序章

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  ※  突然、大柄な男は糸が切れたように――篠 雪(しの ゆき)の上へ倒れ込んだ。  ヒッ、と両腕を前に出し、両目を閉じた雪だったが、倒れ込んできた男の体重を一向に両手に感じないまま、身が軽くなるのを感じた。  ドサっと自分の横に何かが倒れる音がした。 「汚ねぇもんぶら下げやがって。これが腹上死だったら良かったのになぁ。あ、でも死んだ事にさえ気付かなかっただろうし、おっ勃てたまま、女の腹の上で斬られたんだから、ある意味……腹上死か……?」  ブツブツ喋る男の声がする。  その声は低く、大柄な男が発していた濁声とは違い、心地良かった。やけに腹に響く気がしたが、雪はそれがなんなのか、全く分からなかったが、突然もう一人増えた事により恐怖が増して、それどころではなかった。  目を閉じたまま、身を起こす。立ち上がろうとしたが、腰が抜けているようで、座り込んだままになってしまった。  早く逃げなければ、と思いつつもこの調子では、逃げられそうにない。二人の男に押さえられては、逃げられる筈がない。  絶望していると、目の前に気配を感じた。先程聞こえた声の持ち主が、目の前に座り込んだようだった。  男の手が、頬に触れる。  殴られる、そう思って力一杯歯を食い縛るが、その気配はなく、先程殴られた頬に触られただけだった。  一瞬、気配が消えバシャバシャと水の音がしたかと思えば、その気配はまた目の前に現れ、濡れた手拭いで殴られた跡を冷やしてくれた。 (殴らないの……?)  不器用ながらも、その手は優しく、殴られた頬に、切れた唇の端をゆっくりと冷やしていく。  自分に危害を加えないかも、と思うと雪は恐る恐る目を開いた。  目の前の男と()が合った。 (――生まれて初めて、綺麗な顔を見た)  お互い、同じ瞬間にそう思った。  ――と言っても、雪は十三年しか生きていないのだが、それでも、これまでの人生の中で、こんなにも綺麗な顔の男を見た事がなかったのである。  眉と瞳と鼻と唇と、額に顎に頬、とにかく作られたように綺麗だった。その反面、伸ばされた指先は、男性らしくごつごつとしていたが、それも魅力だった。  ほうっと見つめられている男……雪を見つめている男も同じ事を思ったわけだが、男は雪より十二年長く生きていて、女は腐る程見てきたにも関わらず、同じ事を思ったのである。  お互い見つめ合っているなど、微塵も気付いていなかった。 (――これは、将来美人になるな……)  男の率直な意見だった。幼いながらも、へんに色気がある。  溢れんばかりに見開いた瞳は、恐怖が浮かびながらも、綺麗に長い睫毛に縁取られていた。涙が浮かんでいたせいか、睫毛が輝いて見えた。  その唇はふっくらと吸い付きたくなるほどの綺麗な形で、口紅を施していないにも関わらず、ほのかな桃色。そこから微かに覗く白い歯と舌は、思わず舐め回したい、吸いつきたいと男に思わせてしまう程の魅力を感じてしまうのは男として致し方ない。  胸は膨らみ始めたくらいで、膨らみが横に広がっていた。  この胸を、一晩中揉みしだいて、育てあげたい。 (――あくまで、俺以外の男なら思うだろうがな)  男はこの容姿で女に苦労した事は一切ない。  まして、大人の女と遊び呆けても子供に手を出すような畜生ではなかったし、子供相手に興奮するような男を自分の経験から毛嫌いしていた。  その筈なのだが。 「痛いとこはないか?」  黒い瞳に真っ直ぐに見つめられ、雪は一瞬戸惑ってしまった。  じっと見られており、再度同じ質問を投げかけられて、自分の事を訊かれてると気付いた雪は激しく頷いた。  京はふっと笑い、その表情も綺麗だと雪は思っていると、男からはだけた胸に手を伸ばされた。先程の男に体を弄られた事を思い出してしまい、思わず手を払い退けて後退った。  その払い退けた手の甲に爪痕をつけてしまい、もともと色白の顔色を更に悪くした。 「ご、ごめんなしゃっ」  あの大柄な男に抵抗する過程で爪が男の顔を傷つけてしまった時、その後顔と腹を殴られた事を思い出す。  さっきまで綺麗だと思っていた男が、一瞬で恐怖の対象になった。  青褪め、ガタガタと震えた。 「言うこと聞くから、いたい事しないでっ……ごめんなさい、ごめんなさいっ」  グズグズ泣きじゃくった。その後何を口走ったか、雪は覚えてはいなかった。  目の前の男は無言で少女を見つめるだけだった。  頭を下げて、しばらく泣きじゃくっていたら、また鼻で笑われる。 「悪い事してねぇんだから、謝る事ないだろ」  予想外に落ち着いた声音が耳に入って雪は思わず男を見上げた。  それは慈愛に満ちた温かい笑顔で、雪はそんな表情を向けられたのは初めてだった。  男は、無意識だった。 「ほら、前が見えているから着物を整えな」 「あっ……」  脇の間に手を挟まれて、無理矢理立たされたかと思うと、崩れた着物を素早く整えられ、あっという間に剥がれた帯も綺麗に結ばれる。  半分脱がされていた着物が嘘のようである。 「脱がすのも得意だけど、その逆もできるんだよ」 「……?」 「……忘れてくれ」  男は(かぶり)を振り、それから少女の涙を指で拭った。  雪はもうその手を怖いとは思わなかった。 「年齢は?」 「十三歳……」  十三歳にしては、幼い。童顔で小柄だからそう思うのだろう。 「名前は?」 「篠、雪……」 「雪ね。俺は久賀(くが) (きょう)」 「くが、きょう……久賀様……」 「様はいらねぇけど」 「久賀、様」  雪は、はにかむように笑った。  その瞳からは先程の恐怖は消えていて、それを見た京は胸を撫で下ろした。 (この笑顔の方が、可愛いら――)  男は身動きしなくなり。 (ん???? なんだって???) 「久賀様」  名前を呼ばれて、雪を見れば、「助けていただいてありがとうございました」と彼女から頭を下げられた。  だから様はいらない、と言って京は笑った。先程の疑問は隅に追いやって。  京は咳払いをすると、 「どこから来た?」  と投げかける。  人攫いにあったとしたら、親元に返してあげなければならないからだ。 「あっち……」  指を差した方を見れば、その先は灯りが浮かんでいた。  この寝静まった場所とは大違いだ。その筈、あの先は夜の街……遊郭がある。  通りで、と京は思った。まだ幼いながらも色気があるし、仕草も洗練されていた。その色気はあっちで仕込まれたからこそ、本来の美貌とその色気が合わさり、妙な気持ちにされるのだろう。 (そうに違いない) 「その男に買われたのか?」  コクコクと雪は頷いた。 「屋敷に連れて行くっていわれて……」 「身請けされたのか?」  京は雪が頷くのを見て、思案気な表情を浮かべた。雪は顔が整っているから十五歳で客を取らされる留袖(とめそで)新造(しんぞう)ではなく、十七歳で客を取らされる振袖(ふりそで)新造(しんぞう)に違いない筈だが……どちらにしろ、十三歳という年齢で身請けをされるのは、まだ早過ぎる。もしや……大見世ではなく悪環境の小見世か切見世に居たのではないか? 「見世は何処だ?」 「大福屋です」  京は眉間の皺を一本増やした。大福屋は花街の一番奥に見世を構えており、最高位の大見世だ。 (そんな見世が幼い雪に客を取らせていたのか?) 「客を取ってたか?」  何故だか。自分で質問しておいて、苛々し始めていた。雪が首を横に振ると、ホッと息を洩らす。どうやら、不特定多数の男に抱かれていないらしい。 (で? だから???? ん???)  京は自分の思考に追い付けずにいた。 (いや、雪はどう見てもまだ幼く客をとってはいけない年齢だ。そんな雪が売り物にされておらず、ほっとしただけで……) 「この男に、最後までされたか?」  はて。  何故、そんな質問を唐突に投げたか分からなかった。無意識に訊いていたのである。  疑問符が飛び回り心中穏やかじゃない。表情には出さなかったが。 しかし、己の発した声の冷たさに、京は自分自身で驚いてしまった。  内心の焦りと、それを超えそうな怒りを抑えながら雪を横目で見ると、雪はゆっくりと頷いたのである。  それを見た刹那、納めた刀を抜き、足元に転がっている男目掛けて刺していた。丁度、股間の場所を。  それを見た雪はビクッと肩を揺らしたが、それ以上怖がる事はなかった。京が突然、動いた事に驚いただけだ。  目の前で斬られた死体を見て、怖がった様子を見せない雪を不思議に思いはしたが、京は今それを疑問に思うほど暇ではなかった。  それを考える暇があるくらいなら、この、腸が煮え返る程の苛立ちと絶望感と、焦燥感と――これらに隠れている()()について、考えてはいなかった。 ぐるぐると巡る妙な感情に支配されながら、立ち尽くしていれば、袖を引っ張られる感覚に意識を取り戻す。その袖の先に、小さな手があった。その手を辿っていけば、愛くるしい唇が目に入り、綺麗な瞳が自身を映し出している。 (可愛いな……)  今まで他人に感じた事のない感情を心の中で呟いたなんて、今の京は気付く事などなかった。 「わたし」  雪の声が震えている。ふるふると震えている様子は、雨の中捨てられた仔猫のようだった。フト、京の脳裏にうんと幼い頃に拾った仔猫が思い浮かぶ。 「ゆっくり、喋りな」  恐ろしい程、優しい声音だった。勿論、今の京には気付きようもない事である。 「わたし、あそこに帰りたくない……!」  雪は力一杯叫んだつもりだったが、声が掠れてしまった。  辛かった記憶が蘇る。涙は止め処もなく溢れ、しゃくり上げながら泣いていると息をするのが苦しくなった。上手く喋る事が出来ない自分に嫌気が差して俯いた。  初対面の男性に助けを求めるなど、どうかしている、と雪は思った。しかし、生まれて初めて、優しくされて絆された。雪にとって男性とは、恐怖の対象だったからだ。  上手く息が出来ずにいると、その俯いた顔を京の掌が両頬を優しく包み込んだ。  そのままそっと持ち上げ、京は雪の目から零れる涙を労るように親指で拭った。雪は不思議と呼吸が上手く出来るようになっていた。  雪はいまだ涙で浮かんだ瞳で京をじっと見つめた。目が合った瞬間、京はそれは蕩けるような笑みを浮かべた。 「うちにおいで」  京は頬から手を離し、雪に右手を差し出した。   男の表情は本当に優しかった。その表情を見て、雪は花が咲くように頬を緩ませる。橋の下で月光は僅かしか差さず、橋上の行燈の灯りも心無い明るさだというのに、彼女は光り輝いて見える。  京はそれが眩しくて目を細めた。  雪の指先が京の手に触れる寸前に、男は左手で雪の手首を性急に掴み取ったのだった。
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