小野寺さんは結婚したい

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8月23日(水) チカの職場にて  帰り支度をしていたチカのスマホが振動した。  ディスプレイに表示された名前を確かめて、通話ボタンに触れる。 『もしもし、サキ、どうしたの?』  片手で書類をまとめながら、チカが応じると、サキの戸惑ったような声が耳に届く。 「チカ、今ね、未来のお母さんから電話があったの」 『未来のお母さん?』 「知り合いに片っ端から連絡してるみたい。  未来、もう3日も無断欠勤してるって、職場からお母さんに電話があったんだって。  あたしは心当たりないんだけど、チカ、なにか知らない?」  チカの視線が鋭くなる。 『3日……』  卓上のカレンダーの日付を追う。  未来と最後に会ったのは、日曜日の昼下りだ。  横島と別れ話をするといっていた。  その翌日から、職場を無断欠勤している。 『……やばいかも……』 「え?」 『ごめん、サキ。確かめたいことがあるの。切るね』 「え、ちょっと……」  ぶつ、と通話を切ってチカは会社を飛び出した。 8月23日(水) 横島衛司宅にて 「あなたが、悪いんですよ。  私のいうことをきかないから……」  薄闇に包まれた横島宅の寝室で、横島は、血に濡れたナイフを手に立ち尽くしていた。  目の前に広がる景色が、本当に自分がやったことなのか信じられずにただ硬直している。  意識の外から、突然、なにかを叩く激しい音が鼓膜を震わせる。  なんだ……?  全く働かない思考が、軋み音をあげながら、それでも横島を、徐々に現実世界へと引き戻す。  ようやく殴打音が、玄関のドアを叩くそれなのだと理解が及ぶ。 「警察です!今すぐ開けてください!」  はっと我に返り、横島の手からナイフが滑り落ちる。 「横島さん、中に入りますよ!」  管理人が鍵を開けたのだろう、ドアが開く音がして、部屋に上がりこんだ複数の足音が近づいてくる。  自分はもう、終わりだ。  逃げられない。  全て、全てが終わりだ。  手に入れた地位も名誉も全て失う。  いや、それだけではない。  自分は社会的に抹殺される。  輝かしい未来が、真っ黒に塗り潰されていく。  こんな事件を起こした自分の人生はどうなる?  生きていくことができるのだろうか。  今の立場を追われて、意地もプライドも捨てて最底辺の生活を送ることになるのか?  栄光に満ちていた自分の人生は終わりを迎えてしまうのか……?  寝室のドアが開かれる。  振り向くと、制服姿の警官2人と目が合った。  警官は、部屋の様子を一瞥し、ほんの一瞬息を呑むと、「確保!」と手を血にまみれさせた横島に飛びかかった。  なす術もない横島に警官が馬乗りになり、取り押さえる。 『未来!』  警官2人に遅れて、部屋に入ってきたチカが、ベッドに仰向けに横たわっている未来に向かって駆け寄り、悲鳴のような声を張り上げた。  未来は、体にタオルケットを巻いただけの姿で、青ざめた顔で目を閉じている。  タオルケットの腹の部分が、赤黒い血で染まっている。 『未来!未来!』 「救急車を!」  チカと警官の声が交錯する。 「離せ!俺は悪くない!悪いのは俺のいうことをきかなかったこの馬鹿な女だ!  殺すつもりなんてなかった!  俺は……俺は悪くない!」  警官に拘束された横島が、最後の抵抗をして悪あがきして暴れているなか、チカは冷たい未来の体を揺さぶる。 『未来、しっかりして、未来!こんなところで死んでどうするのよ!運命の相手とセレブ婚するんでしょ!未来、しっかりして……』  そこでチカは、はっと気づいて言葉を止めた。  未来の胸が微かに上下していた。 『なんだ、死んでないのか……おどかさないでよ、心臓に悪いなあ、もう……』  全身の力が一気に抜け、ずるずると床に崩れ落ちながら、チカは安堵の息を吐く。  途方もない疲労感がチカを襲っていた。  チカの声に反応してか、未来が薄く目を開く。 「いたい……さむい……」  意識を取り戻したとたん、刺された腹部が痛み出したのか未来は表情を歪める。 『救急車来るから、もうすこし頑張って』  チカが冷えた手を握ってやると、未来は小さくうなずいた。 「チカ、ありがとう。助けにきてくれて」  かすれた声で未来がささやいた。 『まだ話さなくていいから。怪我、どれくらいひどいのかわからないし……まあ、すぐ死にそうにはみえないけど』  2人の横で、押さえこまれたまま、横島が絶叫していた。 「俺は悪くない!お前ら、俺を誰だと思ってる!冤罪で訴えてやるからな!覚悟しとけよ!離せ、弁護士がくるまでなにも話さないからな!優秀な弁護士雇って裁判も勝ってやる!俺はカネだけはあるからな!後悔しても遅いんだからな!」 『……無様ね』  チカが汚物でもみるような目つきで横島をみて、吐き捨てた声に重なるように、救急車とパトカーのサイレンが遠くできこえた。 8月24日(木) 病室にて 「横島さん、2度もストーカーで捕まったことあるんだって」  麻酔から目覚めたあと、警察から知らされた事実を、見舞いに訪れたチカに告げると、未来は天井の蛍光灯にぼんやりと視線を投げた。  未来の怪我は、幸い大事には至らず、短期間で退院できるという。 「あーあ、私って本当に男運ないなあ。  あんなに大人にみえたひとが前科のあるストーカーだったなんてね」  ベッドに横たわりながら、自嘲気味に唇を吊り上げて未来がいった。 『全く、お金につられてホイホイついて行くからよ。なにがセレブ婚よ。身の程をわきまえなさい。あたしまで巻きこまれて、いい迷惑だわ』  相変わらずチカは、怪我人にも容赦がない。 「ごめんって。でも本当に助かったよ。  チカが交番に駆けこんで、おまわりさんを連れてきてくれなかったら、多分、私殺されてた」  実際、チカたちが来たのは、奇跡的なタイミングだったのだ。  出張から帰った横島は、3日間の監禁を経ても、自分を拒絶した未来に逆上し、ナイフを持ち出した。 「自分の意にそぐわないのなら、殺してやる」と。  未来が最後の力を振り絞って抵抗し、揉み合った際に、腹を刺された。  未来の血をみて、自分のやったことに怯み、横島は固まってしまった。  痛みに耐え切れず、未来が意識を失ったあと、とどめを刺される可能性だって充分あったのだ。  横島が落ち着きを取り戻して、次の凶行に及ぶ寸前に、チカが来てくれたというわけだ。 「チカは命の恩人だよ、ありがとう」 『感謝してるんだったら、次は前科のない男を選んで、あたしに迷惑かけないでよね』 「さすがにすぐ恋人を作ろうとは思わないよ。男には、もうこりごり」 『どうだか。退院したら、またすぐ別の男でも追いかけてるんじゃないの』 「チカがいれば大丈夫だよ。絶対助けに来てくれるから」 『アンタのお守りなんてお断りよ。ま、アンタの不幸話をききながら呑む酒は格別に美味しいからねえ。殺されない程度にクズをつかまえて、あたしを楽しませてよね』 「ひどいなあ。普通、励ましてくれたり、応援してくれる場面じゃない、今?」 『あら、応援してるわよ。未来と、程よいクズが出会えるように』 「程よいクズって、なにそれ」  少し笑うと、傷が痛んだ。  跡が残らないか、心配になる。 「いてて……」 『安静にしてなさいって。明日早いから、今日はもう帰るわね』 「うん、来てくれてありがとう。またね」 『次は飲み会で、アンタの快気祝いするわよ』 「あ、それいいね、賛成!」  未来の満面の笑みに、満足そうにうなずくと、チカは病室を後にした。 9月8日(金) 居酒屋にて 「カンパーイ!」  カツンっと3つのグラスを合わせ、3人はビールを景気よく喉に流しこんだ。 『あー、幸せ。たまらないわね、やっぱり』  一気にグラスの半分ほどまであおって、チカが唇を拭った。 「今日は未来の快気祝いだから、飲むわよ〜」  腕まくりしてメニューを眺めるサキをちらりと見ながらチカがいった。 『サキ、アンタまたブランド物増えてない?旦那さん、そんなに浪費させてくれるの?』 「んー、あのひとお金に執着しないタイプで、なに買ってもなにもいわないんだよね。自分が稼いだお金なのに、ほとんど使うことないし……貯金が趣味なのかも」 「セレブだ……」  グラスを置くと、未来が羨望の眼差しでサキをみた。 「旦那の、独身の知り合い紹介しようか、未来」 「えっいいの?」  とたんに目を輝かせる未来に、チカが呆れ返っていう。 『当分男はいらないんじゃなかったの?男で痛い目みたから、今日快気祝いするんじゃない』 「う……そうだった」 「じゃあ今度、身体検査した旦那の知り合いを紹介するよ」  サキの発言に、「ああ、女神様」と未来が目を潤ませる。 『はいはい、男の話はもう終わり。今日のメインイベントは、これを渡すことだからね』  手を叩いて注目を集めると、サキと目を合わせ、チカは包装された手のひらサイズの箱を未来に差し出した。 『はい、退院おめでとう』 「ありがとう。また仕事しなきゃいけないって考えると、複雑な気分でもあるけどね」  不満を述べつつ、箱の中身を取り出すと、未来は首を傾げた。 「スマホ……?」 『プリペイド式携帯電話。スマホとは別に、肌見離さずに持っててよ、お守りみたいなものなんだから』 「プリペイド式……?いまどき珍しいね。  でも、どうしてこれを……?」 『いったでしょ、お守り。この前の1件で、アンタが危険なことに自分から突っこんでいくことがわかったから、どうせまた男絡みで危ない目に遭うだろうって、サキと相談して、万が一のとき助けを呼べるものをプレゼントしようって決めたの』 「あたしからは、これ」  サキが、チカより一回り小さい箱を差し出しきたので、それも開封すると、黒いキーホルダーのようなものが入っていた。 「これは……?」 「GPS発信機。子どもに、親が持たせるようなやつ。なにかあったら、すぐに居場所がわかるように」  親友2人から贈られたプレゼントを前に、未来が苦笑を浮かべる。 「まるで子ども扱い……本当に信用がないんだね、私」 『当たり前じゃない。ストーカーに盗聴器仕掛けられたり、無防備に男の家に行ったり……。危なっかしくてみてられないわ。あたしたちがどれだけ心配したか、アンタわかってる?急に行方不明になって周りのみんなに心配させた挙げ句、刺されて殺されかけたのよ?あたしたちが管理してないと、アンタ本当になにに巻きこまれるかわかったもんじゃないんだから。子ども扱いくらいで文句いう資格なし』  すっぱりと切り捨てたチカに対し、サキが真剣な顔になって身を乗り出す。 「なにかあってからじゃ遅いんだよ、未来。この前も本当に危なかったんでしょ?未来が選ぶ男ってクズばかりだから、チカのいう通り、用心してしすぎることはないんじゃない?」  結婚してから、ぐっと落ち着いたサキに諭されて、未来はなにもいい返せずにうなだれるばかりだ。 『ま、今回のことで未来もクズの恐ろしさを身に沁みてわかっただろうし、今日は全部忘れて飲もう。サキも付き合ってもらうわよ』 「もちろん。全員のタクシー代くらい、あたしが持つわよ」 「うわー、セレブの発言……」 「そこは任せてよ。追加でビール頼もう。今夜は久々にハメ外すわよ〜。なんたって未来のお祝いなんだから!」  追加のビールを手にすると、周りの喧騒に負けじと、3人は声を合わせた。 「カンパーイ!」  3人がビールをあおっていると、「綺麗な姉ちゃんたち、いい飲みっぷりだねえ」と、赤ら顔の中年男が声をかけてきた。 「おっちゃん、今日臨時収入があってさ、奢るから一緒に飲まねえか?」  座敷のテーブルを囲む、同じように酔っ払って目尻を下げた中年男たちが、未来たちを手招きしている。    3人は顔を見合わせると、満面の笑みで、「よろしくおねがいしま〜す!」と、セレブらしさの欠片もうかがわせない判断を下したのだった。 「ああー、やっぱ少し飲みすぎたかなあ」  久々にアルコールを摂取し、すっかり酔ってしまった未来は、家から少し離れた場所でタクシーを降り、夏の名残りの夜風に当たりながら深夜のひとけのない道を歩いていた。  もう、明かりがついている家もほとんどない。  寝静まった住宅街は、早朝に似てどこか静謐な顔をみせる。  すっかり完治した傷跡の痛みも消え、鼻歌でも歌い出しそうな気分で軽やかに足を進める。  近年は残暑が長引く傾向にあるが、さすがに夜になると、涼しさを感じるようになった。  今年の夏も、もう終わる。  考えてみれば、人生で一番激動の夏だったかもしれない。  サキの結婚式からはじまり、横島と出会い、恋に落ち、最終的には殺されかけるという結末を迎えた、ひと夏の恋。  よく生き延びたなあ、と今更ながらに背筋が寒くなる。  思いこむと、周りがみえなくなる。  それが自分なのだと体で学んだ。  これからは、軽はずみな行動は慎まないとな、と自分を戒めていた未来の視界に、黒い塊が映る。 「……なに……?」  恐る恐る近づいてみると、街灯の当たらない暗がりで、ひとがうずくまっていた。  男のひとのようだ。  ……どうしよう。声をかけようか。いや、無視したほうがいいかもしれない。  チカから、『自分から危険に突っこむ』と先ほどいわれたばかりだ。  慎重にならねばならない。  でも、具合が悪くて助けも呼べないのなら、救急車を呼んであげないといけない。  もし未来が見て見ぬ振りをしたことが原因で、このひとが死んでしまったら、それはさすがに寝覚めが悪い。 「でも」が、せめぎ合うなか、未来は声をかけることを選んだ。 「あの、大丈夫ですか……?」  どうみても大丈夫にはみえないが、これ以外の声のかけ方がわからず仕方なくそうする。  かがんで相手の顔を覗きこむと、ゆるゆると男がこちらを見上げた。  そのとたん、未来の顔がボッと音を立てながら発熱する。  か、可愛い……。  道路にうずくまっていたのは、綺麗な顔をした、まだ若い、大学生くらいの青年だった。  青年に見とれていた未来は、それどころじゃないだろ、と自分にツッコミを入れて、深呼吸して心臓を落ち着かせてから尋ねる。 「救急車、呼びましょうか」 「……お……」 「お?」 「……お腹が、空いた……」 「……は?」  それきり青年は、顔を伏せてしまった。  未来はざっと青年の身なりを観察する。  所持品はなにもないようだ。  服が汚れているようすもないので、ホームレスではないのだろう。  しかし、どうする?  お腹が空いた、では救急車は呼べない。  交番にでも連れていけばいいのだろうか。  ぐるぐると悩んでいるうちに、気がつけば、未来は青年に肩を貸して自宅へと向かっていた。  後になって思い返してみれば、自分はやはり酔っていたのだと思う。  酔って、気が大きくなり、後先考えずに行動してしまった。  青年をボロアパートの自室へ入れ、疲労困憊の様子の彼を座らせ、冷蔵庫にあるなけなしの食材で料理ともいえないものを作り、ローテーブルに置くと、彼は飢えた仔犬のように、がつがつと、料理を消費していった。  相当、お腹が減っていたようだ。  今時行き倒れになるなんてなにがあったのだろう。  ベッドを背もたれにして、青年の対面に座り、ミネラルウォーターを飲みながら料理にがっつく青年を眺める。  気持ちのいい食べっぷりだ。  苦手な料理を作った甲斐がある。 「美味しいですか?」  そうきくと、料理を口に運ぶ手を止めないまま、彼は大きくうなずいた。  どうやら、満足してくれたらしい。  なんだか、ペットの食事を見守っている気分だ。  ものの数分で料理を平らげると、彼は、うとうとしはじめた。 「あっ、待って、寝るならシャワー浴びてください。体の汚れ、洗い流してきたほうがいいですよ」  未来は潔癖症ではないが、彼がどこから来てどう過ごして来たのかわからない状況では、清潔にしてもらったほうが好ましい。  シャワーを終え、バスルームから出てきた彼の肌はつやつやで、色白の顔には、仔犬を連想させる黒目がちの大きな瞳と、高い鼻、大きくも小さくもない桃色の唇が、芸術的なまでの比率で配置されていた。  みつめていると、ため息がこぼれる。  横島とは正反対のタイプだ。  青年は、明るいブラウンのクルンと毛先がカールした髪を乱暴にタオルで拭くと、ドライヤーで乾かすこともせずに、よほど疲れていたのか、ラグの上に丸まると、すやすやと寝息を立てて眠ってしまった。  青年の寝顔を微笑ましい気持ちで眺めていた未来ははっと我に返った。  私、今、なにをしている?  自分は、とんでもない危険を犯してはいないか?  見ず知らずの男を無防備にも家に入れるなんて。  襲われたらどうする。  ようやくその可能性に思い至って未来は、青年をこわごわと振り返る。  彼は気持ちよさそうに寝息を立てている。  未来はしげしげと青年をみつめる。  食事の間も、シャワーのあとも、青年は無言だった。  一体、このひとは誰なんだろう。  何者なのかもわからない男と、ひとつ屋根の下で一晩過ごす。  危険極まりない状況にも関わらず、摂取し すぎたアルコールのせいで、未来の体も睡眠を求め、限界を迎えてベッドに潜りこむなり深い眠りに落ちてしまった。 9月9日(土) 未来の自宅にて  まどろみのなかにいた未来は、ただならぬ気配を感じて目を覚ました。  朝の日差しに目を細めながら、上半身を起こすと、目の前の光景にギョッとする。  見知らぬ青年が、正座してこちらをみていた。 「えっえっ……誰?」  余りの驚きに未来は固まってしまう。  呆然とした未来の脳裏を、走馬灯のように、昨夜の出来事が駆け巡る。  酔った自分が青年を部屋へ入れたところまでが、脳内で再生されると、未来は青ざめた。  酒の勢いとはいえ、なんて危ない橋を渡ってしまったのか。  たとえば、この青年に殺されたとしても、非は100パーセント自分にある。  全身から汗が噴き出す。  しかし、少しも動けないまま、数秒間、謎の青年と見つめ合ってしまう。  すると、ガバッと音を立てて、青年が土下座した。 「ご迷惑をおかけしました!助けてくださって、ありがとうございます!お礼もいわないで寝てしまって……行くあてがなかったので、本当に助かりました。ありがとうございました!」  昨夜とは打って変わって、青年は幼さも感じさせる声音で、ラグに額を押し付けて、誠心誠意という言葉がぴったりな迫力で、謝罪と感謝を口にする。 「あ……いえいえ、それほどのことは……いや、違った。あの、あなた、誰ですか?」 「僕、小島陸(こじまりく)っていいます。20歳の大学生です」 「大学生……やっぱり年下か」 「あの、で、あなたは?」 「あ、私は小野寺といいます。小野寺未来。24歳」 「僕より年上なんですね、みえないです」 「いや、それほどでも……で、小島さんは、なんで昨日行き倒れてたんですか?」 「いや……色々と事情があって……。詳しくは話せなくて……。本当に、未来さんに助けていただいて感謝してるんですが……」  謎の青年、陸は、正座した姿勢のまま、膝に置いた両の拳をきつく握り、そこに視線を落とし、押し黙った。  長いまつ毛が小刻みに震えている。  まるで、大型犬に怯える仔犬のようだ。  大丈夫だ、と声をかけてやりたくなる。  美しく整った陸の顔に、憂いが浮かぶ。  しばらく無言の時間が続き、やがて決意したように、顔を上げると、陸はいった。  未来の表情を伺うような上目遣いで。 「僕、本当に行くあてがなくて、お金もなくて……いいづらいんですが、すこしの間、僕をここに置いてもらえませんか?」 「……は?」 「未来さんは、働いているんですよね?僕、家事は得意なんです。掃除も洗濯も料理も、なんでもします。なので、どうか、お願いします!」  深々と再び頭を下げられ、さて、どうしたものかと未来は考えあぐねる。  昨日出会ったばかりの、正体不明の青年。  どうして行くあてがないのか、それすらいわない。  そして、出会ったばかりの未来に、家に置いてほしいという。  危険ではないのか。  危害を加えられる可能性はないといえるだろうか。  いや、いえるはずがない。  だって、青年と出会って、まだ1日も経っていないのだから、なにをどう判断して彼が危なくないと断言することができるというのか。  この非常識極まりない青年を、無慈悲に突っぱねるという選択肢は、もとよりない。  彼に所持金がないということは、未来の稼ぎで養わなければならないということだ。  正直きつい。  彼は働く気があるのだろうか。  いや、先ほどの口振りから、金銭面は未来に頼り切りになるつもりなのかもしれない。  どのくらいいるつもりなのか、出て行く目処は、彼にあるのだろうか。  昨夜のように、ぐるぐると頭を回転させて考えこみ、脳内で金勘定をしていた未来の視界に、すがりつくような潤んだ眼差しの陸の顔が映る。  か、可愛い。  守ってあげたくなる。  本当に、親がいないとなにもできない仔犬みたいだ。  その瞬間、未来の理性は吹き飛んだ。  大学生の男の子が困っている。  未来しか頼れる相手がいないと、こんなにも不安そうに、切羽詰まった表情をしている。  なら、助けてやればいいじゃないか。  お金なんてどうにでもなる。  貯金だってないわけじゃない。  ちょっと贅沢したり、自分へのご褒美を買ったりしなければいいだけの話だ。  大丈夫、いける。 「わかった。少しの間だけなら、ね。でも、ずっとは無理だよ」  その瞬間、陸がぱあっと華やいだ笑顔になった。 「本当ですか!ありがとうございます、未来さん!」  ああ、駄目だ。  陸のあまりに邪気のない、あまりにも庇護欲をそそられる、あどけない笑みに、未来は内心で白旗を上げた。  はぐれた親犬を探し出した仔犬のような、心細さを隠しもしない陸が浮かべた、心底安堵したような表情に、魂を撃ち抜かれてしまった。  きゅるるん、と効果音がつきそうな、陸の潤んだ上目遣いには、母性を刺激するなにかがある。  これが、世にいう母性。  こんな感覚、生まれて初めてだ。  生活水準がなんだ。  陸がなにものでもいいじゃないか。  この笑顔を守れるのは自分だけだ。  沸騰した2日酔いの頭で、未来は次々と「でも」の壁を突き破っていった。
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