第3話 ピンクと黄色の景色の謎を追え!

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第3話 ピンクと黄色の景色の謎を追え!

【事件編】  秋田県北部の春は、足早に過ぎて行こうとしている。  今年の春は気温が高い。だが、雨で気温が下がり過ぎるということが少ない気がする。  すでに4月の3週目の目前で、満開を過ぎた桜が少しずつ散り、花びらの道を作って粘っている。  まるで4月の終わりまで、心の中を清算するように、と季節としての春が言うようだ。  5月2日頃の八十八夜を前に、夏が足踏みしてくれている。  秋田犬(あきたいぬ)・ハチ公の調査を通して、ホームズさんは自身のことを良い悪い関係なく教えてくれた。  その探偵エルフさんは、私が口を開くのを待ってくれているようだ。  イギリス人が、日本人のように空気を読んでいる……のかは分からないけど。 だけど、私もいつまでも、牛舎で寝ているわけにはいかない。  私こと、柳備朶(ヤナギソナタ)は、『』をしている。  私自身の性格のせいではあるけど、下手くそな会話のキャッチボールを他の人としてしまう。  他の人たちから良いボールを投げてもらっているのに、かなりの確率で掴み損なっている。  結果、他人の言葉を受け止めて、私から返事をするのに、かなり時間がかかるのだ。  きっかけ……もう一度だけ、春のチャンスを私にくれないだろうか。  春が過ぎ行くのを、私は自宅にいて、歯がゆく思っていた頃。  そんなときに、探偵エルフのホームズさんは、いつものようにためらいなく、私へお願いをしてきた。 「ソナタ君、大潟村(おおがたむら)へ行こう」 「んー、私だちだけで()げる距離じゃねぇど?」 「その辺は、ミツハルさんに頼んである! 私は花が見たい! 大潟村は、ピンクと黄色の道があるんだろう!?」  イギリス人は、ガーデニングが好きで、植物に愛を感じている人も多いと聞く。  そう言えば、イギリスの国花は、園芸向きの『薔薇(ばら)』だった気がする。   そもそも、産業革命で急速に都市化した一方で、原風景を残そうという古き良き風景への懐古的な取り組みからの、一般人の楽しみとしての園芸である。 「外へ出て行くなら、帰る場所もしっかり持ちたい」というような性質は、イギリスという国が連合王国であり、自分自身の帰属を何となくでも考えているからだろう。  そんな彼ら・彼女らの気質は、何処となく日本人とも相通ずるものがあるような気がする。  伝統工芸しかり、舞踊しかり、茶道や華道しかり、武道しかり、自然体験しかり、日本庭園や古い屋敷、史跡・城跡の見学しかり、農村宿泊体験のようなグリーンツーリズムしかり、ワーケーションしかり、などを薦めるのは日本の各地方あるある話だ。  つまり、ふるさと体験として、秋田の文化を知るには、彼女と私にとって有益だろう。  私は、大きく頷いた。  了承、と捉えた探偵エルフの返事は早かった。 「じゃあ、明日だ。4月29日、みどりの日……おっと、昭和の日だな!」 「急だばって……うーんと、お父さんの都合もあるべし……明日だば良いって、()ってだんだべ?」 「おお。さすが、親子の意思疎通だ。その通り。ミツハルさんがお手すきの日は明日だ」 「あー、はいはい」  気の抜けた返事をしたわりには、春のチャンスがまた到来したと、私は内心嬉しかった。  探偵エルフのホームズさんは、おそらく私の父に根回しをしている。そこで父から、私の過去についても聴取しているだろう。  それなのに彼女は、私自身の口から話すのを待っている。  秋田犬の件もあるだろうから、私に気を遣うのは分かる。イギリス淑女らしく、善悪の二面性を飲み込んでいるのだろう。  私が『』を止めればいいのだ。  でも、どこまで話せるのか。どう話そうか。エルフさんが反応に困るのは……。  考えれば考えるほど不安になって、今夜は珍しく日付が変わる24時過ぎまで寝られなかった。  4月29日。祝日だが、少し朝早い。  ホームズさんと一緒に、珍しく私が寝坊だ。探偵エルフさんが朝弱いのは、いつも通りだけど。  私たちを車の後部席に詰め込むと、父は少し不機嫌そうに、アクセルを踏んだ。  大館市街を抜け、国道7号線は、道の駅たかのす・大太鼓の里での途中休憩から、能代市二ツ井(のしろしふたつい)地区のトンネルを越えた。  そこで、秋田自動車道へ入る。  能代市(のしろし)も、北秋田市も、いずれは自動車道で秋田市と繋がるのだろう。  三種町(みたねちょう)の八竜地区で、無料区間の自動車道を車が降りると、大潟村の北に近づいている。  車内ラジオのチューナーを、父は片手で調整していた。  眠気が覚めた私は、秋田市方面に近づいているのだと分かった。 「大潟村は、前回の東京オリンピックの年に出来た村だ」 「というのは……ミツハルさん、約60年前に人の手で造った村なのですか?」 「んだ。日本で2番目、大きな湖だった八郎潟(はちろうがた)を埋め立てで出来たどこだ」 「ほぅ、埋立地。みなとみらい、有明(ありあけ)……関東圏ではモニュメント的な建築物しか思い浮かびませんね」 「あい、そいだば向き違うな。先の大戦後、列島以外からの引き上げの国民が多がった。昭和20~30年代、国策で食糧の確保が急務だったんよな」 「えぇ? 湖を埋めて、農場にしたんですか?」 「今やるんだば、無茶苦茶な事業だと思う。だばって、当時は必要だった。未来のために、生きるために」 「なるほど……」  先の戦時中~戦後の混乱の事情は、父の年代も伝聞だろう。  家族を飢えさせず、日本人の未来を守るため、という昭和時代に生きた日本人の開拓精神で、この大潟村は、昭和39(1964)年に誕生したのだ。  オランダの技術支援と調査報告、漁師の反対運動、当時の秋田県知事・小畑勇二郎(おばたゆうじろう)氏の説得、堤防工事、排水のちに干陸化。  そして、全国からの入植者たちが入り、訓練のち農業が始まる。  年若い村だが、越えて来た試練が数多い。失敗と挑戦が連続した日々が重なり、身体を巡る血のように濃い色をしている。  驚きのあまりか、ホームズさんは何も反応を返さず、居住エリアまで続く道を窓から眺めていた。  同じく無反応、私も、だ。  父の昔話が、現実に存在する場所だと知って、硬くなっていた心が激しく揺さぶられたからだ。
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