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久々の八重尾家は、どこか薄暗く感じた。
玄関口にキャリーケースを置くよう指示され、リビングに通される。クーラーが程よく効いたそこで気を緩めると同時に、薄暗さの原因に気付いた。部屋のカーテンが遮光カーテンに替えられている。日射しが強すぎたのだろうか。
「はい、喉乾いたでしょ」
「サンキューな」
差し出されたグラスには、透明に近い色の液体が並々注がれている。ここに着くまでに流した汗の水分を取り戻すように、乾いた喉へそれを流し込んだ。舌がスポーツドリンクのような味を感じて、麻咲の配慮に内心で頭を下げる。
「まだあるけど飲む?」
「もう一杯だけくれ」
そう頼めば、麻咲は怜からグラスを受け取ってキッチンに戻り、再びグラスをその液体で満たして戻ってくる。同じように怜もグラスの中を一瞬で空にして、はあ、と一息ついた。
「麻咲は飲まないのか?」
「ぼくはあんまり喉乾いてないから大丈夫」
「そうか」
確かに、目の前の麻咲は汗もかいておらず涼しげだ。急に自分が汗臭いのではないかと不安になり、Tシャツの襟元を掴んで匂いを嗅ぐ。男にしてはあまり体臭がないと自負している怜だが、ほんのり鼻につく汗の臭いが気になり、シャワーを貸してもらうことにした。
ここ三ヶ月、トイレ一体化のユニットバスの使用を余儀なくされていた怜にとって、八重尾家の広々とした風呂場は開放感がありつつも少し居心地の悪いものとなっていた。以前はどんな気持ちでここを使っていたか思い出しながら、軽くシャワーで体を洗う。上半身から腰、そして足元へシャワーを向けて視線を落とした時だった。
「うわっ!」
何か黒い細長いものが怜の足のすぐ傍に落ちていた。驚いた拍子に手から離れたシャワーが床へと落ちて、ガン! と大きな音が鳴る。そのすぐ後、パタパタと走る足音が聞こえてきた。
『どうしたの?』
扉の向こうに映った人影に、「わりぃ、手が滑っただけだ!」と咄嗟に返して、恐る恐るシャワーヘッドを掴む。その近くには、怜を驚かせた犯人がのっそりと動いていた。ムカデに似ているが、足が異様に多い。ダンゴムシを何倍にも引き伸ばしたような見た目の虫だ。怜の男らしい指よりも太い胴体が、ゆっくりと濡れている床を滑っている。
「うげ……なんでこんなのが風呂に……」
以前は蚊一匹すらいないほど清潔に保たれていた。体が弱かった麻咲の負担になるような要素を全て取り払うためだろう。いくら麻咲が元気になったからといって、さすがに全裸の状態でこんな虫と遭遇したら、只でさえ短くなっている寿命がもっと縮むことになる。
幸い、その虫は怜から徐々に離れていったため、急いで体を流して一旦風呂場を出た。麻咲が風呂に入る前にあれは取り除いておこうと決意し、キャリーケースから出した着替えを身に纏う。
早歩きでリビングに戻れば、麻咲は薄暗い部屋でソファーに腰掛けて俯いていた。すうすう、と聞こえる息の音で、麻咲が夢の世界に出掛けていることを悟る。起こさないように麻咲の隣に座れば、ソファーの程良い弾力のせいか、急に眠気が襲ってきた。そういえば、夜行バスでトイレ休憩になる度に起きてしまい、きちんと睡眠をとれていなかった。
まだ夏休みは始まったばかりだ。早く向こうへ帰らなければと慌てることもない。そう思って気を抜いた瞬間、怜の意識は簡単に落ちていった。
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