしょう」  横島はにっこりと笑い、理知的な印象を与える眼鏡を押し上げると、余裕のある姿勢を崩さない。  膝に置かれた拳をぎゅっと握り、未来は声を荒らげた。  怖い、という思いは封殺する。 「とぼけないでください!私の職場にも、見張りのひとがいることくらい、気づいてます!」  更に細められた横島の目が鋭くなるのを未来は感じ取った。  萎縮してしまいそうな心に活を入れて、未来は横島をにらみ返す。 「見張りを派遣したのは、あなたが私に虚偽の報告をするからですよ」 「認めるんですか、私を監視していたって」 「ええ。些末な問題ですから。本当は、上司の、ええと、ユキチさんでしたっけ?男性と喋ったのにも関わらず、あなたはそのことを私に報告していない。  1度だけではない、何度もそうしているでしょう。疑われて当然だとは思いませんか」  もはや、不気味にすら感じはじめた横島の顔に貼り付けられた完璧な微笑みに、未来の背筋を冷たいものが駆け抜ける。  ある程度予想できていたこととはいえ、現実に事実として突きつけられると精神的なショックが大きい。  未来の頭からつま先に至るまでが一気に凍りついた。  自分が相対している人間が、犯罪者であることを確信して、未来は震える声を絞り出す。 「……どうして、ユキチのことを知っているんですか?」 「はい?」 「ユキチというのは、上司の名前ではありません。私がつけたあだ名です。しかも、その呼び方をするのは、友達の、チカとの会話だけです。  職場のひとには、もちろんいったことはありませんし、チカ以外のひとの前で、ユキチといったことはありません。  それを、どうしてあなたが知ってるんですか?」 「それは……」  追い詰められているはずの横島の微笑は、みじんも揺るがない。 「私の部屋に盗聴器を仕掛けたのは、あなたなんですね」  すると、さっと横島の表情が変わった。   「それがなんだというのです?  カネに目が眩んだ女というのは、よく私に寄ってきます。  出会った相手がカネ目当てなのか、そうでないのか、私には知る術がありません。  お付き合いをしていくうえで、相手の本性を知るためには、必要なことだと私は思いますが」 「開き直るんですか?だからって、盗聴器なんて非常識です」  横島は長いため息をついた。 「未来さん、あなたなら、と私は期待していたんですよ。  あなたなら、財産ではなく私個人を愛してくれるのではないかと」 「でも、やりすぎです。盗聴器も、見張りも、家から出してくれないことも……。私は本気 であなたのことが好きだったのに、こんなに束縛されたら気持ちが離れて当然です。  私を信用してくれていないんだって」 「不安なんですよ。あなたの全てを知りたいんです。  私を本当に好きなのかどうか。私の元からいなくなってしまわないか。とにかく不安で仕方ない。   それだけ、あなたのことが好きだということなんです。わかってください」  すがるような横島の視線に、未来の心が揺れる。  しかし、横島にされたことは、到底許せるものではない。  1度深呼吸すると、目を閉じ、自分の心の声を反芻する。  目を開け、毅然といった。 「好きだという言葉で、正当化しないでください。私は、あなたのことが好きではありません。別れてください」  強い意志を宿した瞳で、横島をみると、彼は小さく肩をすくめた。 「……仕方ありませんね。私はこんなにあなたを愛しているのに……。心変わりはしませんか?」 「しません。あなたとはもう2度と会うこともありません。さようなら」  いってしまうと、驚くほど自分の気持ちが横島から離れていたことを自覚した。  振られることは多々あるけれど、ここまで強く相手を拒絶して、自分から別れを切り出すのは初めてだった。  本音をいい放って席を立ち、玄関へ向かおうとした未来を、強烈なめまいが襲った。 「……っ」  立っていられなくて、床に膝をつく。 「大丈夫ですか、未来さん」  覗きこんできた横島の手を、とっさに振り払おうとしたが、ぐるぐると回る視界では、それも覚束ない。 『一服盛られたんじゃないの?』   いつだったかの、チカの言葉が脳裏をよぎる。  やられた。またワインだ。  そう思い至るが、もう遅い。  まもなく未来は意識を手放した。 「いつまでも待ちますよ、あなたが心変わりするまで。あなたみたいな学のない小娘にここまでしてあげるんです。私の気に入る人形になればいいんです、あなたみたいな女は」  すでに届かないと知りながら、横島は愛おしげに倒れた未来の頬を撫でていった。  柔らかい仕草で未来の額にキスを落とす。 「愛してますよ、未来さん」 8月21日(月) 横島宅の寝室にて  目を覚ますと、見慣れた横島の家の寝室だった。  頭が重い。体がだるい。思考がうまくまとまらない。  天井をぼんやりと見上げながら、なにがあったのだろうかと未来は考える。  横島には、別れを告げたはずだ。  なのに何故自分はまだ横島の家にいるのか。  確か啖呵を切ってこの家から出ようとして、それで……?    そこで、ふと気づいた。  服を着ていない。  一糸まとわぬ姿で、キングサイズのベッドに寝かされていた。    未来が、愕然と自身の体をみつめていると、「起きましたか」と冷静な横島の声に、はっと顔を上げる。  横島は、寝室のドアの前に椅子を置き、分厚い本に目を落としていた。  未来は恥ずかしさに顔を真っ赤にし、タオルケットを手繰り寄せると、ぐるぐると裸身に巻きつけた。  横島がくすっと笑う。 「今更恥ずかしがる関係でもないでしょう」 「服は……私の服を返してください!」  横島は本をかたわらに置き、眼鏡を外すと、眉間をほぐすように揉んだ。 「あなたが私の元から逃げ出さないと確信が持てたら返しますよ」 「そんなっ……私はあなたの操り人形じゃない!」 「?あなたはそれでいいんですよ?」  不思議そうに尋ねる横島に、凶気すら感じて、未来の顔が蒼白になり、体中から冷や汗が噴き出す。  未来が復縁に応じるまで、この姿のまま監禁するということだろうか。  応じなかったら、どうなる?  未来の中で最悪の結末が想像され、貧血を起こしたように、血の気が引きクラクラする。 「猶予をあげます。私は水曜の夜まで出張で家を空けます。  その間に、よく私との将来について考え直してみてください」 「……そんなっ……」  未来が泣き出しそうな顔になると、横島は首を傾げて未来をみつめていった。 「そんなに難しいことですか?  あなたは私を愛してるいるはずだ。  その心に正直になればいい。簡単なことでしょう。なにをそんなに意固地になっているのです?」  悪夢だ。  この男は、心の底から、未来がまだ自分のことを好きだと思いこんでいるのだ。  なにをいっても通じない。  心の何処かが壊れているとしか思えない。  自分はなんという相手に近づいてしまったのだろう。  絶望という名の底無し沼を落ちていく浮遊感が、恐怖心をかきたて、体中の毛が逆立つ。  早く、早く脱出しなければと、焦って室内を見回すが、寝室にはベッドとクローゼットがあるばかりで、逃げ出すために役立ちそうなものは見当たらない。 「……こんな時間か。では、私はそろそろ行きますね」  腕時計に目を落とすと、横島は立ち上がった。  窓から差しこむ日差しと、鳥の鳴き声から、今が早朝であると察せられた。  まずい、と未来は焦る。  横島がこのままいなくなれば、この家を脱出することが困難になる。  閉じこめられたら終わりだ。 「わかりました、考え直します。私も、あなたのことを愛しています」  未来がそう告げると、横島は目を見開き、そしていつもの微笑みを浮かべる。 「嘘ですね。あなたは全く反省していないようだ。  それを自覚するまでは時間がかかるでしょう。私が帰るまで、私の言葉の意味を考えていてください」 「っ、待ってください!」  ドアを開け、出て行こうとする横島を、未来は必死で呼び止める。 「この家の中なら、自由に動いてもらってかまいません。もちろん外には、見張りを配置します。  あなたの世話は、母に頼んであります」 「……母?」 「ええ。私の実の母です。  母は、愛する息子、つまり私のためならば、倫理観も道徳も捨てられるひとです。  母親の鑑のようなひとですから、説き伏せて脱出しようとしても無駄ですよ。  全く、私にはもったいない、できた母です。  あと、窓から脱出するのは危険ですよ。落ちたら死にますから。  あなたは、大人しく、私の帰りを待っていればいいんです。では、また3日後。楽しみにしていますよ」  パタン、と軽い音を立てて、ドアが閉まった。  世界から切り離されたような静寂。  助けてくれるひとはいない。  助けを呼ぶ手段もない。  最早、どこかが壊れているとしか思えない性格の横島を育てた母親。  あるいは、逆に壊れた性格の母親に育てられ、今の横島が形成されたのかもしれない。  どちらにせよ、どちらかがどちらかを、チカいうところの「洗脳」している可能性がある。  期待はできない。    横島の口振りからして、おそらく、こんなことをするのは初めてではない。  彼の母親も加担して、今まで何人もの女性が被害に遭ってきたのだろう。  横島にも、彼の母親にも、きっとひとの心は残っていない。  最悪だ。  なにがセレブ婚だ。  できることなら、横島と出会う前まで時間を巻き戻したい。  浮かれた自分を叱ってやりたい。  結婚を焦ってクズにつかまる……。  呆れ返るチカの顔が脳裏に浮かぶ。  今はその顔でさえ懐かしく、愚かな自分を罵るチカの言葉でさえききたいと思ってしまう。  未来は、零れそうになる涙を、必死でこらえた。  生きて、ここを出なければ……。  未来はだだっ広いベッドのうえで丸まり、生まれて初めて、生きたい、と強く願った。
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