小野寺さんは結婚したい

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『全く手間かけさせないでよね』    電車に乗ったあとも、愚痴を垂れ流すチカを尻目に、未来は舞台で輝く高柳の姿をひたすら反芻していた。  高柳の演技力は圧巻だった。   主役を食ってしまいそうなほど、という感想を抱くのは、未来が高柳に特別な感情を感じているからだろうか。  約2時間半のあいだ観た舞台で、未来の脳裏に蘇るのは、脇役のはずの高柳の姿ばかりだ。  結婚相手に求める条件として、「尊敬できる」というのは、かなり上位にくる項目ではないかと、未来は思う。  それをいうと、今日の高柳は未来の想像の遥か上を行く才能を感じさせた。  尊敬する、どころかその才能に簡単にひれ伏せてしまえるレベルの。  頭が痺れたように思考が停止している。  目の前の風景すらぼやける。  完全に、のぼせ上がっている。  胸が絞めつけられて痛い。  高柳を想うたびに、吐息が熱を持つ。  彼の才能に、憧れさえ覚える。  そしてそれを自覚するたびに、なんの取り柄もない自分に失望する。  高柳は、こんな自分で本当にいいのだろうか。   もっと、彼の才能に相応しい相手がいるのではないか。  未来が空っぽの女だと知ったら、棄てられてしまうのではないか。  夜景が残像を残しながら流れていく。  未来の火照った体に、ガタンゴトンという電車の心地よい揺れが興奮を鎮めてゆく。  隣に座ったチカが、ことん、と事切れた人形のように、未来の肩に頭を預けてくる。  未来の面倒をみすぎて疲れたのか、眠ってしまったようだ。  未来は親友の寝顔を微笑ましげに眺めながら、スマホをバッグから取り出した。  何度も打ち損じながら、筋の通った文章を作成しようとする。  ……上手くいかない。  未来は諦めて、ごくシンプルな言葉を終演後で疲れているであろう高柳に送信した。 『私と、お付き合いしてください』 12月25日(月) イタリアンレストランにて  夕食時の小洒落たイタリアンレストランは、カップルで溢れていた。  ワインをひとくち飲んだチカが、窺うように未来を見つめると、小首をかしげた。 『なんか、落ち着いたわね、アンタ』 「そう?満たされてるからかな」  未来は大人びた微笑を浮かべてみせた。 『上手くいってるんだ、高柳さんと』 「うん。あれからひとりでも舞台観に行ったし、彼も仕事のあいだに時間を作ってくれてデートしてる。順調だよ。  ねえ、きいて。冬真くんね、来年ドラマの準主役に決まったの。月曜日のドラマ枠の。  すごくない?やっぱり今やってる舞台が評価されたみたい。  ……でも、撮影に入っちゃったらなかなか会えなくなるみたいで、嬉しいやら寂しいやら、複雑なんだよねえ。  今は寝る前にかかってくる電話で喋ることが楽しみ。  仕事も冬真くん見習って頑張るようになったし、そうしたら生活が上手く回るようになって、なんていうか、幸せ」 『いいことじゃない、忙しくなるなんて。売れっ子俳優まっしぐらね。変装もせずにデートしたらまずいんじゃないの?スキャンダルは、一番事務所が気を使ってるんじゃないの?』 「そうだね。なかなか外では会いづらくなるかもしれない。でもいいの。今は仕事に専念してほしいし、私と彼の絆はそんなことで壊れたりしないって信じてる。だって、この出会いは……」 『運命なんだから』 「当たり。不思議なの、今は不安が全くない状態で、彼を見守れてる。単純に彼が評価されることが嬉しいし、才能が認められてもっとたくさんのひとに彼の演技をみてほしい。冬真くんは、もっと早く発掘されてもよかった役者だよ。これからどんどん有名になって成功してほしい。それが叶うなら、私はいつまでだって彼のそばで支えるよ。……でも、恋人の座は、誰にも譲らない」 『献身的なんだか強欲なんだかわからないわね』  チカは、賑わう店内を見回して、ため息をつくようにいった。 『で、今日、愛しの彼は?恋人の一大イベントのクリスマスに、あたしなんかと過ごしてていいの?』  店内にも、窓からみえる大通りにも、イルミネーションに照らされたカップルが街を闊歩している姿が目立つ。  店にも、大きなクリスマスツリーが置かれ、きらびやかな電飾がチカチカと瞬いていた。  恋人にとっては特別な意味を持つ日。  この日のために恋人を作るひとも多い。  未来も、そうしようとしていた。  けれど今は、焦りを感じない。  街ゆくカップルたちを見ても、心は凪いだままだ。  未来はゆっくりワインを飲むと唇を笑みの形にした。 「仕事なんだって。ファンクラブのイベント」 『ファンクラブ?』 「そう。冬真くんにもあるんだよ、ファンクラブ。芸能人はカレンダー通りに休みがあるわけじゃないし、休みの日こそ仕事がある職業だから。そこは割り切らないとね」 『ファンクラブかあ……。売り出し中の若手俳優の恋人なんて、見動きが自由に取れない立場になんてよくなる気になるわね。高柳冬真に恋人がいるなんてファンが知ったらアンタ、後ろから刺されるんじゃない?』 「確かに、私にも推しがいたら、そう考えるかもね。応援してたのに、裏切り者って」 『アンタはファンクラブ入らないの?』 「私も入ろうかなっていったことあるんだけど、恋人とファンは違うからって冬真くんに断られちゃって。クリスマスは一緒に過ごせないけど、年末に少しだけ時間ができたから会おうって約束してる」 『じゃあ、年末年始は恋人がいるのに、基本的にスケジュールは空いてるわけね』 「まあね。ねえ、チカ、お正月に初詣、一緒に行かない?縁結び神社」 『気が早いわねえ。付き合ってる相手がいながら、まだ縁結びのご加護がほしいの?』 「彼と縁が離れませんようにってお祈りしたいの。彼の成功も祈願したいし」 『やっぱ強欲だわ、アンタ。神様もそこまで寛容じゃないわよ、きっと。願いはひとつだけにしなさいよね。  ……それにしても、お正月、なんであたしのスケジュールが空いてるって決めつけてるわけ?』 「え?だってチカ、お盆も年末年始も帰省しないじゃない。友達だって私とサキしかいないし……予定、なんかあった?」 『……ないけど。友達が少ないっていうの、結構コンプレックスなんだから、思い出させないでよ。  家族とは、もう絶縁状態だし、あたし、もしかして孤独なんじゃない……?』 「あれ、今更気づいた?仕事をしすぎるのも考えものだねえ。  趣味の合う仲間とか作ってプライベート充実させたら?」 『あたしのこの性格に付き合ってくれる友達なんてこの歳から新しくみつけるのはなかなか難しいんじゃないかしら』 「まだ家族と喧嘩してるの?大人になってチカから歩み寄ってみたら?親だって歳とるし、絶縁したまま死んじゃったら後悔するんじゃない?」 『あたしだって歩み寄ろうとしてるわよ。頑なにあたしを拒絶してるのは向こうなんだから、どうしようもないじゃない』  チカは、ぶすっと不機嫌そうにワインを煽る。 「まだ家族のひと理解してくれないの?」 『もう永遠に理解なんてできないわよ、頭が堅いんだから。親だから、どんな子どもでも受け入れてくれる、なんて幻想だわ』 「ふうん。寂しい話だね」 『もう慣れたわ。だから、あたしには仕事が必要なの。家族にも頼れずに、ひとりで生きていくしかないんだから。甘いこといっていられないのよ』 「うちも親、離婚してるから、家族には苦労させられてきたけど、お母さんは私のことちゃんと育ててくれたし、感謝しないとかな」 『当たり前。感謝しなさい』 「だから、やっぱり早く結婚して孫の顔みせてあげるのが親孝行なのかな。……やばい、また焦ってきたかも……」 『自分で自分を追いこんで、馬鹿じゃないの?今は高柳さんと上手く関係を続けることが親孝行への近道よ。慌てず焦らずがっちり高柳さんを離さずにしがみついてなさい』 「わかった!やっぱり縁結び神社行こう!」 『仕方ないわねえ……。ま、いいわ。初詣、行きましょう。あたしもお願いしてあげる。未来と高柳さんが、なんのトラブルもなく結婚できますようにって』 「……トラブルがあるの前提でお願いしてない?」 『してる。アンタがなんのトラブルもなく男と付き合えるわけないもの。でも、運命の恋人なら、どんな試練だって乗り越えられるでしょ?』 「もちろん!冬真くんとなら、なんだって乗り越えられる!運命の恋人だもん!」  拳を握りながら、叫んだ未来を、周りのテーブルの客たちがくすくすと笑い合っている。  恋人たちが未来たちを優越感たっぷりにみつめている。  でも、気にならない。  見てろよ、カップルたち!  私は、あんたたち以上の幸せを手に入れてみせる。   『ちょっと、恥ずかしい!』  チカが未来の服の裾を掴んで座らせる。  すっかり酔った未来は、高柳との未来を想像して、過ぎゆく聖夜をいい気分で終えたのだった。      12月30日(土) ホテルにて  来年ブレイクしそうな俳優ランキングに、高柳冬真がランクインした。  高柳は、仕事についてあまり多くを語らないが、世間の風潮が、高柳への期待値が高まっているのは、未来も感じはじめていた。  来年早々はじまるドラマで注目が更に集まるのは間違いない。  こつこつとキャリアを積み上げてきた、高柳の努力の結晶ともいえる結果だった。  風向きは確実に変わっている。  世間は高柳に気づきはじめている。  ブレイク前に彼と出会えたのは幸運だった。  スターへの階段を、駆け足で昇っていく彼の後ろ姿を、未来は必死で追いかけていた。  今、高柳のスケジュールは着実に埋まっている。  そんなブレイク前夜、わずかな時間を利用して、未来と高柳は逢瀬を重ねていた。   「こんなホテルでごめん」  けばけばしい色で彩られた部屋で、バスルームからでてきた高柳が、長く伸びたブラウンの髪をタオルで拭いながらいった。  甘い時間の余韻に浸っていた未来は、首を左右に振ると、自分もシャワーを浴びようとベッドから立ち上がる。  未来の色白で柔らかな体を見た高柳は、シャワーを浴びたにも関わらず、またも未来の体を抱き寄せた。  首筋にキスを落とし、ベッドに押し倒す。 「もう……これから仕事なんでしょ?」  甘い誘惑に負けそうになりながら、未来は高柳の体をやんわりと押し返す。  しっかりと鍛えられた胸板に顔を埋めると、 彼の匂いを少しもこぼさないように、深く息を吸う。  我ながら変態的な行為だと思う。  でも、高柳のなにもかもを逃したくないという独占欲に抗えない。  永遠に続いてほしいと願いながらも、刹那の快楽に溺れる退廃的なこの瞬間も、未来はたまらず好きだった。  重い女になりたくない。  でもきかずにおれない。 「冬真……私のこと好き……?」  絶え間なくキスの雨を降らせる高柳の合間を縫って未来はそう問いかける。  荒い呼吸をしながら、「好きだよ。世界で一番未来が大切だ」あえぐように高柳は答えた。  お互いの体温で汗が滲む。  高柳の鼓動を感じる。  ああ、幸せだ。  今度こそ、遠い憧れを手に入れられるかもしれない。  結婚という、究極の愛の行き着く先を。 「仕事行かなきゃ」  高柳のそのひとことで、夢のような時間が終わる。  抱き合ったあとの気だるさを全身に感じながら、未来はベッドから、服を着る高柳を眺めていた。  愛し合ったあとの高柳はどこか冷淡だ。  現実が、未来にそう思わせた。  ずっと高柳と一緒にいたい。  甘えて抱き合ってキスをしていたい。  高柳をひとり占めして離したくない。  すっかり服を着終わった高柳は、今の今まで未来にみせていた、快感で蕩けそうな表情を一切消し、余所行きの顔に戻っていた。  未来を一抹の寂しさが襲う。  それでも未来は、笑顔を作っていった。 「うん、お仕事頑張って」 「未来がいるから頑張れるよ」 「……次、いつ会える?」 「……そうだな、次に休みが取れるのは……ちょっといつになるかわからないな」 「……そっか……。わかった、忙しいもんね、冬真。私のことは二の次でいいから。冬真が楽しくお仕事できるのが一番。電話で話せるだけで私は満足だから」 「我慢強いな、未来は。もう少しわがままでも可愛いと思うけど。ま、そこが未来のいいところか」  コートを羽織ってバッグを持つと、「また連絡する」といい残して、高柳はホテルの部屋を出ていった。  ひとり残された未来は、ベッドに寝転んで、高柳の残り香を堪能するように大きく息を吸う。  満たされた空間。  未来と高柳だけが知る秘められた濃密な時間。  未来は、知らず知らず緩む頬を自覚しながら、余韻に浸るように目を閉じた。   1月1日(月) 初詣帰りのカフェにて   『すごいひと。初詣なんて久々にきたけど、元旦にくるもんじゃないわね。神社で並んでるときなんて、真冬なのに汗かいたもの』 「チカは汗かきだもんね。でも、神様に願いを叶えてもらうには、このくらいで音をあげちゃいけないんだよ」 『あたしは無宗教なの。必要なときだけ思い出したように神頼みする日本人て罰当たりね』 「私は毎年きて、縁結びを祈願してるけど……。どうしようもないときに最後に頼るのが神様でしょ。いつもは意識していないだけで、心のどこかには神様はいるんじゃないかな。心の支えっていうかさ」 『神様も普段から崇めてほしいでしょうね。一方的に頼られて、案外神様も迷惑してるかもね。見返りはなにもないんだから。普段から信心深いひとの願いだけ叶えていたいって思ってるかもよ』 「うーん、確かに。でも、冬真に関する願いだけは叶えてほしいなあ。それ以外は、高望みしないからさ」 『高柳さんのなにを?ドラマがヒットしますように?それとも結婚できますように?』 「もちろん、冬真の仕事が上手くいきますように、だよ。結婚はあとでいいの。今は、彼が成功するのが一番」 『へえ。25歳になるまでに死にものぐるいで結婚をゴリ押しするのかと思ってた。どういう心境の変化?』 「自分より大切に思えるひとと出会ったから、かな。仕事に没頭する彼をみてたら、自分の結婚願望とかが、ちっぽけに思えたというか。   もっと人間として成長しないと彼に置いていかれる気がしてさ。  努力家な彼に相応しいのは、今の私じゃない。もっとひととして一人前のひとなんじゃないかなって」  『ほお。それはそれは。向上心の欠片もなかったアンタにそんなことをいわせるとは、高柳さんてすごいわね。本当に、運命の相手なのかも』 「……なんか、チカが褒めると調子狂うな」 『ま、いい加減、神様も根負けしたのかもね、アンタの結婚願望に。そろそろ、運命の相手と出会わせてやるか、って』 「そうだと嬉しいなあ」  高柳は、慣れないドラマの撮影に奮闘しているようだった。  これまでの、一瞬しか映らない名もない端役ではない。  物語の中心的役割だ。  忙しさも、比べものにならないのだろう。  また、半年先まで仕事が決まったと、端的に高柳は語っていた。  今が一番の勝負所であると、未来も薄々わかっていた。  だから、会いたい、などと未来からはいわない。  いいたい気持ちをぐっと堪え、物分りのいい彼女を演じた。    わずかに取れる休みをやりくりして、高柳は会いたいと連絡してくる。  未来は、そのたびに自分が忘れてられたわけではなかったことに胸を撫で下ろす。  高柳が、新しい環境に身を置いたことによって、彼が目移りする可能性はいくらでもある。  華やかな世界を知って、どこにでもいるような一般人の未来に魅力を感じなくなることだって有り得ると、どこか危機感を持ち、仕方のないことだと予防線を張っている自分もいた。  だから、高柳から会いたいといわれると天にも昇る心地だったし、高柳との間に、決して切れない赤い糸があると信じることができた。  最近、高柳と会うのは、もっぱらホテルと決まっていた。  街中を歩くデートはできないし、お互いの部屋へ出入りするのも危険だった。  結果的にふたりはホテルで落ち合い、必然のように体を重ねた。  貪るように、むき出しの欲望をぶつけてくる高柳に、未来は内心で幸福を叫ぶ。  高柳がどこまで有名になっても、彼が自分を切り捨てることはない。  会うたびにそう確信ができた。  自信を持つことができた。   彼の原動力になれるのなら、この体をいくらでも差し出そう。  隣で寝息を立てる高柳の寝顔を見て、未来は感じたことのない充実感にどっぷりと浸かっていた。  投げ出された高柳の手を取り、そっと小指を絡める。  ふたりだけの秘密。  ふたりだけしか知らない時間。  永遠に解けないふたりの絆。 「ずっと一緒。約束だよ」眠る高柳の耳に、そっとささやく。  未来は幸せに押し潰れそうになりながら、必死で息をして、高柳を悦ばせる存在でいたいと強く願った。  縁結びの神様に。 1月14日(日) 喫茶店にて   「今からきてほしい」と高柳から連絡を受け、未来は指定された喫茶店を訪れていた。  初めてくる店だ。  キョロキョロと狭い店内を見回し、高柳の姿を探すが、彼の姿はみえない。  店に入ってきて、戸惑ったような表情を浮かべる未来に、席に座っていた若い女性が気づき、つかつかと、パンプスを鳴らしながら近づいてきた。  背の高い、非の打ち所がない美形の女性だった。  銀縁の眼鏡が、どこか冷たさを感じさせる。  ブラウンの髪を伸ばし、スタイルの良さを隠すようなロングスカートをはいている。  清潔感を漂わせる、大人びた女性だった。  彼女が真っ直ぐに自分のほうに向かっていると気づき、未来は困惑しながら女性を目で追う。 「小野寺未来さん?」  涼やかな声が冷たく響く。 「そう……ですけど」  同性で、更に同年代でありながら、未来は女性の気迫に気圧されていた。  ただものではない。  そんなオーラが、女性からは溢れていた。 「どうぞ、席へ」  女性に案内されるがまま、未来はボックス席に腰を下ろす。  誰なんだろう、このひと。  自分の名前を知っているということは、高柳の知り合いなのかもしれない。  今日、この店へくるよう連絡してきたのは、高柳なのだから。  もしかして、高柳の所属事務所のひとだろうか。  交際がバレたとか……?  勝手に想像が膨らんで未来は蒼白になる。  まさか、別れろ、といわれるのではないか。  妄想取り混ぜて頭を混乱させていた未来は、対面に座る男性の存在にようやく気づいた。  かっちりとスーツを着こなし、黒髪を撫でつけた壮年の男性だった。  未来を案内した女性が、男性の隣に座り、未来と対峙する。  店内は閑散としていて、内緒話をするにはこれ以上ないほどの環境だった。  不安そうな顔つきの未来を安心させるように、女性が薄く微笑んだ。 「初めまして、小野寺さん。わたしは、高柳冬真の妻の、高柳麗香(たかやなぎれいか)といいます」  「……は?」  未来が投げつけられた言葉を咀嚼できずに、呆けた声を出すと、くすりと麗香が小さく笑った。 「急に呼び出してごめんなさいね。なんのことだかわからないわよね。  主人がお世話になっています。  妻として、お礼を言わせてもらうわ」  ……妻?  ……高柳麗香?  未来の脳が理解を拒絶する。  高柳に、妻がいた……?  高柳に、結婚しているかどうか、尋ねたことはない。  そんな可能性、思いつきもしなかったからだ。  高柳は、付き合いたいと声をかけてきた。  未来を好きになったと。  歳もまだ若く、そんなふうに告白してきた男性が、結婚しているなんて可能性すら思い浮かんだことがなかった。  高柳が妻帯者……。  ふと、働かない未来の頭がある事実を突きつける。  ……自分は、気づかないうちに不倫していたのではないか。  高柳冬真に、騙されていた?  ……いや、冬真は騙してなどいない。  未来が無意識にその可能性を排除して、きかなかっただけだ。  高柳は既婚者だとも、独身だとも、明言していない。  高柳から告白してきた以上、彼が自分から結婚していることを話すわけがなかった。  知らない間に、自分は高柳の不倫相手になってしまっていた。  麗香は、微苦笑しながら、柔らかい口調で言葉を続ける。 「主人……冬真は、わたしの存在を隠してあなたと付き合ってたんでしょう?  本当、女好きで困っちゃう。可哀想に、あなた、彼に騙されていたのよ」 ……冬真に、裏切られた。  そう頭のなかで瞬時に思ったのに、未来の口からは、自分でも信じられない言葉が流れ出す。 「私……知りません、そんなひと」  未来の返答に、麗香は切れ長の目を細めて、軽くため息をつくようにバッグに手を差し入れる。 「そう。あなた、彼に遊ばれたのよ。彼に、庇う価値はないと思うけど」  麗香は、1枚の紙をテーブルに置き、未来にもみえる位置まで滑らせていく。  それをみた未来の顔色が青ざめた。  動揺していることは明らかだった。  唇が細かく震える。  手足が冬の街を歩いたあとのように熱を奪われて冷たくなっていく。  頭のなかが真っ白になって、呼吸が浅くなる。  麗香が差し出したのは、1枚の写真だった。  親密な様子で、顔を寄せ合ってホテルから出てくる高柳と未来が映った浮気の決定的な証拠だった。  全身から汗が噴き出す。  いい逃れできないその証拠に、未来はうなだれる。 「浮気調査専門の探偵を雇って、あなたと主人のことは調べてもらいました。まだいい逃れをするつもり?」  探偵など、映画やドラマなどでみるだけの、想像上の職業で、決して未来が生きる世界には縁のない存在だと思っていた。  空想の存在にも等しい探偵に、後をつけられていたなんて、全く気づかなかったし、気づかれては探偵を名乗れないのだろうと、放心した未来は回らない頭で無意味なことを考え続ける。 「……ごめん、なさい……」  うなだれた未来は蚊の鳴くような声でもごもごと、謝罪の言葉を述べる。 「認めるのね?」  勝ち誇ったように麗香が未来の顔を覗きこむ。 「でもっ!」  がばっと勢いよく未来は顔を上げ、声を張り上げた。 「悪いのは私なんですっ。ただのファンのくせに、強引に彼をホテルに誘って、それで、彼は仕方なく私に付き合ってくれて……。無理やりだったんです、本当は彼も奥様を裏切るつもりなんてなくて……」  未来の言葉をきいた瞬間、麗香の表情が険しくなる。 「どうしてそこまで彼を庇うの?彼は、あなたに嘘をついて騙していたのよ?体目当てで近づいて」 「結婚しているかどうかをきかなかった私が悪いんです」  はあ、と麗香が苛立たしげにため息をつく。 「あなたに現実を教えてあげる。冬真の遊び相手は、あなただけじゃないのよ」 「……え?」 「彼ね、SNSで浮気相手を募集していたの。あなただけが特別だったわけじゃないってこと。彼が浮気していることに気づいて、彼と別れてもらうために、こうして浮気相手たちに会ってるの。あなたで3人目よ。でもまだまだ遊び相手は10人近くいるの。骨が折れるわ。彼を運命の相手だなんだと信じてるひとに、現実を突きつけて別れるよう説得するのは……。まあ、わたしにも悪いところがあるんでしょうけど」  麗香は未来から視線を外し、焦点の定まらないどこか遠くを眺める。        
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