小野寺さんは結婚したい

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10月29日(日) 夜の繁華街にて  週末の夜。  駅前の繁華街は、残り少ない休日を楽しもうと、繰り出した人々で溢れ返っていた。  きらびやかなネオンが彩る街には、いつしか冬の足音が近づいてきていた。  アルコールに酔った千鳥足の男の集団がいる。  体を寄せ合って歩くカップルがいる。  寝てしまった子ども背負って楽しそうに歩く若い家族連れがすれ違っていく。  様々なひとが、様々な過ごし方をして街は成り立っていく。  未来は、客引きの男を振り払いながら、人混みのなかをひとり歩いていた。  いけないことだとわかっている。  自分が傷つくかもしれないともわかっている。  けれど、陸の本当を知らなければならない。  夕方、買い物に行きたいと陸がいうので、未来は奮発して1万円を渡した。  「今夜は先に寝ていてください」といって、陸は出かけていった。  陸がそんなことをいったのは、一緒に住み出してから、初めてのことだった。  これはなにかある、と直感した未来は意を決して陸のあとを追うことにした。  失うには痛い金額だが、その1万円を持って陸がどこに向かうのかを確かめるためには必要な出費といえた。  陸はやや背を丸めながら、雑踏のなかを歩いていく。  また、パチンコにでもいくつもりなのだろうか。  次第に、未来の緊張が高まる。  自分の知らない陸の別の顔を知ることになってしまうかもしれない。  未来は立ち止まって、ぱしっと両頬を叩く。    なにを恐れている?  どんな陸の正体を知っても、動じないと、受け入れると、チカに強がったばかりではないか。  あの根拠もなく強気だった自分はどこへいったのか。  決めたのだ、信じると。  今は、陸への思いを試されているのだ。  負けるわけにはいかない。  再び歩き出した未来の視線の先、陸が、スナックやバーがひしめく、けばけばしい電飾が怪しげな雰囲気を醸し出す、駅前の奥まった通りへと進んでいく。  羽虫が照明に吸い寄せられるように、ひともまた、ネオン輝く看板のかかげられた店へといざなわれるように入っていく。  陸の消えた店の前で、未来は立ち尽くす。  キャバクラだった。  店内に入るわけにもいかず、未来は途方に暮れた。  ぐ、と唇を噛む。  浮気をしているわけではない。  独身なのだから、大人の店に出入りしていたって、なんの問題でもないはずだ。  しかし、ショックは大きい。  まず未来は、キャバクラというものを、初めてみた。  本物のキャバ嬢というものも、みたことがない。  中でどんなことが行なわれて、どんなひととどんな会話をしているのか、想像するだけで、むくむくと、どす黒い感情が腹の底から湧き上がってくる。  こんな気持ち、初めてだ。  今まで風俗やキャバクラに出入りする男と付き合ったことはない。  いや、本当は未来が気づいていないだけで、そういう男もいたのかもしれないが、とにかく、こんなことは初めてだった。  この事実を知ってしまったうえで、どう対処すればいいのかもわからない。  ……許せない。  裏切られたという思いが拭い切れない。  毎日毎日笑顔で迎えてくれて、未来のために尽くしてくれた。  彼の笑顔に、どれだけ癒やされてきただろう。  彼のために働こうと、未来も陸に尽くしてきた。  将来まで口にする、彼のため。  全ては陸のため。  未来は、生まれてしまった感情に戸惑いつつも、飼いならすこともできずにため息をつくと、家路についた。 11月10日(金) 居酒屋にて 「やっぱりチカのいうとおりだったよ。  陸に、私の渡したお金、なにに使ってるのか問い詰めたら、ギャンブルとキャバクラに使ってるって認めた。500万も、ギャンブルに使うために借りたもので、入院してる妹の話も嘘だった」  大学進学を機に、ひとり暮らしを始めた陸は、ありとあらゆるギャンブルを覚え、大学にも行かずに借金を繰り返しては、賭けに興じていたという。  気がつけば借金は返し切れない額まで膨らみ、家賃も払えず部屋を追われ、借金取りから逃げ回る生活を送っていたという。  そこで出会ったのが、未来だった。  やはりチカのいうとおり、未来は彼に利用されていたのだ。  レモンサワーを飲み干し、グラスをテーブルに叩きつけるように置くと、チカは鼻から荒い息を吐き出した。 『あたしだけじゃなくて、アンタ以外の人間は、全員、陸がクズのヒモだってわかるわよ。  男を好きになると、頭がのぼせ上がるとはいえ、アンタ本当に陸がクズだって疑わなかったの?』 「クズとかヒモとかいわないでよ。  陸ね、泣きながら見捨てないでほしいって謝ってきたの。  これからは、心を入れ替えて、きちんと大学に行ってギャンブルともキャバクラとも縁を切る、2度と行かないって誓ってくれた。  借金返済のためにアルバイト探して自立するって」  グラスを置いた姿勢のまま、未来を凝視していたチカが、呆けたような声を出す。 『……は?まさか、許したの、陸のこと』 「許したよ。彼が2度と同じ過ちを繰り返さないように、私が更生させる。これまで通り、彼が自分で稼げるようになるまで私が支える。借金返済の目処がついたら結婚するよ。彼もちゃんと約束してくれた」  平然と答える未来の対面で、チカが髪を振り乱して首を左右に振った。  まとわりつく虫を振り払っているみたいだ。  どうしたのかと心配になった未来が、声をかけようとすると、チカがあらんかぎりの力で声帯を震わせた。 『アンタ馬鹿!?借金まみれのギャンブル狂が、ちょっと叱られたくらいで治ると思う!?  大学生のくせに500万も借金があるのよ?  自立自立っていうけど、とてもじゃないけど、まともに就職なんてできないに決まってるわ。  アンタまで借金背負うつもり?  どうしてアンタがそこまで陸のために身を削らないといけないのよ?  本当に、そこまでする価値が、陸にはあるの?』  相手の声をきき取るのが難しいほど繁盛していた店内は、今や怒り狂うチカの独壇場となっていた。 「ちょっと、チカ、みんなこっちみてる」 『関係ないわ。それより陸よ。彼と付き合うのはやめなさい。必ず不幸になるわ。断言する』 「チカ、陸に会ったことないでしょ。どうしてそこまで否定するの?」 『当たり前でしょ!誰にきいても、借金背負ってるヒモの大学生と付き合うなんてやめとけって、99パーセントはいうわよ。残りの1パーセントはアンタみたいな馬鹿な女』  不機嫌そうにチカは2杯目のレモンサワーを喉に流しこむ。  今日はペースが早い。 『ねえ、わかるでしょ?あたしだって、こんなこと、いいたくていってるわけじゃないのよ。ただ、アンタが心配だからいってるの。これ以上アンタに傷ついてほしくないから、仕方なく、暴走を止めるためにいってるの。アンタに不幸になってほしくないから。そりゃ、不幸話をきいて酒を飲みたいとかいってはいるけど、アンタにいいひとが現れてほしいって本当は思ってるのよ。いつか理想のひとが現れて、幸せな結婚してほしいって思ってるの。そうしたら、あたしだってきちんと応援するし祝福するわよ。  でも、今は駄目。陸は違う。  陸は必ずアンタを不幸にする。今のうちに縁を切っておかないと後悔するわ』  親友の、酒の力を借りない真摯な言葉に、未来の胸がぎゅっと締めつけられる。  わかっている、心配しているからこその忠告だとも、自分が今、暴走していることも、理解していた。  けれど、駄目なのだ。  今の未来には陸しかみえない。  陸を切り捨てる可能性などもはや、頭の片隅にも残っていない。  自分なんか、どれだけ傷ついてもいい。  それで陸を救えるのなら。 「……ごめん、チカ。やっぱり陸を諦めるなんてできないよ」 『あ、そ』  チカは先ほどまでの勢いを失い、心底残念そうに視線を落とすと、この夜は、これ以上未来に毒舌を吐くことはなかった。  なにをいっても無駄だと、見限られたのかもしれない。  未来は少しだけショックを受けたが、陸への気持ちを前にすれば、それさえも仕方のない犠牲に思えた。  なにかを得るには、対価としてなにかを失わなければならないのかもしれない。  それが親友との友情であることに、未来は少しだけ神様を恨んだ。 11月18日(土) 未来の自宅にて  陸に頼まれた買い物をすませ、帰宅した未来は、部屋の鍵をひねったとたん、かすかな異変に首をかしげた。  鍵がかかっていない。  出かけるとき、閉めていったはずだ。  ぎい、と軋む古びたドアを開けると、未来は目の前の光景に目を疑った。  なにも、ない。  家を出たつい2時間ほど前には、なんの変化もなかったはずのアパートの自室は、もぬけの殻だった。  靴を脱いで、ふらふらと部屋に上がる。  六畳一間の部屋から、まさしく文字通り家財道具一式が消えていた。  ベッドも、ローテーブルも、テレビも、本棚も、冷蔵庫も洗濯機も、食器棚の皿1枚にいたるまで、なにも部屋には残されていなかった。  引っ越しの直後のように、あるいは入居直前のように、部屋は綺麗に掃き清められ、ほこりのひとつも残っていない。  部屋を間違えたのかと、もつれる足取りで靴を履き、外へ出てアパートの外観を確かめるが、自分の部屋で間違いはない。  そもそも、外観はこんなだが、このアパートに空き部屋はないのだ。 ……空き巣に入られたのだろうか。  しかし、未来が家を空けたたった2時間程度で、部屋のなにもかもを盗むことが可能なのだろうか。  そもそも、こんなボロアパートの自分の部屋が、なぜ狙われたのだろう。  物を多く持つタイプではない。  むしろ、切り詰めて生活しているだけあって、必要最低限の家財があるだけだ。  アクセサリーやバッグなど、金になりそうなものはひとつも持っていない。  未来の部屋にあるものを売ったところで、大した金になるとも思えなかった。  今、未来の手元に残っているのは、持ち出したバッグの中身のみだ。  スマホと財布、買い物帰りに寄った喫茶店で使用した愛用のノートパソコンのみ。  キャッシュカードのたぐいは、財布に入れてあるから無事だが、実家から持ってきた思い入れのある品々がなくなったショックは大きい。  金をかければ取り返せるものばかりではない。  思い出が詰まったものも、たくさんある。  手放したくなかったものまで、奪われてしまった。  返して……返してほしい。  金を払ってでも取り返したいものがある。  一体誰がこんなことを……。  なぜ自分がこんな目に遭わなければならないのか。  私は、そんな悪い行いをしたのか?  ただ好きなひとと、平和に過ごしたいだけ。  それなのに、そんなささやかな夢も叶えられないというのか。  どこまで徳を積めば、私は人並みの幸せを手に入れることができるのだろう。  体の一部が引き千切られたような痛みに、未来はこらえ切れずに大粒の涙を流すことしかできなかった。  警察に通報しなくては……。  呆然ともののない部屋に立ち尽くしていると、大事なことを忘れていることに気づいた。  陸は……?  彼はどこへ行ったのだろう。  玄関を振り返る。  陸のスニーカーはなかった。  なにが起きているのか……。  混乱を極める未来は部屋へと戻り、陸の手がかりを探すように辺りを見回す。  残されたものは、なにひとつない。  陸と連絡を、取る方法はない。  陸は、スマホを持っていない。  出かけた先で、事故にでも遭ったのではないか。  あるいはまた、どこかで行き倒れにでもなってはいないだろうか?  悪い考えが、あらゆる可能性が未来の頭をよぎっては遠くに流れていく。  どうか無事でいてほしい。  早く、早く帰ってきてほしい。  あの仔犬の笑顔で、「ただいま」と帰ってきてほしい。  そして、大丈夫だと抱きしめてほしかった。  安心させてほしかった。  陸さえいれば、この苦境を乗り越え、イチからふたりで生活を立て直す気力もわくに違いない。  陸、どこに行ったの?  大変なことになってるんだよ。  早く犯人を捕まえてもらわないと、陸との思い出が詰まったものまで奪われてしまったの。  一緒に犯人を恨もうよ。  この気持ちを、話したい、共有したいよ。  ねえ、陸……。  まずなにをすべきなのかもわからずに、フローリングの床に座りこんでいると、すぐに夕闇がカーテンのない窓から侵食してきて部屋を暗くする。    どれだけそうしていたか……。  陸が帰る気配はない。  未来は未だに信じられない面持ちで、現実を受け止められないまま、靴を履いて外へ出た。  そしてその足で警察へと向かった。 11月23日(木) 帰宅途中の家路にて  結局、今に至るまで、空き巣犯は捕まっていない。  警察が部屋を調べ、犯人の痕跡を探したが、なんの手がかりも得られていない様子だった。  警察から事情をきかれ、同棲していた恋人がいることも話した。  事情聴取の際、陸のことをきかれ、未来は、自分が彼のことをなにひとつ答えられなかったことに戦慄した。  付き合っていた男がなにもので、どんな経歴を辿ってきたのか。  どこへ行ったのか、心当たりはないか、彼を知る知り合いはいないか。  どんな質問をされても、未来はひとつも、まともな答えを返すことはできなかった。  要領を得ない答えに終始する未来からは、有力な手がかりは得られないだろうと判断したのか、警察はすぐに未来を解放した。  警察は、事件直後から姿を消した小島陸を疑っているようだ。  無理もない、と未来は思う。  金目当ての空き巣より、行方をくらませた同棲相手のほうが、犯人として矛盾が少ない気がするからだ。  陸がなぜ未来の家財を盗んだのか。  金にするためだ。  ギャンブルで借金をしていたことを認めた日から、未来は彼に金を渡さなくなった。  もともと、彼に所持金はない。  陸が、未来をもう利用価値がなくなった女と判断して、金になりそうな家財を根こそぎ奪って姿を消したのというのが、一番現実的で、しっくりくる推測だった。  その金を、返済にあてたのか、ギャンブルに使ったのかは、未来には知る術がないことだ。  自分は利用されるだけして棄てられたのだ。    いくら待てど暮らせど帰らない陸の行方不明者届けを、先ほど警察に出してきたが、成人男性が数日帰らないだけでは、警察も本腰を入れて捜索はしてくれないだろう。  事件性もなく、ただの家出として扱われれば、積極的には捜索してくれないかもしれない。  未来にとって陸は、かけがえのない恋人だが、警察にとっては数いる失踪者のひとりにすぎないのだ。  陸を発見できる望みは薄いかもしれないな、と未来は諦めの境地に達する。  もし今、陸が帰ってきてくれたなら、未来は受け入れられる自信がある。  そう簡単に忘れられる相手ではないのだ。  知り合って短期間とはいえ、共に過ごし、将来一緒になろうと約束した相手なのだ。  今は、陸に裏切られたという思いより帰ってきてほしいという思いが強い。  あの仔犬の笑顔で迷いのなにもかもを吹き飛ばしてほしい。  ただそばにいてくれればそれでいい。  願いはただ、それだけなのに……。  叶わない想いに嘆息し、未来が警察から家までの道を歩いていると、狭い道幅の通りの背後から、車のエンジン音が近づいてきた。  避けなければな、と歩調を緩め、道の端に寄って車をやり過ごそうとする。  ゆっくりと近づいてきた車が停止し、音を立ててドアが開き、ひとが降りてきた気配がする。  なんだ、こっちに来ないのか、と歩きだした未来を、謎の衝撃が襲う。  後ろから、なにかがぶつかってきて、よろけた未来の腕が掴まれ、大きくて力強い手のひらで、口を塞がれる。 「っ!?」  とっさに声も出せない未来を、正体不明のなにものかが、ものすごい力で引きずり、ずるずると未来の靴がアスファルトを引っかく。  体を完全に抱えこまれ、抵抗すらできずに、車の後部座席に放りこまれる。  そのとき、初めて自分を襲った相手を確認した。  目出し帽を被った大柄の男。  男は、狭い車内で未来の体を抑えこみながら、悲鳴も上げられない未来の両手と両足を、手際よく結束バンドで拘束していく。  やがて男が作業を終え、見動きが取れなくなった未来をフラットにした座席に転がすと、勢いよく後部座席のドアを閉めた。  この間、わずか3分足らず。  目出し帽が助手席に飛び乗ると、ドアを閉めたと同時に車が発進する。  完全にフリーズしてしまった未来を乗せて、車は市街地を駆け抜けた。  数分後、未来はようやく自分が危機的状況に陥っていることに気がついて、底知れない恐怖感に体を震わせていた。  未来を襲ったのは、助手席に座る目出し帽と運転席の男ふたりのようだ。  面識はない。  なぜ自分が連れ去られたのか、その理由を思いつきもしなかった。  ただの誘拐犯か?  自分を拉致して、これからどうする気なのか。  もしかして、このまま殺されてしまうのだろうか。  冷や汗が全身から噴き出す。  冷たくなった両手が震えはじめる。  誰か、誰か気づいて。助けて。  この車は、一体どこに向かっている?  この男たちは、なにものなのか。  どんな目的があるのか……。  未来は、震える手を首筋に這わせた。  首にかかっているものを、衣擦れの音もさせないように引っ張り出す。  拘束されたのが、後ろ手でなくて助かった。  男たちは、未来の拉致に成功して気が抜けたのか、雑談をはじめた。  自分に注意が向けられていないことを確かめると、未来は服のなかに隠したもの手繰り寄せた。  チカからもらったプリペイド式携帯電話だった。  バッグは奪われてしまったが、タートルネックのセーターを着ていたおかげで、首が隠れ、そこから提げていたストラップに、男たちは気づかなかったようだ。  ストラップの先には、携帯電話とGPSが繋がれている。  チカとサキにこれを渡されてしばらくは、バッグのなかに入れていたのだが、チカに闇金に顔が割れている、とおどされて以来、万が一の場合を考え、首から提げるようにしたのだ。  震える指先で、チカの番号を押していく。  やがて通話状態になり、『もしもし?』というチカの声が小さくきこえた。  もちろん、声を出すことはできないので、未来は無言のまま、チカが異変に気づいてくれるのをひたすら待つことしかできない。 『もしもし、未来?……なにかあったのね?待って、今場所確認するから』  チカの声に安心して、未来の瞳から涙が溢れ出す。  嗚咽をこらえていると、男ふたりが、機嫌よさげに大声で話しはじめた。 「しかし、あの小島ってガキも、大したもんだよなあ。借金で首が回らなくなったら女に近づいて、騙して財産奪った挙げ句、足りないとなったら女まで売って金にするなんてな。本当に大学生かよ」 「本当だよなあ。ま、騙された女も馬鹿なんだけどな」 「全くだ!あははは!」  男ふたりの会話をきいて、チカが電話の向こうで、『……ふざけないでよ』と怒りに震えた声を出す。  未来は、この先自分に待ち受ける最悪の事態を想像して恐怖に慄いた。   一刻も早くここから逃げなければ、殺されるより辛い目に遭うのは目にみえている。  チカ、早く、早く助けにきて……。 『安心して、警察には通報したから』  その言葉を最後に、電話の向こうのチカは沈黙した。  未来を乗せた車は、警察に止められることもなく、市街地をひた走っていく。  体感で、かなり長い時間を走ったような気がするが、生きた心地がしない状態では、体内時計など信頼できない。  やがて車は、これまたドラマや映画でみたような展開をみせ、人里離れた山奥の、廃墟のような建物に到着すると、完全に停止した。  ドアが開けられ、おあつらえ向きの大男が未来を軽々と担ぎ、廃墟の中へ入っていく。  土や枯れ葉が積もるコンクリートの地面に乱暴に転がされると、待っていたのだろう男が、くわえ煙草のまま近づいてきて、未来の体を見下ろす。 「ふん……なるほどな。風俗へ売るか海外へ売るか……。内臓を売るのは惜しいな。これなら客が取れそうだ」  髭面の、中年にも若年にもみえる男が、値踏みするように未来を観察しながら口の端を吊り上げて嗤った。 『しかし、姉ちゃんも可哀想になあ。犬っころみたいな若くて可愛い男を拾って食わせてやったのに、その犬に手を噛まれて売られるなんてな。ま、顔だけの男に騙された姉ちゃんも、自分が馬鹿だったって諦めるんだな。常習犯なんだよ、あのガキは。あいつに売られた女は、姉ちゃんだけじゃない。借金が返せないとなったら、女を騙して金に替える。悪いが、姉ちゃんにも馬車馬のように働いてもらう。その顔なら、客をとるのに申し分ないからな』  ほこりっぽい廃墟に、男たちの哄笑が木霊する。  未来の目から再び涙が溢れ出す。  カチカチと、歯の根が合わない。  居ても立っても居られず、手足をばたつかせて拘束を逃れようとする。  男たちは、面白がるように、抵抗を続ける未来を、半笑いで見下ろしている。  自分はこれから、どうなってしまうのか。  陸の借金返済が終わるまで体を売らされるのだろうか。  地獄だ。  精も根も尽き果てるまで搾取され、自分を待つ未来は、絶望の闇に閉ざされている。  生まれてきたことを後悔するくらいの生き地獄。  そこに、未来の想像も及ばない、どんな世界が待ち受けているのだろう。  怖い。逃げたい。もう逃げられない。  誰でもいいから助けてほしい。  男たちに、涙をみせるのも悔しくて、未来はきつく唇を噛む。 「なあ、売っちまうまえに、ちょっと味見しねえか?」  目出し帽を脱いだ大男が、いやらしい目つきで未来を見下ろしていう。  その場にいる男たちの目が、飢えた獣が餌をみつけたように爛々と輝く。  未来は体を縮める。  これは、まずい。  生まれて初めて味わう圧倒的な恐怖感に、めまいに似た感覚が未来を襲う。  男たちの声が遠くなる。  冷や汗が体温を奪う。  もう、なにも考えられない。  終わりだ。  男たちが接近する気配を感じながら、それでも荒い呼吸を繰り返すことしかできない未来が、観念してきつく目を閉じたときだった。 『動くな!警察だ!』  廃墟に、野太い男の声が反響した。  エコーがかかったように、声が何重にも重なって鳴り響く。 「チカ……っ」   未来は顔を上げ、小さく呟いた。 「なんでサツに居場所がバレたんだ!お前ら、あとをつけられないように注意しろって、あれだけいっただろうが!」 「バレてねえよ!ここにくるまで、ついてきた車なんていなかった!」 「じゃあなんでサツがいるんだ!クソっ」  男たちは、怒声をあげ、罵り合いながら、我先にと逃げ出していく。  未来たちが入ってきた入口とは反対側にも、別の出口があるようで、男たちは未来に背を向けて、走り去っていく。  どたばたと、情けない足音を響かせながら男たちの気配が遠ざかる。   『未来!』  足音が消えるやいなや、スーツ姿のチカが見動きが取れない未来に駆け寄ってくる。 「チカ!…。チカあああ……」  未来は、上半身を起こすと、チカの肩に額を押しつけ、子どものように号泣しはじめた。 『未来……。大丈夫?怪我はない?すぐに、警察もくるから……』 「チカ……ありがとう……助けにきてくれて」 『もう、だからいったじゃない……。陸はやめとけって……。本当、馬鹿なんだから』  厳しい言葉とは裏腹に未来の頭を撫でるチカの手つきは優しい。  泣きじゃくる未来の、絹のような髪をポンポン、と撫でていると、静寂に満ちた廃墟の遥か彼方から、パトカーのサイレンが近づいてきた。  
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