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~プロローグ~ 夢の中の君へ
アルゴン王国西部。
貴族令嬢が集う全寮制女学園のホールにて。
「ライラさん8ミリ......いいえ5ミリで!5ミリで結構です。5ミリだけ口角をあげてみましょう」
丸眼鏡をかけて髪をひっつめた女性教師は期待を込めた眼差しで懇願する。
「はい、楽しいことを思い浮かべて。きれいなお花を見る気持ちで。さあいきますよ?......さん、に、いち、はいっ!!」
完成する仏頂面。
「ああもう!!」
教師の肩はがっくりと落ちる。
「これさえできれば完全に完璧なのに......」
「申し訳ありません。サリヴァン先生」
ブラッドリー侯爵家の令嬢ライラは、これまで幾度となく繰り返した台詞を唱えた。
星を集めたかのような銀色の髪。
積もりたての新雪のように白い肌。
宝石さながらに輝く赤紫色の瞳。
均整のとれた華奢な体躯。
美しいビスクドールのような容貌を持つ令嬢だが、表情の機微に乏しく本当に人形なのではないかと見る者すべてを錯覚させる。
礼儀作法や各種レッスンは誰よりも完璧にこなし、加えて神に愛されているとしか思えないその美貌。
教師陣はライラを学園史上至玉の令嬢であると常に褒めそやした。
公爵家令嬢を差し置いてでも国内外の王家に妃候補として推薦し、プリンセスを輩出した名門学園として至上の栄誉を得ようと目論みさえもした。
しかし、悲しきかな。
物事はそう上手くはいかないもので。
ライラは表情筋が絡む作法だけは落第も落第だった。自発的に笑顔を作ることができないだけでなく、呈する表情のほとんどが仏頂面、または困惑顔か真顔ばかり。どんなに完璧にダンスをやろうが詩を読もうが、いずれもすべて不機嫌顔や面倒臭げに見える有り様。
入学からかれこれ5年以上、教師達は頭を悩ませ試行錯誤を繰り返し続けていた。
周囲からはヒソヒソと嘲笑を含むささやき声が上がる。
ライラも頭ではわかっていた。
口角を数ミリ上げるだけで解決する些末なことだというくらい。
本人としてはそれなりに努力しているつもりだった。
ぐぐぐ。と口元に力を入れてみる。
先生曰く皆当たり前にできるらしいのだが、物心ついた頃からできた試しがないように思う。
他の令嬢のように優美な曲線を作ろうにも不機嫌顔になるばかり。楽しいことを思い浮かべようにもぱっと浮かぶ記憶がなく、浮かんだとて悲しい記憶がセットでやってくる始末。
他の作法であれば見るだけで頭に入り実践できるにも関わらず、表情筋を操るというその一点だけについては鏡の前で毎日練習していても成果が出ることはなかった。
「あれが笑顔ですって?ふふ、気持ち悪い」
赤い髪の公爵令嬢が、ごく小さな声でそんなことを言う。
幼さの残る顔には手本通りの美しい微笑をたたえている。
彼女の言葉に賛同するように、クスクスと笑いが広がる気配がする。
―――あれで学園一位?
――――――侯爵家の分際で
―――母親譲りの......ああ、こわい
――――――身のほど知らず
―――――――――人形の方が人間らしいわね
「静粛に!!!静かにしなさい」
教師の嗜める声が響き、ざわつく室内は途端に静かになった。
サリヴァンはライラに向き直り、肩に手を置いて困りきった口調で言った。
「ライラさん、私達は貴女が《春の乙女》だけではなく、王家に嫁ぎプリンセスにもなれる素養があると思っています。でも、その表情ではいけません、絶 対 に。貴女ももう12歳。あと1年しっかり練習して、きたる社交の日に備えましょうね」
言われてしまったいつもの言葉。嘲笑から一転、周囲の令嬢が冷たい視線を向けるのもいつもの光景。
授業の後でまた何かされそうだなとライラはぼんやり予想する。
教師が褒めれば褒めるほどそれはエスカレートする。
今更動く心なんてない。
昨夜は月がきれいだったなどとどうでもいいことを考えながらいつも通り時間が過ぎるのを待つ。
表情に乏しい顔のおかげで、自分の心中は誰にも気取られることはないだろう。
そんなことを考えていた時だった。
「くだらない」
唐突に、吐き捨てるように、若い男性の声がホールに響き渡ったのは。
誰かしら。
学園に男性はいないはずだけれど。
眼だけで辺りを見回すが声の主は見当たらなかった。気のせいかと思ってそのまま立っていると、少しの間ののち同じ声が聞こえてきた。
「起きろ、ライラ」
それは懇願する声音に聞こえたもののライラは思わず首を傾げる。
私、起きているけれど。
「ライラ様!」
若い女性の声が響く。
「起きてください」
だから、さっきから起きて――――――。
......あれ?
ぐるぐるまわる思考。
白む世界。
令嬢と教師の顔にモヤがかかり、はるか彼方へと遠ざかって行く。
「ライラ様!」
「うー...ん」
「ライラ様、起きてください。本のページが折れてしまいますよ!」
「............えっ!?」
ようやく覚醒しライラはがばりと起き上がった。拍子に膝の上に置いていた本がずり落ちそうになり慌てて手で掴む。
「ゆ、夢?」
夢、そう夢だ。
どうやら屋敷の書庫の床に座り込んで本を読みながら寝ていたようだった。状況を理解するのに数瞬かかったが、ものすごく、どっと安堵して深く息を吐いた。
顔を上げればメイドのアンナがそばかすのある顔に心配の色を浮かべてすぐ横にしゃがみこんでいる。
「もう!床で眠ってしまわれるなんて。体を痛めてはいませんか?」
「ええ、大丈夫」
「もしかしてお腹が痛いとか頭が痛いとか?」
「いいえ」
「じゃあ昨夜あまり眠れなかったとか?急に冷え込みましたし暖房が足りなかったとか」
「いいえ、それも大丈夫」
「......でしたら夕食まで時間もありますし、温かいお茶をお持ちしますのでお部屋にお戻りくださいな。必要な本がありましたらお申し付けくだされば私がとりに参りますから」
「わかったわ。ありがとう」
ひどく心配そうにしているアンナに礼を伝えつつ、ライラは立ち上がりながらドレスをぽんぽんとはたいて形を整える。
アンナはライラより10歳ほど歳上の女性で、優しくて面倒見の良い、ライラにとってもはや姉のような存在だった。
聞くところによれば昔病気で妹を亡くしているらしく、その影響かかなり過保護な節があった。
「アンナ、悪いけれど本をしまうのを手伝ってくれるかしら」
大きくのびをしながら声を掛ければ、そのあどけない仕草を見てアンナは微笑む。
「はい!ちなみに今日はどんな本を読んでらしたんですか?」
「これよ。【レイチェルの野草シリーズ】の最新刊」
ライラは一冊の本を手に取り、じゃんと胸元に掲げた。
キラキラとした瞳で、それまで寝ていたとは思えない程饒舌に語り始める。
「植物学者レイチェル様の体験記兼調査報告の本なの。薬草や毒草の形状や味などをまとめているのだけれど、各地で遭遇した猛獣や危険生物との戦いや少数民族との交流も語られていて全巻ものすごく読み応えがあるわ」
アンナは身を屈めて本の表紙を覗き込み首を傾げる。
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【レイチェルの野草シリーズ】
著 レイチェル=リッガー
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「この御方って、男装の麗人として有名な侯爵家ご令嬢では......」
先日王都に買い出しに行った際、巷でこの名を耳にしていた。
「麗人かどうかは本にはないけれど男装はしているわ。ズボンの裾を熊に噛まれたと書いてあるもの」
それを聞いて、であれば噂の人物で間違いないのだろうとアンナは思った。
娯楽に飢える世間は変わり者の令嬢や令息について良いことも悪いこともあることもないことも口々に噂を広げて騒ぎ立てる。
レイチェル然り。
......ライラ然り。
ふっとアンナの表情が暗くかげるが、ライラはそれには気づかず、
「レイチェル様、どんな方かしら。お会いできる機会なんてきっと一生こないけれど」
少し頬を赤らめて顔をそむける。
「同じ侯爵家でも、私はこんな風だから」
「...またそんなことを」
アンナはライラの手を優しくとった。
「旦那様にとっても我々使用人にとっても、ライラ様はこの国一番のご令嬢です。誰よりも大切なお姫様です!だからどうかそんなこと仰らないでください」
「......ええ。ありがとう」
アンナと共に本を片付けつつ、ライラはもう忘れかけ始めている夢の内容を思い返していた。最後に聞こえた男性の声は誰だったのだろう。父の声でもなかった気がするが。
そう思いながら本をしまっていると、本棚の揺れによってか角にあった一冊の黒い表紙の本がバサリと落ちた。
手元の本を手早く戻して歩み寄り拾い上げる。
ページが開いていたのでなんとなく目を落としてみれば、それは書き人知らずの手記だった。
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世界は三つの大国により均衡を保っています。
機械の国 《北のイーリアス》
神力の国 《中央のアルゴン》
豊穣の国 《南のティターニア》
神話は語ります。
古来よりアルゴンが世界の中心でした。
それは三国すべての人心に神を畏れ敬う心があるからでした。
今後訪れる世では畏敬の念が薄れて狭間に混沌が生じるでしょう。
均衡が崩れて傾いた天板からは多くの人血が伝い流れるでしょう。
今日私は歯車の紋章旗と戦禍に立つ《あのひと》の姿を視ました。
神は何故私にそれを知らせたのでしょうか。
私の声は届いているでしょうか。
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詩かしら?
ライラは特に気にも留めず、パタリと閉じて本棚に戻す。
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