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 持ち上げたバーベルを小刻みに震える腕で戻し、燈馬が身体を起こした。彼の様子を傍で見ていた上遠野が、半ば挑発的な光を持った目で僅かに笑った。  「もう終わりか?身体、(なま)ったんじゃないか」  彼は首にかけたタオルで額の汗を拭いつつ、大きく肩を上下させる燈馬に言った。上遠野を一瞬見上げ、燈馬がフンと鼻を鳴らす。  「…最近忙しかったからな」  「なんだ言い訳か。らしくない」  言葉に応えずボトルの水を飲む燈馬の脇で、重量表記を指でなぞった上遠野は首を振った。  「このシャフト、20㎏だよな?…前はこれに80の付けてたって10回くらい余裕だったろ」  「…まあな」  一度息を吐いて、燈馬は横顔に映える上遠野の長い睫毛を見た。  「俺のことより、お前こそどうなんだ。…もう大丈夫なのか」  上遠野はわざとらしく丸くした目を燈馬に向けて口を開いたが、燈馬の低い声がそれを遮った。  「何のことだとは言わせないからな」  半端に開いた口を閉じ、上遠野は目を伏せた。こめかみに近い顎の面皰を無意識に掻く。それが短い爪に引っかかり、破れて血が滲んだことに上遠野は気付かなかった。  「大丈夫かどうか気にする暇がないくらいに仕事があるからな」  俯きがちになったことでさらに長さが際立った睫毛は、燈馬には僅かに震えているように見えていた。彼が今のような表情で目を伏せるときは、決まって様々な感情をその胸に渦巻かせていることを、燈馬は知っていた。  しかし、彼の言う通り最近はやたらと仕事量が増えていた。処理班や機動部隊に関しては、特に本部管轄区域での出動数が倍近くまで増えており、特殊班への臨場要請は少ないものの普通班は席を空けていることが多くなっていた。  上遠野も自身が抱える隊の拠点へ戻る予定があったが、昨今の繁忙を極めた事態に本部を離れるわけにはならなくなってしまった。月一で行われていた、彼曰く実の無い統括部の会議も今やしょっちゅう開かれているようで、彼らも対応に追われているようだった。  「まあ確かに東京だけだからな、こんなことになってるのは。統括部は特に大変なんだろう。鳴海統括長ですら滅多に顔出さなくなった」  そうか、と上遠野は少し笑ってみせた。その顔には、トレーニングによるものとは別に要因のある疲れを滲ませていた。  「しかもその半数以上がヒト型思念となると…何かある気がしてならない」  「そうだな。できればU-514に繋がってくれていると嬉しいんだが、今のところ調査班からも研究班からもそういった報告は受けてない…が」  「…が、なんだ」  人差し指に付いていたねばつく血液に気付いた上遠野は、それをタオルで拭き取りそれで顎の傷を押さえた。  「調査班の報告によれば、思念体は全て過去10年以内に都内で行方不明になっていた人間のものだったそうだ」  上遠野の言葉に、燈馬は眉を顰めた。  「そんなこと、初めて聞いたぞ」  汗のせいで腹に貼りついたトレーニングウェアを剥がしてばさりと扇ぎながら、上遠野は燈馬がするように鼻で笑った。  「普通班の情報が『陸の孤島』まで上がってくることが今まであったか?俺ですら佐々木さん伝いに聞いたくらいだ」  「ってことは、鳴海統括長は知ってたんだろう。…多少は話してくれたっていいだろうに」  後半、呟くように言った燈馬に、上遠野は今までと違うものを見た。  「鳴海さんは…特殊班にはU-514に集中してほしいんじゃないのか。実際、今特調はU-514の調査に明け暮れてるんだろう。あの人なりの気遣いな気がするけどな、俺は」  「そうだといいんだがな」  燈馬は自分の発した言葉に背反しない期待が自分の中にあることを発見し、遅れて猫のように笑った。それを上遠野は見抜くことを知っていた彼は、表情を隠すようにして立ち上がり大股で消毒液を取りに行った。だが、並外れた動体視力を持つ上遠野が、自身の横をすっと通り過ぎた燈馬の横顔を見逃すはずがなかった。やはり以前までの彼とは違う様子に、上遠野は難しい顔をしてスプレー容器と雑巾を手にした燈馬の背中を見た。  ――言わなくても分かる6割、言わないと分からない4割、って感じかなあ  いつだったか、鳴海から「あの日」の謝罪を受けたとき、その流れでされた会話の中で彼が燈馬についてそう語っていたのを上遠野は思い出した。「言わなくてもマルは分かるから」と笑っていた昔と違い、言わないと分からない割合が増えていたことにこのときは違和感を覚えていた。しかし、今の燈馬の反応を見る限りそれはいいことのように思えた。そのときの鳴海の表情も、お決まりの微笑から気持ち柔和なものに変わった印象を受けたことを考えても、その予感は正しいようである。  「なんだ、変な口して」  いつの間にかベンチを拭き終えていた燈馬が、口元をにやつかせた上遠野を怪訝な顔をして見上げていた。ああ、と上遠野は頭を振ると、燈馬の尻を平手で叩いてトレーニングルームを出て行こうとした。上の階にあるシャワー室へ向かわない彼の背中を燈馬は呼び止めた。  「おい、そのままで戻るのか」  振り向いた上遠野は、眉間に皺を寄せて燈馬をじっと見た。  「今、シャワー室改修中で入れないからな」  「…聞いてない」  燈馬は一瞬眉を上げ、階段に続くガラス張りの扉を睨んでぼそりと吐き出した。上遠野は困ったようにも見える燈馬の横顔を見てひくりと口角を上げると、肩に垂れさがったタオルの端を持った手を振った。  「早くしないと、すぐ臭ってくるぞ」  黒いタンクトップが広い上遠野の背中に声を掛ける間もなく、彼はトレーニングルームの重い扉を閉めてしまった。擦りガラス越しのぼやけた彼の像を目で追いつつ、寮に戻る他思いつかなかった燈馬は、鼻をすすって耳裏を掻いた。  換気扇の音だけが響く室内で、ふと天井際にある横長の窓から差し込む早朝の白い光に目を遣った燈馬の脳内には、何故か上遠野の指に付いていた赤い血が浮かんだ。  そしてそれは、燈馬が自室に戻って無事にシャワーを浴びてもなお、色濃く染みついて剥がれることがなかった。
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