Formicophilia

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   酷い腹痛で目が覚めた。意識が覚醒していくのと同時に、怜は猛烈な便意に襲われる。 「うぐ……っ!」  ソファーから半ば転がり落ちるように離れ、よたよたと床や壁に手をつきながらトイレを目指す。廊下に出れば透けた玄関扉から入ってくる日光は、まるで血のように廊下を赤く染めていた。大きく体を動かすと今にも抑えているものが出てしまいそうで、慎重にその赤い道を進んでいく。間一髪のところでようやくトイレへと辿り着き、便座に腰を下ろして我慢を解いた。  腹の中身が全て出ているのではないかと思うほどの量に困惑しながら、原因を考える。何かに当たってしまったのかとも思ったが、ここ最近生物(なまもの)は食べていない。思い当たる節がないまま怜がトイレから出て風呂場の前を通ると、タイミング良く麻咲が風呂場の方から顔を出した。 「おはよう……って、もう夕方だけど。良く寝てたね」 「あ、ああ……疲れてたみたいだな。というか、風呂入ったのか」 「うん。ぼくも汗流しとこうと思って」  そう言った麻咲に、変わった様子はない。あんな大きな虫を見れば、麻咲なら少しぐらい様子がおかしくなると思っていたが、運良く見つからなかったのだろう。  髪をタオルで拭きながらリビングに戻る麻咲の後に付いていく。何故かいつものパジャマ姿ではなく、外行きの格好をしている。さすがにそろそろパジャマは恥ずかしくなったのかもしれない。 「そうだ、怜」  くるりと麻咲が体ごと怜の方へ向き直った。遠心力で飛んでいった水滴が、ぱたた、と廊下を濡らす。 「これから探険しない?」 「探険?」 「この家、実は地下室があってね。最近それを見つけたんだけど、怜と一緒に行ってみたいなと思って」 「地下室まであるのか。すごいな」  純粋に羨ましく思う。怜の家は平凡な二階建ての家で、地下室なんてものはない。あって床下収納くらいだ。 「行くでしょ?」 「いいけど……これからって、風呂入ったばっかだろ。また汚れるんじゃないのか?」 「いいんだよ、汚れても」  子どものように無邪気な笑顔を見せてまた前を向いた麻咲にどこか違和感を感じつつも、怜はそうか、と口角を上げて手招きする麻咲を追った。  リビングを通りすぎて角を曲がり、長い廊下を麻咲がずんずんと進んでいく。この家に初めて訪れてから十年以上経つが、この廊下の風景は初めて見る。何故なら、この先にある部屋に立ち入ることを禁じられていたからだ。怜どころか家族であっても誰一人として、この先の麻寿の部屋には入ることは許されていなかった。怜としては、どうせ虫だらけなのだろうとそもそも近付く気すら起きなかったが。  そんな禁忌の場所へ、麻咲は躊躇なく近付いていく。怜が止める暇もなく、麻咲は突き当たりにある扉の前へ到着するとその取っ手を掴んで開いた。  麻咲の後ろ姿越しに見える部屋の中は、怜の予想を裏切って、特段他の部屋と変わらないようだった。先に入った麻咲が、また怜へと手招きをする。自分達以外に誰も居ないと分かっていながらも、それでもどこかで麻寿が見ているような気がして、周りを見渡しつつ怜もその部屋へと入った。  初めて足を踏み入れたその部屋は、ベッドと勉強机と本棚があるだけの至極シンプルなものだった。それなのに、何故か部屋に満ちる空気は重く尖っていて、侵入者である怜たちに向けて牙を剥いているように思える。 「ここって麻寿の部屋だろ? 勝手に入って大丈夫か?」 「大丈夫大丈夫」  やんわりと戻ることを提案しようとしたが、麻咲はあっけらかんとそう言い放った。部屋の奥にある本棚横の空間の前で立ち止まった麻咲は、地面を指差して怜の方を向く。 「ほらここ」  指差された場所を見れば、そこだけ木目が他の場所と交差するような形になっていた。木目が変わる境目が正方形に切り取られている。床に手をついた麻咲がぐっと押し込むと、がこ、と何かが外れたような音とともに正方形の床が一段下がる。麻咲がそのまま手前に床を滑らせれば、手についてくる形で床板が収納され、その向こうに空間を映し出した。  真っ暗な世界が、怜を飲み込もうと口を開けている気がして、無意識に体を引いてしまう。入り口には梯子がかかっていて、その下には恐らく石段のようなものが続いているように見えた。 「うわ……なんか居そうな雰囲気あるな……」 「一人じゃ怖くてなかなか入れなくて……」 「ほんとに行くのか? 体は大丈夫か?」 「元気になったっていったでしょ。大丈夫」  怖がりだったはずの麻咲がここまで言うのだから、余程気になるのだろう。怜も覚悟を決めて、先陣を切って地下室への梯子を降りていく。慎重に体を動かして、石段のところへ足を下ろして辺りを見渡せば、壁にスイッチが一つぽつんと取り付けられていた。押してみると、視界が一瞬真っ白になる。思わず目を瞑ってしまったが、目蓋越しに明るさを感じて電気がついたことを悟った。目を開ければ、電気のお陰で下へと続く石段が確認できた。 「来れるか?」 「うん、先行ってていいよ」  麻咲が梯子を降り始めるのを確認して、怜は石の階段をゆっくりと降りていく。少し遅れて自分以外の足音が聞こえ、麻咲がきちんとついてきていることを把握しながら、怜は石段が続く先を目指した。 「足元気を付けろよ」 「うん」  時折後ろの麻咲を確認しながらやけに長い石段を降りきると、開けた場所に出た。適温に保たれながら、しかし何だか湿っている空気に顔を顰める。石の床が続いた先にある、何か黒い場所が怜の視界に映った。 「ん……? 水、か……?」  天井が高いせいか今までよりも薄暗く、その黒いものが何なのか遠目では把握できない。恐る恐る傍へ近付いて、それが何なのかを理解した瞬間、怜の喉は大声を吐き出した。 「うわあああっ!」  虫、虫、虫。  風呂場で見たあの黒く大きな長い虫が、小さな池ほどもある空間に所狭しと蠢いている。後ずさった足が小さな突起に引っ掛かり、思わず尻餅をついた。 「な、んだ、これ……」 「どうしたの? 腰抜かしたみたいだけど」 「見ない方がいい! こいつら、風呂にもいたんだ。なんでこんなに大量発生してるのか分からないけど、とにかく一旦戻ろう……!」  近付いてくる麻咲にこの光景を見せないよう、慌てて立ち上がって麻咲の前に仁王立ちになる。しかし、麻咲から放たれた言葉は、怜の予想とは全く違っていた。 「ああ、あの子に会ったんだ」 「あの、子……?」  にや、と嗤う麻咲が、恐い。麻咲は何を言っているのか。 「とっても太くて大きくて可愛かったでしょ? いつも一緒にお風呂に入ってるんだ」 「何を、言って……」 「ここにいる子たちもね、怜のためにいろんな所から集めて増やしたんだよ。出来るだけ大きな子たちを選んで育ててたんだぁ」  声も姿も麻咲のはずなのに、怜の脳はその情報を拒否している。  違う。麻咲じゃない。これは、こいつは。
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