ほおばかむ

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 食べ物を「頬張る」という言葉は何処か可愛らしい感じがするが、その動作の後には大体「噛み砕く」が入ってくるから怖い。口に溜め込んだ食物を栄養素に変える為には歯が必要で、歯を生やす為には成長しないといけない。……成長。今の僕と最もかけ離れた言葉だ。 「チェリーパイでもどうですか?」  人が(まば)らに座っている劇場、その舞台で彼女は存在しない食べ物を噛み砕いている。所謂(いわゆる)演技という物だが、主役を張る程の人物になると甘い匂いすら辺りに漂わせる様な演技をする。吸血鬼役の彼女の八重歯が天井の照明に照らされて鈍く輝いている。血色の良い唇が四季の様に形を変える。僕はじっと見ている。  この劇場を発見して二ヶ月が経つが、本当がない空間というのはここまで心地良いのかと感動している。目前の劇はカーテンが下ろされれば終わる泡沫の一幕で、この場所を出れば冬の寒さで脳は萎れる。暖房のついたこの陽だまりは一時間で退去を命じる。僕は最後の一秒までしがみつく。 「私は確かにここにいるのです」  本当の彼女はここにはいない。  確かにチェリーパイを噛み砕いているが、結局は演技という水槽で戯れに泳いでいる朱文金だ。  一方的な物語を、物語るだけ。 「心地いい地獄だったわ」  遠慮がちな拍手と共にカーテンが降ろされる。  本音を言えば二度と開いて欲しくない。次があれば絶対に見に来てしまうから。ここでしか君には出会えない。カーテンの向こう側で出会ってしまえばきっと笑われるだろう。 「衣装安っぽかったね」 「……演技は良かっただろ」  僕は何度も見ているので違和感など無かったが、隣で欠伸を噛み殺す千冬(ちふゆ)はこの劇がどうやらお気に召さなかったらしい。 「特にあの八重歯、完全にノイズだったよ」 「……お前が言うならそうなんだろうな」 「あっ、そんな事よりさ……」  千冬はマスクを外してにっこりと笑う。  殺傷力を持った鋭い八重歯が、街路灯の光で輝いて見えた。白い吐息が頬に触れる。 「今日の血液、早く飲ませて?」  僕は本物の吸血鬼に、血液を()まれ続けている。
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