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 古めかしい額縁のなかに、思わずはっとするような美少年の絵が飾られている。描かれているのは銀色の髪に真っ白な肌の少年で、どこか遠くへ微笑みかけている。青い瞳は幸せそうに潤み、頬は薔薇色に染まっていた。  八歳のエリザは、絵をじっと睨みつけていた。描かれた少年はエリザより何歳か年上にみえる。鼻をくっつけんばかりに睨んでみても、絵は絵だった。古びた油絵具と黴っぽい匂いがするだけだ。 「エリザ様。いかがされました?」  屋敷付の執事で、エリザのお世話係でもあるパトリスが声をかけてくる。白ひげを蓄えた好々爺で、いつもエリザに小言ばかりいうのだが、今日は不思議そうにしていた。 「この人を見た」 「それは……見間違いかと思いますが」 「なんで?」  パトリスは硬い顔をしていたが、すぐに悟ったような声を出した。 「そちらはリシャール・ディディエ公です。当家の昔の当主で、たしか三百年前に亡くなられています」 「三百年前……」 「ですから、似た方と見間違えられたのでしょう」  エリザは無言で絵に向き直る。見間違いなんかじゃない。これまでに何度も会ったし、昨日の夜も彼を見たのだ。  昨日は満月の美しい夜だった。  明かりを落とし、眠ったように見せかけてから、エリザは寝床を抜け出した。外は春風がやわらかく、眠れる草木の匂いが心地よかった。エリザがこっそり向かったのは、林とも呼べる広さの香料庭園だ。  エリザの父、アベル・ディディエは町一番の調香師だった。彼は香水作りに必要な植物をたくさん庭に集めていて、エリザはそれらの匂いを嗅ぎながら歩いていた。父のことを考えていたのだ。町の領主でもあるアベル・ディディエは、夜遅くまで外で忙殺されている。だだっ広い屋敷にいるのはかしこまったメイドたちと、好々爺のような執事のパトリスだけ。エリザの母親は幼い頃に亡くなったし、近しい親戚もいない。唯一の家族である父は常に忙しく、めったに会うこともできない。ひとりぼっちで孤独なエリザは、せめて疲れている父の役に立ちたいと考えていた。父を癒すことのできる香水をひそかに作り、十日後の祭典の日にプレゼントするのだ。  庭をすこし歩くと、左手に父のコンサバトリーが見えてくる。きらめく透明なガラス製の温室で、中で南国の貴重な香料植物を育てている。地下に父の香水作業部屋があるから、誰も許可なく立ち入ることはできない。コンサバトリーの明かりはその日も消えていた。父はいつも通り夜会で帰りが遅いのだろう。  お気に入りの段々畑へ足を運ぶと、小高い丘には香料となる植物が、綺麗に区分けされ植えられていた。イチジクの木、オレンジの木、ラベンダー、ジャスミン、ライラック……夜なので花は眠り、木々は青々しく呼吸している。頭上の月は思わずはっとするほど見事な輝きで、エリザはつい目を奪われた。まん丸の輪郭から滲み出た光をみると、いつもバニラを想像してしまう。月の光に香りがあれば、きっとうっとりするほど甘いものになるだろう。チュベローズやいちじくの実、ココナッツにミルクを混ぜて、石鹸でくるんだような──……。 「危ないっ!」  月に見惚れて足を踏み外した。段々畑の上は屋敷の二階よりも高さがある。落ちる──とっさに手を伸ばすと、誰かに腕をつかまれた。視界が反転し、衝撃がやってくる。体のあちこちが跳ね、エリザは息をつまらせた。舌をかみ、目がぐるぐる回る。ようやく止まったと思ったら、誰かの腕の中にいた。目を開くより前に、幼少より鍛えられてきた鼻が甘いミルクのような香りをつかみとる。ほんのり香るバニラだ。洗いたてのタオルの匂いと、すこしだけ花の香り。おそるおそる目を開けば、自分の下にいる少年が睨んできていた。不思議と見覚えのある青い瞳が、文句を言いたくてしかたないとエリザを見ている。 「どうしてあんなところから落ちるんだ! 打ちどころが悪ければ死んでいたぞ」 「……ごめんなさい」 「まったく。何度目だ、ッ──」  身を起こそうとして、少年は痛みに呻き元の体勢に戻る。ぱさり、と地面に投げ出された髪は銀色で、真っ白な喉がさらされていた。八歳のエリザより五歳ほど年上にみえる。誰かと尋ねる前に、エリザは少年の胸に鼻をうずめていた。嗅ぎおぼえのある匂いだったからだ。この人を知っている。 「おい、どこか痛むのか?」 「バニラ、ムスク、ピンクペッパー──前にも嗅いだ。これ、誰のつくった香水?」 「不審者にまず尋ねるのがそれか?」  少年はゆっくり身を起こした。鋭い視線でエリザに怪我がないか確認している。 「あなた誰? 妖精さん?」 「なんだって?」 「前にも会ったことある……たぶんあなたの匂いを、小さい頃に嗅いだ気がする。そのときには、妖精だと思ったけど」 「ふん」  少年は無言でそのまま立ち去りかけたが、へたりこんでいるエリザに足を止めた。 「いつまでそうしてる。はやく部屋に戻れ」 「うん」 「……立てないのか?」  エリザは右足首を痛めていた。苛々とした足取りで戻ってきた少年は、素早くエリザの足を確かめると、荷物のようにエリザを肩に担ぎあげてしまった。 「屋敷の下まで連れてってやるから、人を呼べ」 「うん……あなたも、香水を作ってるの?」 「なに?」 「この匂い、お父様の作った香水じゃない。でもこんなに複雑な香りは、町では売ってないから」  担ぎ上げられたエリザには遠ざかっていく庭と、少年の背しか見えない。少年が歩くたびに風に乗り、心地よく甘い香りが運ばれてくる。満月を溶かしこんだような、彼のまとう匂いだった。少年の声は冷ややかだった。 「ずいぶんと鼻がきくな。お前こそ香水を作らないのか?」  言外に「ディディエ家のひとり娘だろう?」という皮肉が含まれていて、エリザの声は小さくなる。 「作ろうと思って。今日、材料を見にきたの」 「なんでこんな夜更けに」 「……夜に摘んだ草を使うと、人を癒せる香りになるって聞いたから。忙しいお父様に、すこしでも優しい香りをあげたくて」 「夜に摘む? くだならい、迷信だな」  すっぱり言い切られ、エリザは身を縮こまらせる。話の出どころは屋敷の図書室にある絵本だった。おまじないのように記されていた言葉にすがり、夜に庭園へ来たのはエリザの自信のなさが原因だ。  町一番の調香師である父は、子供の頃にはすでに香水を作っていた。エリザの祖父も曽祖父も、ディディエ家の当主はみんな嗅覚にすぐれ、すばらしい香りを生み出している。家を継ぐひとり娘として、立派な調香師になりたいとエリザは考えていた。けれどこれまで一度も香水を作ったことはなかった。やり方は知っているし、難しい手法でなければ子供でも調合はできる。あとは材料を集めるだけだが、初めて作る香水で父を失望させないか、それだけが心配だった。  黙っていると、甘い匂いにつられて睡魔がおそってくる。綿あめの雲に包まれている気分だった。ふわふわの白い雲とコットンの感触は、少年のまとう香水から連想されたものだ。風呂上がりの石鹸のように優しく、バニラアイスに蜂蜜をからめたような匂いだ。わくわくするような、ほっとするような。甘いお月さまの香りだと思うと、とろとろと瞼が落ちてくる──……。  次の日の朝、エリザは自分のベッドで眠っていた。くじいた足には薬効のある草が巻かれていて、グリーンの匂いがつんと脳まで届く。どうやって部屋まで戻ってきたのか憶えていない。記憶を巡らせ、そのときに思い出したのだ。あの少年をどこで見たのか。ぼんやりした記憶の断片以外にも、エリザは彼を目にしたことがある。それは屋敷の廊下で、額縁に入れられ飾られていた──古びた美少年の肖像画だ。
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