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――人間がキライだ。
インボイス制度のせいで、財務経理部の仕事がまわらなくなり、通常業務に加えて、総務部も経理の仕事を分担することになった。
斎藤は部署ごとの書類を仕分けて、指示されたとおりに金額を打ち込んでいくのだが、計算が合わない、つじつまが合わない、経理で落とせない、指示もコロコロ変わる――そんな状況にうんざりしていた。
ネットでずっと指摘されてきた問題だったが、自分の業務とは関係ないと、なんの根拠もなく高を括っていた過去の自分を殴りたかった。
だが、総務はまだいい。当事者の経理部は連日残業のストレスに耐えかねて、奇声をあげながら仕事をしているらしい。
まるで犬が吠えているような、そんな声だったと、経理に書類を届けに行った同僚が話している。
「はやく、この制度廃止して欲しいっすね。日本はどうなっちまうんでしょう」
「知るか。目の前のことに集中しろ」
愚痴交じりに話しかける同僚に対して、ついそっけない態度をとって後悔する。「へいへい」と同僚が気にした風ではないことに安堵しつつ、黒い感情が胸の中で淀むのを感じる。
本当に、自分たちはどうなるのだろうか。
給料が上がらないのに、仕事量と責任の重さだけが上がっていく。
もういっそ、日本国民全員が仕事を放り出せばいいのに、そうなれば自分も安心して休めるのにと、見当違いの怒りが湧いた。
よくない傾向だなと自己分析をしつつ、斎藤はパソコンで金額と現実のつじつまを合わせていると、ディスプレイに映った自分の顔に愕然とする。
疲労でむくんだ青白い顔、鼻周りには赤いニキビがぼつぼつ出来ており、皮膚の表面がかさついて粉を吹き、目の周りは腫れて、手入れされていない髪は油っぽくて、唇はひび割れている。
「あー」
なんだか、一気にやる気をなくしてしまった。
しょんぼりと肩を落とす斎藤を、上司である井堤が肩を叩いて声をかける。
「どうした? 疲れたか」
「いえ、なんでもないです」
気にかけてくれるのは有難いものの、煩わしい気持ちが勝る自分に自己嫌悪する。そんな斎藤の様子を気に留めず、井堤はさらに言葉を重ねた。
「帰りに良い店を紹介するよ。俺のおごりだから気にしなくていい。斎藤君にとって、良いストレス発散になると思うんだ」
「……もしかして風俗っすか。オレ、病気感染されるの、イヤなんですけど」
嫌悪感が顔に出てしまったが、井堤の方は意味ありげに「犬カフェ」だと優しく微笑んだ。
犬カフェか。可愛いわんこのモフモフで、心が癒されるってか?
斎藤はどちらかというと、人間より動物が好きだ。
だから動物に一方的な負担をかける、癒しを目的としたコンテンツに強い憤りを感じているも……。
「行きます」
欲望と癒しに屈してしまった。
煩わしい現実や人間や数字よりも、疲れて擦り切れた五感は、ワンコのくりくりとした無垢な瞳と無邪気な鳴き声を求めていた。
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