磨く男

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磨く男

 青年の右目から、筒状のレンズが外された。無論彼の目そのものではない。彼の仕事を非常に良く助けている鑑定用のルーペである。  青年はもう一度、親指と人差し指でつまんでいる小さなものを肉眼で見つめた。空に翳し、輝きに目を凝らす。まるでそこに自分ひとりしかいないかのように粛然とした空気を漂わせながら、彼は眩いばかりの輝きを見つめ続けている。  ある小さな町の骨董市に青年の姿はあった。古びたデイバッグは、彼が何ヶ国も旅をして回っていることをうかがわせた。いくつかの店舗を覗くにつれ、彼の表情は落胆とも諦めとも受け取れるような硬いものに変わっていったから、おそらくお目当てのものが見つからないのであろう。数店舗を残して、彼は大きな溜息を吐いた。  まあ世界中のどの骨董市でも経験してきたことだ。青年も気を取り直すようにデイバッグを背負い直すと、残りの店舗を同じように覗きはじめた。  骨董市が並ぶ通りのはずれに着いたとき、青年の視界の隅できらりと何かが光った。最後の店舗は、あきらかにプロの古物商ではない素人の店構えだ。誰が来ても興味がなさそうに目を閉じている老人が、その店のあるじだった。 「すみません。拝見してもよろしいでしょうか」 「……どうぞご自由に」  青年は、きらりと光ったものの正体に手を伸ばした。青年は驚き、そして高揚する。これはもしかして。  愛用しているルーペをポケットから取り出すと、震えそうになる指をなんとか堪えて右目に当てがった。落とさないようにしっかりと指で挟み、レンズ越しにそれの詳細をつぶさに観察する。  胸の高揚は最高潮を迎えていた。間違いない、これだ。だけどどうして。こんな小さな骨董市で、プロのコレクターでもなんでもない、小さな店の片隅にあるのだろう。そして、どうしてこれほどまでに良い状態を保っているのだろう。  いくつかの疑問と緊張、喜びがないまぜになった少し息苦しいほどの動揺、だがそれをはるかに凌駕する輝きに、青年は圧倒されていた。 「あるじ。この石の経歴を聞いても良いでしょうか」  ようやく絞り出した声は、少し震えている。青年の喉はからからに乾いていた。あるじは、そう聞かれることを初めから分かっていたかのように、青年の質問に澱みなく答えた。 「それは、百年以上前から今に伝わる石だ。百年以上経って歴代の持ち主達はすでにいない。だが、この石がここにあるということが、彼らが確かに生きていたことを表す」  百年以上。青年はその言葉を聞いて、もう一度手の中の石を見つめた。世界にはアンティークジュエリーと呼ばれる歴史ある石が存在しているが、この石に限っては百年以上生き続けることがどんなに難しいかを青年は知っていた。なぜならその石は硬度が低く加工に適さないため、市場には滅多に出回ることのない石だから。  手の中の輝きは、時間の経過を感じさせない。歴代の持ち主達がどれほど大切に扱ってきたかをそれは証明していた。  青年はあるじの提示した金額を払い、その石の新しい持ち主となった。石の経歴を聞いた以上、彼もまた歴史の一部となる。だが青年はそのことをまだ知らない。  ただ何となくずっと心にあった思い。どこかで石が自分を呼んでいるような気がする。その声を辿って、彼は世界中を旅してきた。この石こそが自分を呼んでいたのだと直感が教える。 「おかえり」  あるじは、石を青年に渡すと呟いた。 「おかえり……?」  青年が聞き返すと、あるじは初めて青年に目を合わせ、こう続けた。 「磨く男の手は確かに語り継がれた」  あるじの口から発せられた謎の言葉に、青年は思わず目を見開く。磨く男とは一体誰なんだ。そしてあるじが自分をおかえりという、その真意はなんだ。  頭の上に疑問符がいくつも浮かんでいるような青年の表情に、あるじは声を出して笑う。そして言った。 「古い言い伝えだ。さあ、その石を売ったからにはもう用はない。店はこれで仕舞いだ」 「あ、ありがとうございます」  磨く男という古い言い伝え。青年はあるじの言葉を受けて、町の図書館へと向かった。図書館ならば何か分かるかもしれない。  青年は、デイバッグとは別に貴重品を入れるためのウエストポーチをそっと上から手で押さえた。そこには小箱に仕舞われた件の石が入っている。磨く男とは一体誰なのだろう。この石とどんな関係があるのだろう。  郷土史はあまり興味を持たれないようで、図書館の書架に何冊か並べられていたものの、幾分埃を被っていた。青年は一冊ずつ読み進めていくことにした。  三冊目に入ったところで、古い挿絵に青年の目は釘付けになった。石壁に囲まれた小部屋で、小さな作業机に向かい何か作業をしている男の絵。絵は小さく印刷も潰れていて、手元の様子は分からない。青年はルーペを取り出し、絵を拡大してみる。  男は石を磨いていた。  このページだ。青年は三冊目を詳しく読み込もうとして──、その時図書館の閉館を告げるチャイムが鳴った。もともとたいして来館者の居なかった図書館は、気付けばさらに閑散として居残れる余地もなさそうだ。  また明日来よう。続きを読めば、磨く男とこの石の関係性が分かるに違いない。青年は本を元の場所へ戻し、外へ出た。  西日が町の石畳をあたためている。遮るような高い建物もなく、人の気配も感じられない。  何かが変だ。青年は辺りを見回した。骨董市を抜けてこの図書館へ来たというのに、通りにはあれだけあった店がひとつもない。  町全体が錆びついたように、鈍い空気を漂わせていた。さきほどまでの小さいながらも活気のあった様子とは大違いだ。一体何が起こったのだろう。  青年はおそるおそる一歩を踏み出した。石畳はごつごつとしていて歩きにくい。骨董市のあった通りは、古いながらもコンクリートで舗装されていた筈だ。暫く目立たないよう隅を歩いていると、ようやく人らしき声が聞こえてきた。通りの向こうから男が二人、歩いてくるようだ。青年はそっと建物の影に隠れた。 「やっぱりもうあの鉱山は駄目だ。いくら掘ったって何も出て来やしねえ」 「だから言ったろ? 早いとここの町を捨てて別のところへ行こうぜって」 「別のところって、そんな簡単に言うなよ。こっちは嫁んところの婆さんがもう歩けねえんだ。この町から出て行くなんて無理無理」 「って言ったってよお、もうこの山のどこにもお宝なんてねえって分かったろ?」 「あーあ、ちょっと前までは金銀銅と掘ったらざくざくだったのになあ」 「ああ、町だって溢れかえっちまうほど人もいたよな」 「一攫千金でどいつもこいつも大笑いだったのに、掘っても何も出ないと分かったら、蜘蛛の子を散らすようにいなくなっちまった」 「今俺達が掘ってる坑道だってもう何も出てこねえんだって。諦めようぜ」 「分かってるよ。嫁と婆さん説得するしかねえよな」  背中を丸め、疲れたような足取りで、男達は青年の目の前を通り過ぎて行った。  この町はどうやら鉱石採掘で潤っていたらしいが、今は枯渇してしまっていることが彼らの会話から読み取れた。青年は事前に仕入れていた知識と照らし合わせる。鉱石採掘が行われていたのは、百年以上前の話だ。  つまり、図書館から出てみれば百年前の町に来てしまった、ということ、らしい。  いや、思えばさもありなんではある。ウエストポーチに仕舞ってある石との出会い、あるじの不思議な言葉、青年を石探しの旅に駆り立てていた何か。辿り着いた先でこのような出来事に出くわしたのも、起こるべくして起こったことなのだろうと青年は思う。  男達が居なくなったのを確認して、再び青年は通りを歩き出した。何故かは分からないけれど、鉱山の方角へ向かえば良いような気がする。  通りを抜ければ、辺りはぐっと山道の様相を呈してきた。木々を縫うように人の足で踏み固められた道を上っていくと、山の斜面がむき出しになった場所へ辿り着いた。大きな穴が掘られており、入り口は木材で支保を施してある。穴の奥までそうやって木材を組み、崩落を防いでいるのだろう。そういった坑道がいくつもあるようだ。  何枚かの板で塞がれているひときわ大きな穴は、男達の言っていた「掘っても何も出ない」坑道だと思われる。青年が様子を伺おうとした時、どこからともなく一人の男が現れた。  青年は慌てて近くの岩陰に身を隠す。その男は、塞いでいる板を数枚引き剝がすと、残りの板をひょいと跨いで、枯れた坑道の中へと入ってしまった。  あの男は一体何者だろう。もう使われることのない坑道に何の用事がある。青年はそっと後を追ってみた。男は、枯れた坑道の壁を調べているようだった。  穴の入り口からそっと顔を覗かせてみる。さほど奥までは潜っていないのか男の何やらぶつぶつ言っている声がして、青年は耳を澄ませた。 「石の輝きが見える。まだ生きている」  男はそう呟いていた。青年はそれを聞くや居てもたってもいられず塞ぎ板へ手を掛けた。バキリと音がして、板が割れた。 「誰だ」  鋭い声が飛んできて、青年は思わず首をすくめる。だが怖さよりも欲求が勝った。石が生きているという言葉の意味を知りたいと思ったのだ。すべてはあの石に通じる出来事に違いない。自分はきっとあの石に導かれてここまで来たのだ。その意味を青年は知りたかった。 「す、すみません。この鉱山にはもう採れる鉱物はないと聞いたのですが、あなたが坑道に入っていくのが見えて、それで、気になって」  青年のしどろもどろな様子に悪意はないと感じたのか、暗がりから男が現れた。その顔を見て、青年はあっと思った。図書館の郷土史に載っていた挿絵の男だ。そう、石を磨いていた男。 「この町の者か」  男は怒ったようにも聞こえる口調で青年に問うた。青年は慌てて答える。 「い、いえ。違います。僕は旅をしている者です」  男の纏っていた空気が幾分和らいだように青年は感じた。 「そうか。この町の者は石を粗末に扱い過ぎたのでな。荒い物言いに聞こえたならすまない」 「いいえ大丈夫です。──石を粗末に、とは?」  話してみればそう偏屈な人でもなさそうだ。青年は気になって聞き返してみた。先程すれ違った坑夫の男達は、すっかり掘り尽くしたようなことを言っていたが、それと関係があるようだ。男は青年の問いに暫く黙った後、ついてこいと一言だけ言い、背中を向けて歩き出した。坑道の奥の方へと。  青年は逡巡したのち──えい、と飛び込むようにして男のあとを追うことにした。  奥とは言っても入り口の光がまだ届く辺りで、青年は少しほっとする。男が足を止めた場所には、ずさんに組み立てられた支保材の間から、鈍い灰色の岩肌が見えていた。 「ここを見ろ」  男は身体をずらして青年のための場所を空けた。その岩肌は削り取られ、小さな空洞が出来ている。男が指さす空洞の奥に目を凝らせば、青年の胸に高ぶりが込み上げてきた。 「これは……」  青年が骨董市で譲り受けた輝く石。磨かれる前の原石が、岩肌を突き破るようにしてそこに形作られている。 「くさび石だ。ここにはまだこういった石達が眠っている。眠っているだけで彼らは生きている。その息遣いに耳を傾けようとしない者達のせいで、この坑道は荒らされてしまった。石の声を聞き丁寧に掘り出せば、まだたくさんの原石に出会えるというのに」  口惜しさを滲ませたような男の言葉に、青年はウエストポーチをぎゅっと握りしめた。ようやく分かった気がする。この男が居たから石は見つけ出され、丁寧に磨かれ、自分の生きている時代にまで息づいてきたのだと。  青年のルーツ。旅のはじまり。この坑道こそが旅のスタート地点でありゴールだ。 「僕も石の声が聞きたいです」  青年は思わず声を上ずらせ、そんな様子に男は一瞬面食らったような面持ちを見せたが、やがてふっと小さく笑った。 「君には聞こえるかもしれないな、石の声が」  男の家は町はずれにあった。小さな平屋で、元は何かを閉まっておく蔵のように見えた。石壁の室内は見覚えがあり、やはりあの郷土史にあった挿絵がここであることを青年は確信した。  窓はあまりなく、室内は薄暗い。上の方にある明かりとりの小窓が、かろうじて夜空を四角く切り取っている。青年がきょろきょろと所在なげにしていると、男はランタンに火を灯し、作業机の上を照らした。そこには、夜空の星よりも輝く石達が並べられていた。 「すごい」 「これらは、あの坑道から掘り出してきたものだ。磨けばこうやって息を吹き返す。気の遠くなるような作業だが、手を掛けたら掛けた分だけ石は応えてくれるのだ」 「手を掛けたら応えてくれる……」 「そうだ。だが鉱山の連中は、そういった細かい仕事は好まない。私の存在も煙たがられている」 「嫌われているんですか?」  青年の一言に男は笑った。 「ああ、そうだ。しかし君もはっきり言うな」 「あ、す、すみません」 「正直で良い。石の前では嘘も見栄も効かない。どれだけ石と本気で向き合えるか。それだけが真実だ」 「石と本気で向き合う……」 「くさび石は、特に扱いが難しい。根気の要る作業だがついて来れるか?」  男の眼差しには試すような素振りも青年を見下すような気配もなかった。あるのは、この石を次の世代へと繋いでいきたいという思いだけ。その思いが百年以上受け継がれて、今青年のウエストポーチの中にあるのだということを青年は理解した。大きな歴史の一部に、自分もまた存在しているということを。 「ついていきます。よろしくお願いします」  こうして青年は男の弟子となり、小さな平屋で石と向き合う日々が始まった。青年は毎日男について坑道を入り、くさび石を含む母岩を掘り出す。男は繊細な手つきで母岩からくさび石を取り出すのだが、それが想像以上に困難であると青年はすぐに悟った。  くさび石はその名の通り、結晶がくさびの形に似ていることからそう呼ばれている。比較的簡単に取り出せそうなのに、青年が取り出そうとすると欠けてしまうのだ。 「軟らかい石だからな。加工するのが難しく、誰も触りたがらないのだ」 「先生はどうしてこの石を磨こうと思ったのですか」 「石が呼んでいたからだ」  その感覚には青年も覚えがあった。自分もまたこの石に呼ばれた。奇妙な経路を経て、磨く男の弟子となっている。くさび石の声を聞けるようになりたい。ならなければいけない。  何度も磨いては欠け磨いては欠けを繰り返す。いくつかの欠けた結晶は、男の手によって少し小さいルースに仕立てられたが、いくつかのものはどうにもならなかった。 「すみません先生」 「私じゃないだろう、謝るのは」  声を聞きそこなったくさび石は、もとの坑道にそっと埋めに行った。ふがいない主ですまない。青年は心の中で石に詫び、そうやって少しずつ技を習得していった。  試行錯誤を繰り返していたある日、青年の手元は虹色に輝いた。彼が知っているどの石よりも輝きの強い石。 「石が息をしているな」  男は青年にそう告げた。 「僕は石の声を聞けたでしょうか」  青年の問いに、男は黙って頷いた。 「君の耳は初めから石の声を聞いている。だから石は君の元へやって来たのだ」  そうして、男はいつものように坑道へ向かう準備を始めた。 「すべては忘れてしまっても構わない。私のことも、この町のことも、坑道のことも。だが一つだけ。これだけは記憶に留めておいてほしい。この先百年、いやそれ以上の年月を伝えていってほしいのだ。石を磨き、その声を聞くという役目を」  男は留守を頼むと言い残し、一人坑道へ向かった。二度と帰っては来なかった。    作業机に突っ伏して居眠りをしていた青年がはっと起きてみれば、閉館を告げるチャイムが鳴っている。 「夢か」  図書館だった。居眠りをしていた間の夢だったようだ。青年の腕の下には、三冊目の郷土史が開かれたままだ。  この挿絵が見せた夢なのかと青年はあらためて目を凝らしてみた。磨く男の言い伝え、青年が手に入れた石の経歴、そこに自分自身がまさか関わっていようとは思わなかったが。  男は忘れても良いと言っていたが、忘れようなど出来ない。男はその後、一体どうなったのだろう。  ふと青年は、磨く男の顔に目を遣った。夢の中では思いもしなかったが、誰かに似ている。荷物をまとめ、慌てて図書館の外へ飛び出した。骨董市はすでにほとんどの店舗が店仕舞いを終え、帰り支度に入っている。  くさび石を手に入れた店舗はもう引き払ってしまっただろうか。店舗のあったところまで走ると、あるじは最後の荷物を車へ積み終えたところだった。 「すみません。あの、あなたはもしかして」  あるじは青年の顔を認めると、ふっと小さく笑った。 「おかえり。君はその石とともに、次の持ち主を探す旅に出なさい。世界は広い」 「はい、先生」                             終
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