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病院に戻った未来を迎えたのは、出ていく前とは、別世界だった。
電話が鳴り止まない。
電話対応をしていた、福沢諭吉似の上司が、乱暴に受話器を叩きつけ、未来を認めたとたん、大股で近づいてきた。
「ちょっと、小野寺さん、どういうこと?君を出せって迷惑電話が鳴り止まないんだけど。説明してくれない?」
「す、すみません……」
もう職場にまで、嫌がらせの電話がかかってきているのか。
未来は軽いめまいを覚える。
しおらしく、小声で謝ることしかできない。
「これじゃ仕事になんないよ」
頭を掻きむしりながら、ユキチが席へと戻っていく。
「君、本当になにをしたの?これ以上仕事に支障が出るようなら、休んでもらうことも考えないといけないからね」
「……はい。本当にすみません」
未来は、かかってきた電話を取る。
「小野寺未来を殺す。高柳冬真に2度と近づくな」
若い女のひとの声が、無機質にそれだけ告げると、ぷつりと切れてしまった。
受話器を戻す。
戻したとたん、電話が鳴り始める。
「小野寺未来を解雇しろ。さもないと、病院を爆破する」
またしても、電話はそれだけで切れる。
受話器を戻したとたん、また着信音がけたたましく鳴り響く。
業務に関わる電話かもしれないので、無視することはできない。
「はい……」
「小野寺未来か?そんなに男と遊びたいなら、俺が相手してやるよ」
卑わいな言葉を垂れ流す若い男の声に耐えきれず、未来は電話を切った。
その様子をみていたユキチが、はあと聞こえよがしにため息をつく。
「なにがあったのか知らないけど、小野寺さん、今日はもう帰って。仕事にならないから。君も、相当疲れてるみたいだし。落ち着くまで、来なくていいからね」
ユキチは事情をきこうともせずにそういうと、業務に戻ってしまった。
鳴り響く電話に、「ああ、もう」と悪態をついている。
未来は肩身が狭い思いになりながら、帰り仕度をはじめた。
午後の診察の時間になり、患者の対応をしていた受付の横を通りすぎたとき、同僚の困惑した声が耳に入った。
受付の女性のか細い声に被さって、男が怒声を張り上げている。
「だから、小野寺未来を出せっていってんの。一番乗りで小野寺未来を直撃して、配信するんだから。フォロワー増えるだろうなあ。だ、か、ら!小野寺未来を早く連れてこいって!」
若い男が、受付の女性に噛みついている。
戸惑っていた彼女と、目が合うと、彼女は男の背後を歩く未来に目配せして、小さくうなずいた。
今のうちに行け、という合図だった。
彼女に最大限の感謝を込めて、頭を下げると、気配を消して男の後ろを通り抜け、未来は病院をあとにした。
2月16日(金) 未来の自宅にて
週刊誌が発売され、高柳冬真の衝撃的なスキャンダルが世間に報じられてから一週間が経った。
高柳と未来を取り巻く環境は、悪化の一途を辿っていた。
高柳は、未だ沈黙を保っている。
謝罪会見が開かれるのではないか。
事務所による何らかの発表があるのではないか。
マスコミは、今か今かと高柳の動きを待っている。
すでに、決まっていた仕事は白紙になったとの報道もある。
テレビやネットでは、高柳に関する報道が激化し、不倫の事実、不倫相手への糾弾が繰り返し報じられていた。
今や、高柳冬真は時のひととなっていた。
本業の俳優としてではなく、不貞を犯した大罪人として。
好奇の目にさらされ、人格まで否定するコメントが無秩序に垂れ流され、高柳冬真という人格が、なにもしらない人々によって、上塗りされ、彼の本質が曖昧にされていく。
高柳冬真が、作り変えられていく。
顔だけはいいクズの浮気男。
彼を知らなかったひとは、その上書きを、そっくりそのまま信じ、無責任な正義感で彼を責め立てる。
報道から丸一週間経ったこの日、所属事務所は、高柳冬真の解雇処分を発表した。
その報道を、自室のテレビで観ていた未来は、ただ呆然と、その事実をみつめることしかできなかった。
「未来?未来、どうしたの、大丈夫?」
スマホから漏れ聞こえる声に、未来のぼやけかけた意識が引き戻される。
「あ、うん、ごめんね、大丈夫。お母さん、本当にごめんね。わたしのせいで辛い思いさせて」
「お母さんなら、大丈夫よ。それより未来、あなたこそ平気なの?仕事も行っていないんでしょう?お母さん、そっちまで行こうか」
電話の向こうの母は、気丈に振る舞い、未来を励ました。
騒動の余波は、未来の新潟の実家まで及んでいた。
嫌がらせ電話はもちろん、未来を更には母までもを罵った張り紙が家の外壁に貼られ、押しかけてきた高柳のファンや野次馬が、その様子を得意げに動画投稿していた。
近所のひとからも、母は白い目でみられているのだろう。
届く声には、疲労が滲んでいた。
母だって、娘がどんなことをしたのか、承知しているだろう。
にも関わらず、変わらず優しい言葉をかけてくれる。
母に、とんでもない迷惑をかけてしまった。
なんて親不孝な娘なのだろう。
未来は両目に滲んだ涙を拭いながら、意識して声を張った。
「ありがとう、私は大丈夫だよ、心配しないで。お母さんも仕事あるでしょ?」
「でも、ちょっとくらいなら平気よ。ちゃんと食べてる?寝られてる?お母さん、それだけが心配で……」
「うん、大丈夫だよ。またすぐに、そっちに帰るね」
「いつでも帰ってきてね。じゃ、また連絡する」
未来が言外に、来なくていいと伝えると、母は、気づかないふりをして明るい声で通話を切った。
今、母にこの部屋にきてほしくなかった。
カーテンを閉め切り、薄暗くなった部屋に、テレビの青白い光りだけが、疲れ切った未来の横顔を映し出している。
薄いドアの向こうでは、数人の男女が未来の名前を叫びながら、ドアを叩き続けていた。
壊れたようにチャイムが鳴り続ける。
耐えきれず、未来は耳を塞いで体を丸めた。
アパートのドアにはいたずらの張り紙が貼られ、外壁にはスプレーで落書きがされていた。
外に出れば、スマホを向けて見知らぬ男たちがつきまとってくる。
ひとときも、気が休まる暇がなかった。
職場にも、相変わらず迷惑電話がかかり続け、ひとが押し寄せている。
未来を追いこむことは、ひとつのエンターテインメントと化していた。
未来なら、どんなに傷つけても構わない。
そんな恐ろしい風潮が、世間には充満していた。
日常で溜まったストレスを、未来を攻撃することで、発散しているのだ。
母との通話を切ったばかりのスマホが振動する。
非通知。
スマホの電源を落として対抗する。
ずっとそうしているわけにはいかないので、電源を入れるが、間髪を入れずに着信がある。
その繰り返しだ。
未来の神経が、がりがりと粗く削れていく。
こんな日が、あと何日続くのだろう。
自分の精神はいつまで持つのか。
《約束》
高柳が送ってきたラインの文面が蘇る。
今、未来がなんとか耐えられているのも、あの言葉があるからだった。
今朝、辞表を出してきた。
診療がはじまる前のことだ。
ネットを参考にしながら、辞表を書き、ユキチのデスクに置いた。
出勤してきたユキチは、辞表を一瞥すると、未来を見ることもなく、パソコンに視線を移した。
小さい声で「ご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした」と謝り、頭を下げると、荷物をまとめて病院を出た。
ユキチは、引き留めもしなかった。
またひとつ、自分はなにかを失った。
これが、浅はかにも自分が取った行動が引き起こした結果だった。
ひとつひとつ確実に、未来はなにかを失ってゆく。
それが、未来が選んだ結果に対する答え。
全て自分が引き起こしたこと。
誰を責めることも、恨むことも許されない。
未来は今起きていることの全てを、受け入れなければならない。
テレビを消し、真っ暗になった部屋にチャイムが鳴り響いた。
無視を決めこんでいると、ドアを叩きながら、くぐもった高齢の女性の声が、「小野寺さん、松野だけど」と呼びかけてきた。
このアパートの大家の女性だ。
未来は警戒するように、狭くドアを開ける。
小柄で痩せた年配の大家が、隙間から皺だらけの顔を、ぬっと覗かせる。
少しほっとする。
「小野寺さん、困るのよねえ。張り紙、早く剥がしてくれない?壁のいたずら書きも、消してもらえるんでしょうねえ?原状回復、してくれないと困るのよ」
「原状回復……退居しろって、ことですか?」
松野は、苦虫を噛み潰したような顔で未来から目を逸らす。
「まあ、ねえ……。他の部屋のひとに迷惑だし、変なうわさが広がって次の入居者が来なくなると、困るし……。うちも商売やってるのよ、わかってちょうだい。荷物も少ないようだし、明日には出ていってもらえるかしら」
松野は無慈悲にそういい捨てると、未来の顔をみることなく立ち去っていった。
あ然とした表情で、玄関先に立ち尽くす未来に向かって、複数のフラッシュが瞬き、その姿を切り取った画像が拡散された。
2月28日(水) ネットカフェにて
狭い個室で、机に突っ伏していた未来のスマホが振動した。
緩慢な動きで顔をあげ、スマホを目の高さに掲げると表示された名前に目を見開く。
ラインに高柳からのメッセージが届いていた。
《会いたい。これから会える?》
逢瀬の場として、ホテルの住所が書かれていた。
弾かれたように、未来は立ち上がった。
アパートの部屋を追い出された未来は、翌日から、キャリーケースに荷物を詰め、ファミレスやネットカフェを転々としていた。
仕事を失っているので、日雇いのバイトをしながら、わずかな稼ぎでその日暮らしをしていた。
いつかは冬真に会える。
その思いだけを支えに、未来は惨めに傾きそうになる心を、なんとか保って生きてきた。
あれだけ騒がれた高柳冬真の泥沼不倫騒動は、いつしか下火になっていた。
世間の関心はすでに高柳冬真にはなく、今は別の話題がメディアを賑わしている。
高柳冬真は、すでに忘れ去られた存在となっていた。
しつこく未来を追い回していた野次馬も、今はもういない。
それでも、未来は仕事を失い、住む家を失い、信用を失い、穏やかな生活を失った。
それでも彼女を支えていたものは……。
「冬真!」
格安ホテルの一室。
冬真の姿をみるなり、居ても立っても居られず、未来は彼に抱きついた。
冬真も、「未来……」といったきり、感極まったように声を詰らせながら未来を抱きしめ返した。
そこに、言葉はいらなかった。
ふたりの心は、誰に侵されても揺らぐことはなかった。
冬真は、《約束》を果たしたのだ。
温かく柔らかい高柳の感触。
知っていた。体が覚えていた。
全身が熱を持つ。温かい涙が自然と頬を伝う。
未来の涙を親指で拭うと、高柳は抱擁を解かずに言葉を絞り出した。
「迎えに来るの、遅くなってごめん。でも、未来なら待っててくれるって信じてたから」
「うん。私も信じてた。冬真が必ず会いに来てくれるって。約束、守ってくれるって、信じてた……だから、辛くなんて、なかったよ」
「辛い思いさせてごめん。……俺、事務所も解雇されて、なんにもなくなったよ。それでも、いい?」
「いい。そんなこと、構わない。冬真がそばにいてくれるなら、なんにもいらないよ」
互いの体温を確かめ合いながら、ふたりはしばらく抱き合っていた。
やがて、そっと体を離すと、手を絡ませたまま、ソファに並んで座り、ふたりはぽつぽつと言葉を交わした。
「麗香とは、離婚が成立した。夫婦関係は、とっくに破綻してたんだけど、負い目もあって、ずるずると関係を続けてしまった。
それが、麗香をより苦しめる結果になって、未来まで辛い思いをさせた……。
俺の浮気相手を、麗香が金をちらつかせて別れさせていることを、便利に思ってもいた……。サイテーだよな、俺」
「……うん。それは……最低だね」
「反省してる。心のどこかで、金を払えば別れる程度の女なんだって、そんな判断基準を作ってた。でも未来は、金を受け取らなかった。俺のことを、本気で思ってくれてた。未来との約束だけは、なんとしても守らなきゃいけないと思った。未来と会っていたのは、そりゃ、最初に声をかけたのは、遊び相手を探すためだった。でも未来に会うたびに、どんどん好きになっていった。止められなかった。特別だった。正直今でも、他の女と未来のどこが違うのか、わからない。でも、今回の騒動で、強く実感したんだ。未来を失いたくないって……。
運命の、相手だって」
未来が息を呑む。
運命の相手、それは、未来が度々口にした言葉。
もう出会えないのではないかと、諦めにも似た存在だった。
ようやく、出会えたのだ。
探し求めていた運命の相手に。
万感の思いだった。
ふと見上げると、隣の高柳が、泣いていることに気づいた。
つられて、未来まで泣き出してしまう。
「なんで泣いてるのよ。冬真」
「泣いてない。未来こそ、泣いてるじゃん」
乱暴に涙を拭うと、高柳は恥ずかしそうに、赤くなった顔を背ける。
「未来、本当に俺でいいの?イチからのスタートじゃない、ゼロからやり直すことになるけど」
「それくらい、覚悟してる。ゼロなのは私も一緒だし」
「未来となら、やり直せる。未来……」
「ん?」
足もとのバッグに手を伸ばした高柳は、小さな箱を未来に差し出す。
未来に緊張が走る。
「俺と、結婚してもらえますか?」
改まった口調で、箱を開け、高柳は照明に光る指輪を取り出した。
夢のような光景だった。
運命の相手にプロポーズされる。
長年憧れ続けたその奇跡が、現実として自分の前に広がっている。
未来は、震えながら左手を差し出した。
高柳がゆっくり指輪を未来の左手薬指に嵌めていく。
高柳の手も、緊張で汗ばみ、震えていた。
指輪を、照明にかざす。
子どものころから思い描いていた夢を、ようやく叶えることができた。
あまりに幸福に満たされて、肺がいっぱいになり、呼吸がうまくできない。
未来は泣き笑いの顔になっていった。
「よろしくお願いします」
3月17日(日) 馴染みのカフェにて
『はーん。で、結局うまくいっちゃったんだ』
未来は、結婚指輪をチカにみせつけるようにかざしながら、満面の笑みでうなずいた。
「これ以上の幸せはないよ。とうとう念願の結婚。縁結びの神様は、本当に願いを叶えてくれるんだね。初詣行ってよかったなあ。お礼に行かないとね」
『でもさ、アンタたち、ふたりとも職を失ったわけでしょ?生活はどうするの?』
「冬真ね、劇団に入ることになったの」
『劇団?』
「冬真が子どものころ所属してた劇団のひとが、声かけてくれて、今は舞台出演に向けて稽古中。
冬真の演技は格別だから、役者辞めないですんで、本当によかった。
冬真にはどうしても演技を続けてほしかったし、そう考えてたひとが、私だけじゃないってわかって心強かった。
生活は苦しいけど、私も、次の職場がみつかるまでは日雇いのバイト続けて、資金を貯めて、冬真と一緒に住む家をみつけるつもり」
『まだなにも決まってないわけね。スタートラインにも立ってないじゃない。本当にそんなことで大丈夫なの?高柳さんに甲斐性があるのかしら?』
「大丈夫だよ。貢ぐことには慣れてる。チカも知ってるでしょ。冬真が、役者として大成するのを、私は命がけで支える。誰よりも近くで彼が仕事に没頭できる環境を整えてあげるの。今は、彼の夢が私の夢」
『命がけ……。大げさねえ』
チカは、コーヒーをひとくち飲んでから、遠い目をカフェの窓の向こうへ送る。
『ま、頑張んなさいよ、気が済むまで。マイナスからのスタートで、生活は苦しいかもしれないけど、いつか、アンタの願い通り、高柳冬真って役者の実力が認められるといいわね』
「うん。本当、そう思う。私も冬真も、まだ発展途上。力を合わせて、どんな困難もふたりで乗り越えていけるよ」
『何度きいたんだかねえ、そのセリフ。また浮気相手募集されて棄てられるんじゃないの?治ってんのかしらねえ、高柳さんの浮気グセ。今はお互い盲目になってるけど、やっぱり違うって棄てられないようにね。
ま、そうなったら、また不幸話きかせてよ。
酒の肴にするからさ。アンタの不幸話に勝る肴はないからね』
「相変わらず趣味悪いなあ。運命の恋人に二言はありません。もう一生チカには美味しい酒の肴はありません。残念でした」
『だからさあ、何度きかせるのよ、そのセリフ。もうきき飽きたって。
やっぱり不安になってきたわ。
また同じ繰り返しになる予感が、ぷんぷんするわよ』
「縁起でもないこといわないでよ。結婚は決まったことなんだから、次はないの!遊んで棄てられるの繰り返しだった過去の恋愛は、冬真と出会うためにあったの。だから、繰り返しはもうありません!」
じっと未来を眺めていたチカの口元が、ふっと緩んだ。
『いじめるのもこれくらいにしておくか。
未来、結婚、おめでとう』
はにかむように未来が柔らかく笑った。
「ありがとう。チカにこんな報告する日がくるとは思わなかったよ。本当に、私、結婚するんだなあ。ふふっ」
『気色悪い笑い方しないでよ。ご祝儀は弾むかあ』
「あ、それ助かる。今は少しでもお金がほしいところだから」
『生活費を渡すわけじゃないわよ!ひとを金づるみたいに……』
「えー、ちょっとくらいいいじゃない。チカ、稼いでるのに使い道ないでしょ?人助けだと思ってさ」
『冗談じゃない!ようやくアンタが結婚して、お役御免になったっていうのに、なんでまだアンタの生活の面倒みなきゃいけないのよ。あたしを見習って自立しなさい』
「ケチだなあ、チカは」
『ケチで結構。で、籍はいつ入れるの?』
「まずは新潟の実家にふたりで挨拶に行こうって話してる。お母さんには、迷惑とか心配とか、いっぱいかけたし、安心させてあげなきゃねって。仕事が軌道に乗って、落ち着いたら籍入れようって。だから、まだ少し先の話になりそうかな」
『その間になにもないといいわね』
「今度こそうまくいってほしいけどね。上がって下がってのジェットコースターはもううんざり」
『ま、ここまでくれば大丈夫でしょ。あたしのためにもちゃんと結婚してよ』
「はいはい。ちゃんとお嫁さんになります」
『お嫁さん!似合わないわね、アンタ!』
けたけたと愉快そうにチカが笑う。
未来もつられて笑いながら、「本当だね」と返した。
穏やかな時間が、未来の横を通り過ぎていった。
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