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僕が千冬に目をつけられたのは、吐血した時に偶然貸してもらったハンカチのせいだった。彼女は目の前でハンカチから染み出した血液を呑み込み、邪悪な顔で嗤った。
「うーん、喉越し良くて美味しい!」
既に取り返しのつかない程の病が全身を回って余命まで宣告された僕は、遂に頭までおかしくなったのかと思ったが、疑うのも馬鹿馬鹿しくなる程の妖艶な笑みで、彼女が本物の吸血鬼だと信じるに至った。
出処不明のお金を惜しげも無く与えられて病院で適切な治療を受けられる事には感謝しているが、死にかけの体に現在進行形で地獄を流し込まれているとも言える。薬を飲まないと延命出来ないし苦痛もよくやって来るが、病院に通う程の大層な人間でもないので頼らない。
死ぬ時は一人で、誰の迷惑もかけたくない。
いつの間にか家に住み着かれてしまって、入ってくるなと断れば噛み殺されそうなので何も言えない。周りに流されて生きてきた僕にはそもそも抵抗する力など無い。彼女より握力も弱いし。
「君の血は美味しいから、生きてていいよ」
今僕が意地汚く生きているのは、あの劇と千冬が何気なく言った言葉のせいだ。永久の時の中を優雅に泳ぐ千冬にとって僕はただの暇潰し要員だが、僕にとっては人生の最期まで共にいる筈の吸血鬼だ。情が芽生えるのはそう遅くなかった。
銀鮭のクリームレモンパスタとジンジャーエールを購入して帰路に着く。最近のスーパーマーケットは料理のクオリティが上がっている気がする。そうしないと顧客を掴む事が出来ないからだろうか、それとも店主の拘りだろうか。どちらにしても僕よりも前向きに成長していると言えるのは確かだった。
「あの劇の主役は幼馴染がやってるんだ」
「ふーん、そうなんだ。声かけないの?」
「どうせ覚えてないよ。それに、今の僕を見ても虚しくなるだけだろ?」
「言えてるね」
七年前に僕が引っ越してから連絡も取っていないので覚えていない確率の方が高い。それでも足繁く劇場に足を運ぶのは、きっと演技している彼女の姿が好きだからだ。幼馴染だからではなく単純に演者として好きだから。それが本心では無いと最初から分かっていたが意図的に無視をする。叶わない夢は眩い光を放つが、所詮光だ。目を瞑れば何も感じはしない。
小さな劇場でも輝きを放つ幼馴染と、死にかけの体を引き摺って寿命が縮むのを無感情に眺める僕。いつか僕を思い出す時が来るのなら、あの時の綺麗な僕のままで記憶に留まっていたい。
家に帰ると千冬は靴を乱雑に脱ぎ散らかしてソファに寝転がった。ドアポストには様々な催促状が届いているが、どうせ千冬が支払ってくれるからと手を付けていない。余命宣告に吸血鬼のスネかじりと最悪な気分だが、どうせ数ヶ月後には誰の記憶からも失われているので気にしない。
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