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 そういうわけで、朝からエリザは肖像画と睨めっこしていた。執事のパトリスは話を聞くなり一蹴する。 「三百年前のリシャール公に庭で会うなど、あり得ないことです。見間違いか、夢でも見ておられたのでしょう」 「夢じゃない。たしかに見た!」 「……あるいは、妖精神アレンデルかもしれませんね」 「妖精神?」 「先ほど、ご自身で仰せだったではありませんか。『妖精かと思った』と。近く行われる町の祭典では、妖精神アレンデルがまつられます。ひょっとすると、エリザ様の元にもやってきたのかもしれませんよ。そういうお話があったでしょう? 夜中に起きていると、妖精が懲らしめにやってくると……おや、どちらへ?」 「散歩」 「いけませんよ、屋敷の外は」 「庭!」  足の痛みはひと晩でかなり良くなっていた。巻かれていた薬草が効いたのかもしれない。薬草はもう外したが、匂いはつんと強く肌に染みこんでしまっている。じっとしていると頭痛がしてくるほどの残り香で、エリザはできるだけ速く庭へと歩いた。パトリスはエリザを子供だと甘くみている。馬鹿にしているのだ。昨日見たあの少年は夢でもなんでもなかった。彼を「妖精だ」と思っていたのは小さい頃の話で、今は人間だと確信している。触れあったとき、温もりと心臓の鼓動をたしかに感じた。あれは生きた人間だった。  その日の半分をエリザは庭の探索についやした。怪しい人影はいなかった。通りがかった庭師にも聞いてみたが、誰も見ていないという。香料畑の上から見下ろすと、父のコンサバトリーが陽の光にきらめいている。今日も中は無人だった。最後に父があそこにいるのを見たのはいつだったろう。父は忙殺され、香水に関わる暇もないようだ。町の祭典の日には、ディディエ家も新しいフレグランスを発表する。遠くから客人を招き、庭でガーデンパーティーを催すのが恒例で、そこで父の新作香水をお披露目するのだ。毎年、祭典の日に出される新作がディディエ家の顔となり、当主の実力はそれではかられる。才能豊かな父は例年称賛されているが、その分失敗は許されない。父の抱える重責を考えると、いてもたってもいられなくなる。エリザは庭の奥にある外壁を目指した。レンガ壁の一部を外すと小さな穴ができ、そこから町へ出られる。お祭りをひかえた町には市が立ち、珍しい香料や香水がたくさん売られているはずだった。雲をつかむような人探しより、父にプレゼントする香水に使えそうな香料を探したほうがいい。  壁を抜けると、賑やかな物売りの声が聞こえてきた。真っ先に鼻をかすめたのは、ふくよかなローズの香りだ。街灯の下にピンクの香り袋がつるされていて、そこから漂ってくる。隣の家や川沿いの手すり、街路樹の枝にも、色とりどりの香り袋がつるされている。祭典前になると、町では香り好きの妖精を出迎えるため、あちこちにサシェをつるす風習がある。この時期はすこし歩くだけでも楽しく、町は観光客で賑わっている。歩くたびに違う香りが漂ってきて、エリザは蝶のようにそれらを楽しみ歩いた。華やかなローズ、すっきりしたネロリ、神秘的な夜霧に似たウッドの匂い──めまぐるしく香りに触れ続けていると、鼻が疲れてしまう。市場で香料を見繕う合間に、コーヒーの露店に立ち寄ることにした。麻痺した嗅覚はコーヒーの香りで回復できる。淹れたての炭焼きの良い匂いが露店から漂ってきていた。 「すみません、一杯ください」 「あら。ディディエのお嬢さん。ひとり?」 「はい。父は忙しくて──どうも」 「気をつけて」  ふくよかなおばさんは近所に住んでいるのだろう。エリザのことをよく知っているようだった。コーヒーを受け取り、しばらく歩いてから気づく。お釣りをもらいすぎている。引き返すと別のお客さんが来ていたので、すこし離れて待っていた。おばさんの話し声が聞こえてきた。 「聞いた? ディディエ公の話。夜な夜な娼館で遊びまわってるって」 「遊び好きだとは聞いてたけど、昨日も派手に遊んでたみたいだね。うちの旦那が見かけたって。そういえば、亡くなった奥さんも後妻じゃなかった?」 「そうよ。前の奥さんは身分の低い娼婦だったんだけど、子供ができたって無理やり家におしかけてきて。流行り病で子供もろとも亡くなったって。でも、それにしたってどうだか」 「え、殺されたの?」 「やだ、そんなこと言ってないでしょ。そういえばさっき娘さんが来てたけど、あの子にしたって──」  エリザは静かにその場を立ち去った。お釣りは別の日に返しにくればいい。コーヒーの香りをひと嗅ぎし、飲もうと口をつけかけてやめる。ゴミ箱にそのまま無造作に投げ捨てた。今聞いた話を理解できないほど、エリザは子供ではない。毎晩、父がどこへ行っているのか。ずっと仕事で忙しいのだと思っていた。母以外の人との間に子供をもうけていたことも知らなかった。人混みを避けたくて裏路地へ入っていく。町には用水路や小川がいくつもあり、橋がかけられている。大通りの橋は石造りだが、こうした裏路地の橋は近所の人が作ったもので、適当な木切れだったりする。ぼんやりと、エリザはただ足を動かしていた。暗闇をたたえた深そうな川が流れている。小舟が上流から流れてくるのも見えていた。橋を渡ろうとして、でこぼこした手作りの板に足をとられた。 「ッ、……!?」  落ちる。真下の水面は常闇のように黒い。ぎゅっと目をつむり、着水の衝撃に耐えようとした。 「っと! 危ないな!?」  思っていたよりも柔らかく暖かいものの上に落ちた。クリーミーな甘い匂い。ちょうど流れてきた小舟の上で、エリザは誰かに受け止められていた。目を開くと、庭で会った昨日の少年が思い切り顔をしかめていた。落下の衝撃を殺しきれなかったのだろう。仰向けに寝そべった少年の上に、エリザは倒れこんでいた。 「本当に。お前はいつもこれだな」 「……ごめんなさい」  あなたは誰。どうして昨日の夜、庭にいたの。聞きたいことは山ほどあったのに、先に少年が苛々と言う。 「香水は」 「え?」 「作ってるんだろ? できたのか?」 「まだ……」  ふん、と鼻で笑われ、エリザは言い訳のように口を開いていた。 「考えてはいるの。名前だってもう決めてあるんだから」 「ふん?」 「『ルナ』っていう名前の香水を作るんだ。月みたいにやさしくて、リラックスできる香り。肌になじんで、つける人の肌から良い匂いを引き立たせるように……ただ、材料に悩んでて」  船着き場につくまで、エリザはひたすら香水について話した。そうでもしないとぽろりと弱音をこぼしてしまいそうだった。少年は言葉少なに相槌をうち、時々意味深な笑みを浮かべる。父のことを話すと、時おり嫌悪感と得意さを半々にした顔をするが、なぜかはわからなかった。船着き場につくと、エリザはさっさと船から降ろされた。 「気をつけろ」  遠ざかっていく小舟に、エリザは声をかけようとしてやめた。知らないことは知らないままにしておいたほうがいい。でないと、知りたくないことまで知ってしまうかもしれない。急に暗い顔で口を閉ざしたエリザに、少年は怪訝そうな顔をしたが、そのまま小船で遠ざかっていった。  祭典の日まで、エリザは香水作りにいそしんだ。あらゆる香料を試したが、納得のいく仕上がりにはならなかった。何度か、夜遅くに帰宅した父と顔もあわせた。香水作りを教えてほしいとねだってみたが、答えはあっさりとしていた。 「そんなことより、礼儀作法を勉強しなさい。将来、ディディエ家の令嬢として、良い人を迎えられるように」  穏やかな声だったが、父は明確にエリザの調香師への夢を否定した。誰か優れた調香師を跡取りに迎えようと考えているらしかった。エリザには期待していないのだ。なにもかも停滞した日々のなか、エリザは時々あの少年の肖像画を見に行った。町で会ったときから、彼に会うことはなくなっていた。本当に妖精か幻だったのかもしれない。思わずそう考えてしまうほどエリザの心は弱っていた。
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