0人が本棚に入れています
本棚に追加
家の前に着くと、切れた息を整えて扉に手をかける。一度深呼吸をしてからゆっくり開ける。
「…ただいま」
開けて最初に目に映るのは静まり返った薄暗いリビングまでの廊下。息をするのも億劫になる程、空気が張り詰めている。
美晴はそこに足を踏み入れた。一直線にリビングにむかう。
数メートル進んだ先には明るいその部屋。震える手で開けると、女が一人ソファに座ってテレビを見ていた。母親である。正確に言えば見ていたというより流していたというほうが正しい気がする。ただの暇つぶしとでも言うべきか、その表情は何も変わらず瞬きを数秒一回する程度の変化だった。
「ただいま。遅くなってごめんなさい」
女はそこでやっと美晴の方に目をちらりとやって、再びつまらなそうにテレビに視線を戻した。
「さっさとご飯食べて風呂入りなさい。それから勉強して。三週間後には定期考査でしょ」
声にも感情は宿っておらず、まだAI音声の方が幾分か抑揚がある。それに対し美晴ははいと返事をして席に着く。並べられた食事はいつも通り緑が多い。バランス重視の食事は薄い味。京料理のような上品な優しい味などではなく、簡素で無機質なただ栄養をとるためにあるだけの食事。それを口に押し込んで、水と一緒に無理やり飲み込む。幾度か繰り返すこと二十分。その間も女は無表情でテレビを見ていた。食べ終えると、食器をまとめ流し台に持っていき、その後は風呂に入る。
夏が過ぎ去ったにも関わらず、面倒くささが勝ってシャワーだけで済ました。洗濯したてのふんわりとしたやわらかいタオルに包まれながら体についた水分を拭き取る。そこでふと洗面台の鏡と目が合った。反抗の意を示した黒染めが落ちかけている茶髪の隙間から除く目。もちろん鏡には目がないので自分の目なのだが、どこか自分ではないような気がしたのだ。しかし、どこかで見たような感覚に陥る。自分の目であるから当然と言えばそうかもしれないが、誰か。鏡以外で見た世界をつまらなさそうに傍観しているその目が美晴には不愉快であった。そのため思い出す前にサッと目を逸らし、部屋着を身に纏ったらドライヤーで髪を乾かす。美晴はこの時間が好きだった。誰にも邪魔されない、自分一人だけのその世界が時間が、美晴にとって心地の良いものだった。それが今は目の前の鏡に映るソイツが嫌で仕方なかった。生乾きのまま、早々に切り上げると洗面所からでて階段をあがり自分の部屋へと急いだ。
最初のコメントを投稿しよう!