小野寺さんは結婚したい

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「わたしと冬真はモデル仲間で、同い年だった。付き合うようになってすぐ、わたしは妊娠した。冬真は、責任を取るといって、わたしたちは結婚することになった。21歳のときだったわ。でも、結婚してほどなくして、流産してしまった。わたしは、そのことを、すぐに冬真にいえなかった。わたしたちを繋いでいたのは、望まずにできてしまった子どもだけだった。  その子どもがいなくなったら、彼を繋ぎ止めることができなくなるんじゃないか。責任を果たさなくてよくなった冬真は、わたしのもとから去ってしまうのではないか……。と、わたしは怖かったの。結局自分に自信が持てなかったのね。彼を信頼することができなかった」  ひと息つくように、麗香は冷めきったコーヒーに口をつける。  未来は、身じろぎひとつできずに麗香の昔語りをきいていた。 「ずっと流産したことを隠し通すことはできなかった。ついに彼はその事実を知って、懸念した通りのことが起こった。わたしを顧みずに、遊び歩くようになったの。子どもができた責任を取ってわたしと結婚はしたけど、彼はまだまだ遊び足りない年齢だった。わたしだけじゃ満足できなくて、常に複数の女のひとが彼のそばにいた。結婚は、ただ紙切れ1枚で交わした契約にすぎなかった。彼を繋ぎ止めることはできなかったの。  でも、わたしは彼が好きだった。今でも、彼以上の存在が現れるとは思えない。  運命の相手だったの。  だから、いつ離婚を言い渡されるのか、ずっと怯えている。  でもね、まだわたしは冬真の妻なの。  彼がわたし以外のひとと付き合うことは許せないし、許さない。  彼に愛される資格があるのは、妻であるわたしだけ。  彼は離婚したいようだけど、わたしは絶対に応じない。やり直してみせる。  彼と、一生を生きていくのはわたしだけ。  だから、小野寺さん、悪いけど冬真と別れてちょうだい」  毅然とした口調とは裏腹に、麗香の目は保護者を失った子どものように、不安げに揺れていた。  未来を一抹の罪悪感が襲う。  麗香が語り終わると、示し合わせたように、今まで黙していた壮年男性が書類を取り出した。麗香が男性を手で示していう。 「この方は、弁護士の先生。彼の遊び相手のひとと交渉するために同席してもらっているの」 「……交渉?」 「そう。冬真と2度と会わないと、誓約書にサインをしてほしいの。もちろん、見返りは約束するわ」 「見返り?」 「ええ。小野寺さんは、いくらがいいかしら?そんなに稼ぎがあるわけじゃないから、上限はあるけど、あなたが望む金額をなるべく用意したいとは思ってる。そのすり合わせの交渉に、先生に立ち合ってもらっているの」 「……つまり、手切れ金ってことですか?」 「そう思ってもらってかまわないわ。お金で解決するなら安いものよ。彼に寄ってくる虫を札束で追い払うようなものね」  未来は悔しさに奥歯を噛みしめる。  高柳への思いは、金で清算できるものではない。  彼の才能に惚れこみ、誰よりも彼の成功を近くで見届けたいと強く願ってきた。  彼が妻帯者であることも、彼に遊び相手としてしかみられていなかったことも、未来の願いを微塵も揺らすことはなかった。  彼の一番そばにいたい。 「……お断りします」 「……え?」 「お金なんかいりません。だから、彼とも別れません」 「あなた、本気?今までわたしの申し出を断ったひとはいないわよ。冬真が欲しいのは、あなたじゃない。あなたの体なのよ?体目当ての男と関係を続けるより、お金をもらって新しいひとを探すほうが賢明な判断だと思うけど」  未来の脳裏に、高柳と過ごした甘くて密やかな、狂おしいまでに求め合ったあの時間が鮮明に蘇る。  あのときの、濡れたような高柳の瞳には、未来しか映っていなかった。  同じように、未来は高柳しか自分の瞳に映したくなかった。  あの時間が幻であろうと、仮初めであろうと 、確かにあの瞬間、世界にはふたりしかいなかった。  その事実は消えない。  高柳の肌の温もりも、すべすべの肌の感触も、未来のためだけに存在していた。  手放したくない。  たとえ、このひとから奪うことになっても。 「高柳さんは、私の運命のひとなんです」  ぴくり、と麗香が眉を吊り上げる。 「……あなた、馬鹿ね。冬真は、今が一番大切な時期なのよ。冬真のスキャンダルが発覚するまえに、わたしがその芽を摘んでいるの。あなただって、彼のことを好きなら、身を引くのが、彼のためだと思わない?」 「私が、彼を支えます」  麗香の顔つきが更に険しくなる。 「……後悔するわよ。なにがあっても、わたしのせいじゃないわ。全ては、愚かな決断をしたあなたのせい。冬真は渡さない。たかがファンの分際で、冬真の隣に並ぼうとするなんて、身の程知らず。絶対冬真と別れさせてみせる。冬真が選ぶのはわたしなんだから」 「高柳さんは、あなたの独占欲に辟易して他のひとに癒やしを求めるんじゃないんですか」 「うるさい!あんたみたいな女、絶対に破滅させてやる!大人しく金をもらって冬真のもとからいなくなれば、許してやったのに。交渉決裂ね、先生、行きましょう」  麗香は、怒りに顔を染め、美しい顔を鬼のような形相に変えて、隣の弁護士を伴って席を立ち、足早に店から去っていった。  ひとり残された未来は、自分の口から溢れるように出てきた言葉たちに、自分で一番驚いていた。  自分は世間でいう、浮気相手だ。  本妻に別れろと迫られてしかるべき存在。  未来のほうが悪だと、誰もが答えるだろう。  未来だってそう思う。  浮気という倫理に反する行為をしておきながら、本妻に別れない、と啖呵を切るなど、非常識極まりない。  しかしなぜか、未来はそうしてしまった。  おかしい。  自分は本来、こんな性格ではない。  自分が悪いと知りながら、浮気相手を本妻から略奪するなんて、正気の沙汰とは思えない。  世の中の、誰からも非難される行為だ。  でも、未来は思ってしまった。  高柳冬真の、世界で一番の味方でいたいと、周囲の誰もに非難されようとも、彼を護れる盾になりたいと、そう願ってしまった。  誰に嫌われようとも、責められようとも、彼を手に入れたい。  悪女になってもいい。  奪いたい。  麗香も、高柳のファンも、誰を傷つけることになっても。  未来は、悪役になることを決めた。 1月21日(日) ファミレスにて 『アンタ、馬鹿じゃないの!?高柳さんの本妻に喧嘩売ったの?既婚ってだけで充分スキャンダルなのに、浮気相手がたんまりいて、更に浮気相手のひとりが本気になって略奪を宣言するなんて、どんな泥沼よ?そもそも、高柳さんとは連絡が取れたの?』 「……取れてない。奥さんに呼び出されてから、連絡がとれなくなった」 『ああ……。まさかアンタが不倫略奪する悪女だったなんて想像もしなかったわ……。高柳さんの本心も知らずに運命のひとだとか宣言するなんて……。ちょっと目を離した隙に、なにが起こってるのよ。未来、本当にアンタどうしちゃったの?高柳さんが奥さんとやり直すって決めたらどうするの?』 「そのときはそのときだよ。冬真が奥さんを選ぶなら、私だって身を引く。でもね、まだ冬真の気持ちきいてないんだよ。冬真の気持ちがわかるまで、私は諦めない」 『浮気相手と別れさせたい奥さんに会うよう高柳さんが指示してきたことを考えると、自ずと高柳さんの気持ちもわかるような気がするけどね。アンタとの関係を清算したがってるって。奥さんに、高柳さんから頼んだ可能性だってあるわ』 「とにかく、私は冬真の本心を知るまで、彼を諦めない。きっと私を選んでくれるって信じてる」 『自分に自信があるのは悪いことじゃないけど、今のアンタの自信は根拠がなさすぎ。  考えてもみてよ。高柳さん、遊び人なのよ?結婚してるのに、浮気相手募集しちゃうような、だらしのないクズなのよ?  今までアンタが出会ってきた数々のクズと同じじゃない。  痛い目みたはずなのに、どうしてそこまで執着できるのよ。  傷つくのは、自分なんだからね。  何度もいうけど、高柳さんはやめておきなさい。節操のないクズよ。  私生活が足を引っ張って、芸能界で身を滅ぼすかもしれない。  そうなったとき、責められるのはアンタよ。  高柳さんのために、アンタは自分の人生を捨てられるの?  世間を敵に回して、誰も助けてなんてくれない状態になって初めて失敗したって後悔しても遅いのよ?  たかがひとりの男のために、人生を滅ぼすことはない。アンタは、まだ若いんだから。  高柳さんとの関係を終わらせて、新しい運命のひとを探しなさい。それが賢明な判断よ』  反対されればされるほど、燃え上がるのはなぜだろう。  高柳を失いそうになって初めて、未来は自分が是が非でも彼を手放したくないと頑なに思っていることに気づいた。  結婚を焦って選ぶ男はクズばかり。  それは、今回のケースにも残念ながら当てはまる。  けれど、なにかがいつもと違う。 「クズだから」で済まされないなにかを、高柳に感じている。  彼の、一生そばにいたい。  健やかなるときも、病めるときも。  スキャンダルにさらされるときも。  ふたりでなら乗り越えていける気がしたのだ。  それを、世間では略奪愛だといっても。  自分を一番大切だといってくれた高柳の甘い声。  たとえ高柳にとって未来が、遊び相手のひとりにすぎないとしても、彼を振り向かせたい、本気にさせたい、そんな闘志が、未来のなかでは燃え上がっていた。  絶対的な自信があるわけではない。  それは、願いなのだ。  叶えたい祈り。  冬真と、この先の人生をともに歩けますように、と神様に祈った純粋な願い。  透き通った水のような、晴れ渡った青空のような、純度の高い願い。  それは、なんの確証もないのに、この恋は永遠に続くと、無邪気に信じられた初恋に、どこか似ている。  ただ相手がそばにいるだけでいい。  それ以上のことは望まない。  それは、強欲という大罪に当てはまるのだろうか。  未来がそう尋ねると、間髪入れずにチカが切って捨てた。  『当たり前じゃない。大罪よ大罪。だって不倫よ?アンタをみる周囲の目だって厳しくなるに決まっているじゃない。娘が不倫のうえに略奪したなんて知ったら、アンタのお母さんどう思うか想像できる?悲しむに決まってるわ。それだけじゃない、もし世間にアンタがしたことがバレたら、お母さんの立場だって悪くなるかもしれない。アンタ責任取れるの?親に迷惑かけてまで手に入れたい男ってなんなのよ?』 「……わかんない。でも、私は冬真と一緒にいたい。ただ、それだけ」 『だから!それが許されないことだっていってんの!アンタ奥さんに訴えられたら負けるわよ。それが筋、世間の常識。  子どものころに習わなかった?  ひとに迷惑をかけてはいけません。  悪いことをしてはいけませんって。  アンタのしていることは悪いこと。  今すぐ悔い改めないと、アンタがすがった縁結びの神様に見放されるわよ。  天罰だって下るんだからね』 「天罰……重い言葉だね」 『そうでしょう。神の怒りに触れないように生きる人間にだけ、神様は祝福を与えるのよ。今のアンタは神様を裏切って、顔に泥まで塗ってる。いい加減目を覚まして。高柳さんのことは、出会わなかったものとして、違う男にしなさい。なんなら、あたしが適当に見繕って紹介してあげるから、ね、それならいいでしょ』 「……いい、のかな、それで」 『悪いことはいわない。あたしのいう通りにしなさい。自分から不幸に飛びこんでいく必要なんてないんだから。ね、だから、この話はもう終わり。高柳さんなんて男に、アンタは出会わなかった。恋もしなかった。それで終わり。忘れるの、いや、なかったことにするのよ、未来。  アンタなら、すぐに切り替えて違う男に夢中になれるわ。  これ以上、高柳夫妻に関わるのはやめなさい。  いい、誓えるわね?』  チカにいいくるめられ、未来は小さくうなずいた。  チカの言葉は、いつも正しく未来の心に染み渡る。  チカがそういうなら、そうなのだろうと、考えさせられてしまう。  未来がクズに夢中になるのを、破滅寸前で引き止めてくれるのはいつもチカだった。  チカがいうのだから、間違いはないのだろう。  未来は、自分に男を見分けるセンスがないとわかっている。それは自覚している。  恋に落ちると周りが見えなくなり暴走する未来を、チカは先回りして辛らつながらも的確な指摘で夢見る未来の目を覚ましてくれる。  だから、今回の件も、きっと……。 「忘れられないよ……」  チカにきこえないよう、未来は反抗するように呟いた。  2月9日(金) 未来の職場にて  昼休憩のために席を立とうとした未来のスマホが振動した。チカからだ。 「もしもし?」 『未来、大変なことになってるわよ!』 「……え?」  いつになく切迫した様子のチカに、未来は無意識に身構える。 「なにがあったの?」 『今日発売の週刊誌に……』  チカとの通話を終えると、未来は病院を飛び出して、近くの本屋に駆けこんだ。  呼吸も荒く雑誌のコーナに辿り着くと、今日発売の週刊誌を手に取り、周囲の目も気にせず、ページをめくる。 【今大注目の俳優 高柳冬真は結婚していた! さらに、10人以上の浮気相手がいることが発覚!中には、若手女優やモデルも! 泥沼不倫発覚で仕事に影響も?】  未来は頭のなかが、真っ白になり、衝撃的な内容を報じる雑誌を持つ手が震え出す。  ついに、恐れていたことが、現実になってしまった。  記事には、モデル仲間の女性を妊娠させ、結婚したこと、妻がいるにも関わらず、浮気相手を募集し、不倫を繰り返していたことが、詳細に、なんの誇張もなく書き綴られていた。   それだけに、高柳がしてきたことが下衆だったと痛感させられる。  高柳と不倫していたとして、若手女優や、未成年のアイドル、有名なモデルの名前などが並べられている。  彼女たちの写真とともに、見覚えのある写真が掲載されていることに、未来は震撼した。  顔をぼかされているが、それは確かに未来と高柳がホテルから出てくるところを収めた写真。  喫茶店で、高柳麗香に突きつけられた、探偵が撮ったという、あの、高柳と未来の不倫の証拠写真が、芸能人たちに混じって載せられていたのだ。  この写真を流失させたのは、高柳麗香だ。  麗香は、夫である高柳を、社会的に抹殺するために、週刊誌に情報を提供したのだ。  高柳は、高柳の仕事はどうなってしまうのか。  今撮影しているドラマは?  決定したと報じられたCMは?  果たして、高柳はこの先も芸能活動を続けることができるのか?  麗香は、別れないと執着していた冬真を、どうしたいのか。  自分と高柳の関係は、どうなってしまうのか。  高柳のしたことは、確かに最低だ。  妻がいながら浮気を繰り返していた。  それは責められてしかるべきだ。  知らなかったとはいえ、未来も不倫の片棒をかついでいた。  未来も、高柳に騙され、遊ばれている女のうちの、ひとりにすぎなかった。  しかし、本妻である麗香に、略奪宣言までするほど、高柳に心酔してしまった。  麗香も、他の不倫相手も関係なかった。  ただ純粋に、高柳が好きだった。  そばにいたかった。  それ以上は、望まなかった。  わなわなと、雑誌を持つ未来の手が震える。  雑誌を読み進めるうちに、未来の心に純粋に生まれてきたのは、怒りだった。  高柳がやったことは悪い。  それは認める。  だが、週刊誌のたった2ページに名前を載せられただけで、何人もの人間の人生が、大きく変わる。狂ってしまう。  これを執筆したひとは、この記事が、ひとを簡単に破滅させることを承知で書いているのか。  高柳から、信頼と仕事を奪って、彼の芸能活動を殺すも同然のことを、どうして平気な顔をしてできるのだろう。  高柳から俳優活動を奪うということは、彼の人生を奪うことに、場合によっては死に追いやることでもある。  ひとひとりを殺すことに他ならない。    高柳の演技は、見たひとを魅了する力がある。  惹きつける引力がある。  役者、高柳冬真を失うことは、芸能界にとって大きな損失になるだろう。  抜きん出るなにかがある。  目を離せないなにかがある。  役者、高柳冬真が一番輝く場所。  活き活きと泳ぎ回れる場所。  高柳には、スポットライトがよく似合う。  舞台のカーテンコールでみせた、達成感に満ち溢れる高柳の笑顔を、きらめく汗を、未来は忘れることができない。  高柳の、その笑顔を、護りたい、彼を害するものの盾になりたい。  己の立場もわきまえず、そんなことを思った自分に腹が立つ。  なんの力も持たない、非力な存在のくせに。  彼の役に立ちたいなんて、おこがましい考えだったのだ。  苛立ち紛れに、平積みにされた週刊誌を叩きつけるように棚に戻す。  誰の目にも触れないように、この憎き週刊誌を買い占めてしまいたかったが、未来にそんな資金はない。  くるりと週刊誌売り場に背を向けると、ポケットからスマホを取り出す。  麗香と対面してから、高柳にどれだけラインを送っても、既読はつかなかった。  虚しく未来が送ったメッセージが並ぶ画面に、習慣のように新しく文章を作成し、送信する。 「冬真、大丈夫?」  今、高柳はどうしているだろう。  なにを思い、どこにいるのだろう。  このメッセージにも既読がつかないだろうことは、わかりきっている。  だから、特に反応がなくてもショックは受けない。  しかし、予想外の展開に、未来は目を見開く。  未来の送ったラインにすぐに既読がつき、次の瞬間軽やかな音をスマホが奏でて、ラインがきたことを告げた。 「大丈夫。俺を信じて。約束」  未来は、その文面を、何度も何度も読み返す。   最終的には、文字の意味がわからなくなる現象まで起きるほど、高柳から送られてきたメッセージに目を凝らし続ける。  心が、喝采を叫ぶ。  ここが、店内であることも忘れて、叫んで回りたい気分にとらわれる。  とうとう、高柳から返事があった。  大丈夫だと。信じてほしいと。自分だけに向けられた言葉で、彼の想いが綴られている。   未来はスマホを胸に抱きしめ、深呼吸するように目を閉じ、天井をあおぐ。  油断すると、涙が溢れてしまいそうだった。  感じたことのない安心感に包まれていた。  自分と高柳の繋がりが、消えたわけではないと。  運命の赤い糸が、途切れたわけではなかったと。  はたと、未来の動きが止まる。  約束とは、なんのことだろう。  過去に、高柳となにか約束したことがあっただろうか?  記憶を辿って、高柳の伝えたい言葉の意味を考える。  ……約束……なんの?  しばらく立ち尽くしたまま、天井を睨んでいた未来は、はっと、その場でとある場面を思い出し、瞠目する。  ホテルで逢瀬を重ねていたころ。  ベッドに並んで寝ていたときのこと。  隣で寝息を立てる高柳の小指に、自分の小指を絡ませ、「ずっと一緒。約束だよ」と、彼の耳元で未来はささやいた。  あのときは、高柳はきいていないと思っていたので、あの言葉は、あくまで自己満足でいったにすぎなかった。  高柳は、きいていたのだ。  そして、それを覚えてくれていた。    今度こそ、未来の頬を涙が伝った。  我慢できなかった。  ひとの目などどうでもいい。  今はひたすら泣きたかった。  嬉しくて、全身が震えるほど幸せで、満たされて、味わったことがない感情が飽和するほど押し寄せてくる。  好きだ。高柳が、たまらなく好きだ。  この想いに、もう嘘はつけない。  涙を拭き、病院に戻るためにきた道を歩いていると、スマホが振動した。  高柳だろうか。  期待に胸を膨らませてスマホを取り出すと、画面に表示されていたのは、チカの名前だった。  今の幸せな出来事を、早速報告しなければと、嬉々としてスマホを耳にあてる。 「もしもし、チカ、きいてよ……」  未来が弾んだ声で話しはじめると、未来の声に被さるようにチカが叫んだ。 『未来!ネットみて!大変なことになってるわよ、アンタ!』  再びの緊迫感溢れるチカの声。  未来の幸せな気分は、すぐさま熱を冷まされ、背中に緊張が走る。  チカとの通話を早々に切り上げ、スマホで高柳の名前を検索する。  すぐに画面に、高柳のスキャンダルを報じるネットニュースが表示される。  先ほど読んだ週刊誌と変わらない内容が載っているが、違う点があった。  高柳の浮気相手として、女優やアイドルと並んで、週刊誌では「一般人のOさん」とされていた未来の実名が、ネットでは隠されることなく書かれていた。  週刊誌では、未来の顔がぼかされていた高柳と未来がホテルから出てくる写真も、未来が麗香からみせられたままの、ぼかしのない鮮明な状態で、さらされていた。  ネットのコメント欄を、恐る恐る覗いてみる。 《冬真くん、ファンだったのにショック》 《浮気相手10人とかサイテー。奥さん可哀想》 《他はわかるんだけどさ、小野寺未来って誰?》 《小野寺未来はただの一般人》 《高柳冬真が通院していた中野病院で働いてる医療事務、24歳》 《実家は新潟。東京の大学を卒業。両親は小野寺未来が幼いころに離婚。実家の住所は……》 《横島社長がこのまえストーカーで捕まったけど、当時付き合ってたのが小野寺未来らしい》 《えー、テレビでみただけだけど、横島社長かっこよくて好きだったんだけどなー。この女のせいでおかしくなっちゃったのかな?》 《小野寺未来は、付き合った男の数がエグい》 《高柳に遊ばれて可哀想だと思ったけど、この女も男遊びすごかったんだね。自業自得》 《っていうか、尻軽じゃない?》 《名前さらされても身から出た錆》 《高柳冬真を潰した小野寺未来の情報をさらそう》  未来は目を疑った。  ネットに、実名、職場、住所、スマホの番号、学歴、出身地、実家の住所に実家の電話番号、小中高の文集や卒業アルバムの写真、更には過去、付き合った男の名前まで、未来の情報の、なにもかもが、ネットにさらされていた。  ネットに溢れる顔のみえない、名前すら知らないひとから向けられる、むき出しの悪意。  未来を貶めようと画策する大勢の敵意。  恐怖を感じて辺りを見回すが、当然ながらすれ違うひとは未来に目を向けない。  でも、何食わぬ顔をして、未来に気づかないふりをしながら、手元のスマホでは、未来を糾弾するコメントを書きこんでいるひとがいるのではないか。  嗤いながら、未来にスマホを向けているひとがいるのではないか。  疑心暗鬼に陥って、うつむくと、病院までの道のりを、未来は走った。  未来の情報がネットに上がってから、まだ短時間にも関わらず、未来の個人情報は倍速で拡散されていく。  一体誰が、こんなに詳細な情報を投稿したのだろう。  まるで犯罪者の気分だ。  自分を守ってくれる盾は、なにひとつない。  未来だけが悪者。  未来だけが高柳冬真を殺した凶悪犯。  みえない、ひとの悪意にさらされたとき、どう身を守ればよいのかを、未来は知らない。  ただ無防備に、光の速さで駆け抜ける自分の情報が、雪だるまを転がすように、人々の悪意を吸収して、小野寺未来が罪人であるというイメージを、転がりながら膨らませていく様子を、眺めていることしかできない。  一体、なにが起きているのだろう。  週刊誌をみて絶望に堕とされたかと思えば、高柳からの返信に天にも昇る心地になり、そしてまた、今度は、個人情報が悪意によって拡散されていることを知り、再び奈落の底へと突き落とされる。  まるでジェットコースターだ。  未来は、ジェットコースターが得意ではない。  だから、今、なにが自分の身に起きているのか、理解できず、頭がこの事態についていけなかった。
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