鰐時雨

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雨が、シトシト降っている。 秋の終わりから冬にかけて降る通り雨を時雨というらしい。 降ったり止んだりを繰り返す時雨は、この1週間毎日降り続いていた。 鞄の底から折りたたみ傘を取り出して差す。神出鬼没のこの雨も用意周到な私の前では、無力だ。 「時間通りね、シブヤ」 私は街灯の灯に照らされて、暗がりから目の前にずりずりと、這い出てきたそれを見下ろす。 「ここ、アンタの棲家でしょう、都市伝説の白いワニさん」 コン、コンとハイヒールの踵を真下のマンホールに下ろす。 十字路に横たわる非現実的な怪物。 平たい身体を覆い尽くす硬い灰白色の鱗が、雨に濡れて僅かに艶めく。 無感情な爬虫類の目。 シブヤが何を考えているのかわからない。 見つめ合って数秒、ワニの身体がぶるりと震えた。メキ、メキ、メキ、メキと、内側に凝縮するように、鱗が裏返り人の骨が、筋肉が、皮膚があらわれる。 その見事な変身に、呆気にとられそうになるが私はハッと我に返りスマホのカメラを構える。 刹那、バシンッと凄まじい勢いでスマホは叩き落とされた。 すぐにはわからなかったが、恐らくシブヤの尻尾だった。 「6000円ぽっちじゃ、写真は撮らせてやれねえな」 尻尾がしゅるりと後退すると、いつのまにか人型に戻ったシブヤがゴキンッと首を鳴らし私を見据えていた。 「いつから気づいてた?」 「最初からよ」 本当に最初からだった。佑二から写真を見せられた時、ワニの半身を拡大して見ながら、私は既視感を抱いていた。 脇腹の鱗が2枚剥がれている。 昔これに似た痕をどこかで見たことがある。 そして、思い出した。 以前コートを探すのを手伝ってくれた、渋谷のバーの男のことを。 5年前、小雨の降り頻る中私は公園の手すりに掛けたまま忘れてしまったロングコートを探していた。 本当は、もう使わないものだった。 忘れた、と気づいた時は一度これを機に過去の自分ごと捨ててしまおう、そう思っていたのに、一歩進むたびに後悔はどんどん増してきて気づけば、元の場所へ戻ってきていた。 でも、そこには既にコートは無かった。 人に尋ねる勇気もなくて、街中を探す。もちろん見つかるわけがなかった。 そんなくさくさした気持ちを忘れたくて、入ったのがあの場末のバー。 ヤケクソそのまんまに、隣良い?と近づいてきた普段は取り合わないようなナンパ男とも話した。 「そのコート、俺が探してやるよ」 コートの特徴、無くした場所を聞くと、シブヤと名乗った男は半信半疑の私を連れ出し、スイスイと人混みの中を歩いて行った。もしや仕組まれていたのか、そう思う程あっさりとコートは見つかった。 でも、 「あのオッサンが使っちゃってるけど、それでもほしい?」 私のコートは見知らぬホームレスに羽織られていた。それでも、あれだけ長年愛用したコートだ。もう手放したくはなかった。 頷く私にふーん、と呟くとシブヤは、着ていたパーカーをガバッと脱いだ。驚く私を余所に、彼はホームレスにズカズカと近づく。 「オッサン、これとそのコート交換してくんね?それ俺の友達のモンなんだわ」 私はその様子を遠目からハラハラしながら見ていた。しばらくして、上半身裸のままのシブヤが戻ってきた。 「やー、マジごめん、交渉決裂。俺の服まで取られた」 そう言ってゲラゲラ笑うシブヤ。体に降り注ぐ冷たい小雨など気にしていない。彫刻みたいに綺麗で筋骨隆々なその体の一部、脇腹にグロテスクな皮の剥がれたような痕があった。
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