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大学生活初めての学期末試験が終わった翌日。
怜は十時間ほど揺られた夜行バスから降りて、照り付ける朝日の下で凝り固まった身体を伸ばした。三ヶ月ぶりに降り立った地元の独特の土の匂いが、怜の鼻腔を擽る。都市部に慣れ始めていた肺は、久々の澄んだ空気を目一杯取り込んだ。
「やっぱ田舎は安心するな……」
舗装が崩れかかっている道にゴロゴロとキャリーケースを走らせながら、怜は目的地までの道を辿る。小石に躓いたキャスターが跳ねるのに合わせて、心なしか自分の足取りも軽やかになっている気がする。
幾つか電車を乗り継いで、一時間もすれば怜の地元に到着だ。電車のドアが開いて足をホームに置けば、夜行バスから降りたときよりも新鮮で綺麗な風が怜の短い黒い髪を浚っていく。動き始めた電車が隠していた駅の改札口が露になると、怜の目が心待ちにしていた姿を捉えた。
「麻咲!」
人っこ一人いない寂れた駅に、怜の上擦った声が響く。名前を呼ばれた恋人は、中性的で整った顔に少し驚いた様子を映したが、すぐに柔らかな笑顔を湛えた。先程怜の髪を掬った風が、地毛だという麻咲の薄めの茶色い髪を靡かせている。元気になったとはいえ、日も高くなり暑さが増している中で病弱な麻咲を待たせてしまったことに罪悪感を感じながら、怜は急いで改札をくぐる。
「体、大丈夫か? 無理しなくて良かったのに」
「怜に少しでも早く会いたくて……」
気遣う怜の言葉に笑顔でそう返答した麻咲は、キャリーケースを持っていない方の怜の手を握ると、「ほら、行こ」と足を踏み出した。少し遅れて、引かれた手に追い付こうと怜の足も自宅の方へと動き出す。繋がれた手から伝わる、以前より高い体温に気を緩めながら、怜は麻咲の隣に並んだ。
「いつ退院したんだ?」
「一ヶ月くらい前だよ。元気になったって連絡した、少し前」
「そっか。……正直びっくりした。もう無理かもしれないって思ってた。奇跡ってあるんだな」
「はは、頑張った甲斐があった」
感慨深い怜の声色に対して、からりと笑う麻咲の返答。無理矢理に作ったものではない笑顔を見たのはいつぶりだろうか。
「大学はどう? 楽しい?」
「ああ、それなりに」
「ぼくと居るのとどっちが楽しい?」
「麻咲以上に楽しいやつなんかいねーよ」
そんな話をしながら、視界に映る世界に何故か感じる違和感に怜は内心首を傾げた。幾度となく麻咲と並んで歩いたこの道の風景が、いつもと少し違う。その理由が分かったのは、信号待ちのために電柱の傍に立ち止まったときだった。
「あれ? 背伸びたか?」
そう、麻咲との目線が違う。三ヶ月前、最後に歩いた時よりも麻咲の目線が高い。
問われた麻咲が、見せたことのない意地悪な笑みで怜を見る。
「気付いた?」
「お前、まだ成長期止まってなかったのか」
「最近ご飯よく食べるからかな。このまま怜の身長追い越しちゃおうかな」
「そうなる前に上から押さえてやる」
怜の冗談に、麻咲はふふ、と楽しげな声を漏らした。連絡を受けたとおり、本当に元気そうだ。
信号が変わり、再び二人で歩を進め出す。この信号を渡れば、怜の家はもうすぐだ。
「先に荷物家に置いてくるよ」
そう言いつつ離そうとした手が、一層強く握られた。
「それなんだけど……」
立ち止まった麻咲に合わせて、怜も一度足を止める。今まで見せていたどの笑顔とも違う大人びた笑みを浮かべた麻咲が、口を開く。
「しばらく、家一人なんだ。うちに泊まらない?」
思いがけない誘い。麻咲とは五歳の頃に出会って以来、近所ということもあってお互いの家を行き来することが多かったが、家に一人というなら話は別だ。それに加えて、麻咲とは既に恋人の関係にある。
麻咲はただより長く一緒に居たいから誘ってくれたのかもしれない。それでも、ごくり、と鳴る喉を止めることはできなかった。
「──分かった。泊まらせてもらう」
「よかった、断られるかもって思ってた」
「……恋人の誘いだろ、断れるかよ」
自分でも分かるほど赤らんだ顔を隠すように地面を見れば、また楽しそうな笑い声が怜の鼓膜を揺らした。
「でも珍しいな。家に麻咲だけ置いていくなんて」
「ぼくが旅行を勧めたの。ぼくの面倒見なくてよくなったし、たまには羽を伸ばしてきてって」
麻咲が入退院を繰り返していたせいか、いつも少し不安そうな顔をしていた麻咲の両親を思い返す。その記憶に映っていた、麻咲にそっくりな男の存在を思い出し、怜は微かに眉間に皺を寄せた。
「ふーん……麻寿は? あいつも一緒に?」
八重尾麻寿。麻咲の双子の弟だ。見た目は瓜二つだが性格は驚くほど真逆で、我が儘で自分勝手、人に対する配慮は一切見られない。怜も麻寿の我が儘に付き合わされた被害者の一人だ。
何故か怜は麻寿に気にいられていたらしく、小学校から高校までほとんど毎日麻寿と一緒に登校させられた。熱があっても、体が言うことを聞かないぐらい重くても、麻寿は怜を部屋から問答無用で引きずり出した。学校に着いた途端に倒れたことは、両手で数えられないくらいある。
そんな麻寿が唯一大切に扱うのは、虫だった。麻寿は虫に対して異常とも言うべき歪んだ愛を向けていた。道端で拾った毛虫や蜘蛛などを体に這わせながら登校するのは日常茶飯事。たまたま親が居ない日だったため麻寿が怜の家に入れず、その上寝坊して遅刻ギリギリで教室に飛び込んだ怜の机の上に、机の板が見えなくなるほどの夥しい量のダンゴムシを遊ばせながら、「今日はぼくの大事なこの子達が怜の代わりに授業受けるって。帰れば?」と言い放ったこともある。
怜の問い掛けに、麻咲は少し間を空けて小さく頷いた。
「──うん、そうだよ」
「それも珍しいな。あいつそんな旅行なんか微塵も興味ないだろ」
「無理矢理追い出したに近いかも。……怜と二人きりになりたかったから」
にこ、と目を細めて笑う麻咲。また怜の喉が大きく鳴る。期待してもいいのだろうか。
「そ、そうかよ」
何を言ってもにやける顔を抑えられなさそうで、怜は短くそれだけ返した。
怜の家に続く道を通り越して歩を進める。先程まで自然に発生していた会話も、怜が緊張している雰囲気を醸し出しているせいか皆無で、辺りの木々に止まっているであろう蝉の鳴き声だけがやけに大きく響いている。
「怜、着いたよ」
声と共に引っ張られた腕が、怜の体勢を崩した。何とか転倒は踏み止まった怜が顔を上げれば、確かにそこは麻咲の家だった。
古くからある建物らしいが、日本建築ではなく洋風の館を模したこの家は、怜の家の二倍の広さはある。道端から見上げたところにある二階の窓から、よく麻咲がこちらに手を振っていたことを思い出す。
「疲れたでしょ? 早く休もう」
麻咲が足を動かすのに合わせて、怜も館の敷地内へ足を踏み入れた。正門から館の玄関に続くレンガの通路の両脇には、植物が好きな麻咲が鼻歌交じりで手入れしていた色とりどりの花々が溢れている──はずだった。
「ん……?」
怜の視界に映っているそこに、鮮やかな色はない。その代わりに、枯れたからなのか何かに押し潰されたのか、茶色く萎み無惨に折れ曲がっている草のようなものがあちこちにある。そんな植物の姿を気にも止めず、麻咲は怜の手をぐいぐいと引っ張りながら館の玄関へと連れていった。
もしかしたら、枯れてしまった植物たちを見たくないのかもしれない。入院期間中は両親が手入れしていたはずだが、今回は特別容態が悪かったこともあり、疎かになってしまったのだろう。そう考えて、どうして、と口から出しかけた言葉を、湧き出てきた生唾と共に呑み込んだ。
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