序章

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 ふと、か細い悲鳴が聞こえた気がした。  男は酒が入ってご機嫌な身体(からだ)の足を止め、周りを見渡した。さっきまで呑んでいた屋台が店仕舞いをしている所だった。屋台の主人と目が合うと、主人は別れの挨拶と思ったのか「またな、旦那」と屋台を引いて去っていく。男は返事の代わりに軽く手を上げた。  止めていた足を進め、橋を渡っていると、橋下から二つの音が耳に入った。  先程の悲鳴はこれだろう。  しかし、間に入り助けようなど、この男は微塵も思わなかった。  襲われている誰かは隙があったのだ。隙を見せたから襲われている。それは本人の危機管理不足で単に不幸で、それまでの人生だったのだ。明日の朝には死体で河に流されているか、河原で死体になって転がっているか、だ。  男は橋の下で行われている行為に興味を示さず、その気配だけを感じながら橋を渡った。    ――ブワッ。    橋を渡り終わり、右へ曲がった数歩先。  突然、強い風が吹いた。その一瞬、砂が目に入りそうになり、それを避ける為に目を閉じながら男は顔を背いた。  その閉じる一瞬の視線の先は、橋の下の二人がいる場所だった。  大柄な男に組み敷かれた相手の足が見えた。  暗闇で、しかも橋下でここより暗いというのに、はっきりと白く浮かんで見えたのだ。  細い、小さな足だった。  あれの年齢は、自分よりもうんと下だろう。  男は目を閉じたまま、眉間にシワを寄せ鼻先を掴む。嫌なものを見てしまった。  十歳の頃、幼い俺に母親の恋人が馬乗りになり、下半身を剥き出しにされ、小さい自分のモノを扱き、舐められ、吸い上げて、自分の倍はあるモノで無理矢理躰を抉じ開けられた、忌々しい記憶が瞬時に甦った。  当時の記憶は、自分の人生の中で最大の汚点だ。弱く、泣きじゃくるだけで何も出来なかった。三つ上の兄が助けに入らなければどうなっていたかも分からない。 (橋の下の餓鬼はあの時の俺と同じくらいの年齢だろう)  見なければ助けるつもりなど、一切なかった。  他人に興味など湧いた事がない男だ。  一瞬、視線の先にあった白い足が大人のものだったら、助ける気など一切湧かなかっただろう。  眼を見開いて。  目指すは、バタバタと動くその小さな足。次に大柄な男の背中である。  その端正な顔を歪め――腰元の刀に手をかけた。  刹那、この地に男の姿はなかった。
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