第一章

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「おはようございます!」  鈴を転がすような声が元気良く響き、居酒屋『太助(たすけ)』の戸が開いた。中にしまった暖簾の下を通って入ってきたのは、灰色の甚平を着た可愛らしい少年だった。  太助の店主である馬原(まはら) 由希(ゆき)は今晩、店で出す料理を仕込んでいた手を止め、玄関先を見た。  玄関先に立つ少年は背中と腰に風呂敷包みを巻き付けていた。風呂敷がパンパンに膨れ上がっており、その細い身体には重そうだ。  もう少し頬に肉が付くと健康的に見えて女の子と言われても誰も疑わないだろう。ただ残念なのは髪の毛がざっくばらんに短く切られており、右耳だけ髪で隠れているが左耳の横髪は短く、前髪は額の三分の一まで切り揃えられており、この髪型のせいで可愛い顔に目がいかず、どうしても髪に注目してしまう。  この愛らしい少年は――一カ月前に京の手によって今の髪型にされた篠 雪だった。  雪を身請けした男が殺され、その身請けされた雪があのまま姿を消した事が分かれば見世の若い衆が捜索すると京には分っていた。そこで捜索が始まる前に対策を練る事にした。それは雪の長い髪を切り、男装させる事だった。それが功を成したのか、追手らしい者は見当たらなかった。 「ゆき君、おはよう」  雪は再度「おはようございます」と返す。  雪は背中と腰に巻いた風呂敷包みを机に置いた。 「すごい荷物ね。どうしたの?」 「由希さんの元へ辿り着くまでに、米屋の石さん、八百屋の八重さんや魚屋の仁さん、豆腐屋の蔵さんに余ってるからって貰いました」 「短い距離の間でそんなに貰ったの……」 「お金を払おうとしたら……売れなかった余り物だから貰って欲しいって」  雪は風呂敷包みを解くと、どう見ても新米、新鮮な野菜と魚、厚揚げに豆腐がある。  商売繁盛な店だし、余り物には見えなかったが、由希は何も言わなかった。  雪が名前を挙げた四人は太助の両隣と向かいにある店の店主の名前である。最初はその髪型にばかり目が行って、よそ者だった雪に余所余所しかったがそれも最初の一日間だけでそれからはどうも雪を可愛がっている節がある。自分らの孫の年齢と近いからか、ある意味有名人である京を甲斐甲斐しく世話をする雪を見て思う事があったのかもしれないし、雪の笑顔に心を打たれたのかもしれない。しかも可愛いだけではなく、非常に素直で性格が良いのである。髪型に目が行ったのは最初の一日だけで二日目にはその可愛らしさに心優しき老人達は虜にされていた。  今の所、雪は周囲の人間から女の子だとバレてはいないが、雪から醸し出される柔らかな雰囲気は隠しようがなかった。  由希は包丁で食材を切るフリをして、目の前の雪を盗み見る。 (あの京が、この子を拾ってきた時は正直驚いたけれど)  風呂敷の中身を見て何か考え事をする雪を見つめながら、由希は京が彼女を連れてきた日の事を思い出した。  ――一カ月前。  赤ん坊の頃からの付き合いである、幼馴染の京が開店前の太助へ顔を出した。 「子供を助けた」  詳しく訊けば男に襲われている所を二日前に助けたのだという。耳を疑い、聞き間違いかと思って由希は聞き返してしまった。  他人を助けるような男ではない。幼馴染という長い付き合いだから知っているし、抱いた女の遍歴だって知っている程だ。まぁ、下半身がだらしない事は有名な話だから誰でも知っている事ではあるが。  誰も知らない事と言えば……基本自分が良ければ良いという男だから、相手の都合など知った事ではない。だからこそ平気で嘘を吐くし愛してもいない相手に愛を囁く事が出来る。嘘だと分かればそこで修羅場が起きるが、そんな事は決して起きない。自分が刺されないよう、女を操り、自分と縁を切るように誘導するのだ。そして女はまんまと騙され、去って行く。大抵そうされた女は、ほぼほぼ京に躰以上の関係を迫ったのが原因だった。  襲われている所を助けた、なんて聞き間違いかと聞き返しはしたが、イラっとされた表情をされた。嘘を吐かないで良い相手には本当に分かりやすい男なのだ。 「もしかして助けたのって京の過去が原因——」  更に睨まれ口を噤んだ。  この話は由希と京との間では禁句だが、それしか思い浮かばなかったのだ。  睨まれたままでいると京の背中から顔を出し、由希は灰色の甚平を着て、へんてこに切られた髪の少年を見て息を飲んだ。  どう見ても鋏で雑に切られたような髪にも驚きはしたが、その顔は非常に可愛らしい。綺麗な二重で男の子にしては睫毛が長く、顔立ちが整っている。近所の同じくらいの男の子でこんなに綺麗な顔立ちはいなかった。 「まさか男の子に走ったの?」 腰元の刀に手が伸びる。 (しまった、言ってはいけない言葉だった)  この男、過去の事が原因で男色を毛嫌いしていた。自分を助けてくれたという兄が何の因果か男の恋人を作り、城下町で仲良く同棲している。それが原因か恩人であるも関わらず三歳上の兄が嫌いなのだ。  刀を抜こうとしたが、背中から顔を出した少年が口を開くと、京は刀から手を離した。 「わた……っと僕と同じ名前だと聞きました」 「あら。ではあなたも『ゆき(・・)』?」  目線を合わせる為に、中腰になり、雪と視線を交わす。  近くで見れば見る程女の子のように思えた。 (声変わりがまだだからそう思ってしまうのかな) 「はい! 久賀様のおうちは由希様から借りているとお聞きしたのですが、僕も住んで良いですか?」 「えぇ。駄目な事なんてないもの。ふふふ、様はいらないわ。折角同じ名前だもの。自分の名前を呼べるなんてそうそうないわ」  微笑んで見せれば、雪は頬を染め、 「由希さん」  と戸惑いながらも、照れながら言った。 (なんだろう……妹……? 弟……がいたらこんな気持ちになるのかしら……)  胸に愛しさが広がった。  由希は頭上に視線を感じ、京を見たが、その視線はどこか遠くを見ていた。 (見られていた気がしたけど……気のせいかしら) 「俺の世話係として置くから」 「世話? 京の?」 「俺以外の誰を世話させんだよ」  また顔を歪ませる。本当に今日は機嫌が悪いようだ。 「僕、お掃除、お洗濯、お料理、得意です! 力もあるんですよ」  雪はニコニコと力こぶを作って見せてくれた。  どうやら、頼りないと思われたと思ったらしい。細い腕にはどう見ても力があるように見えなかったが、頑張ろうという健気な姿は見えた。  その細い腕は、男に組み敷かれたら抵抗できるような腕には見えない。 「もう少し太らねぇとな。力も出ねぇよ」  京は雪の髪をくしゃくしゃに搔き乱した。二日前に助けて貰ってから、雪の中で京は自分に危害を与えない人間だと分かったので京が手を振りかざしても殴られるとは思わなくなっていた。  二人がじゃれているその姿を見て、由希は不安にかられた。  由希にとって、久賀 京とはこのように、子供相手にじゃれるような男ではなかった。過去の出来事のせいで男色が嫌いだが、子供も同様に嫌いなのだ。 いくら気紛れで助けたからといって……世話係として置く筈がない。この男は、基本何でも一人で出来るのだ。しかも、自分の領域に他人を入れるのが嫌いだ。幼馴染で――体の関係を他の誰よりも長く持ち続けている自分でさえ、かつての自宅を貸していても、寝室に入れてもらった事はなかった。 (まさか本当に――) 「惚れてしまったの?」  思わず口に出してしまい、咄嗟に口を右手で塞いだ。 「———は?」 どうやら聞こえていたらしい、京が雪の頭を撫でながら由希を睨みつけた。 (いや、その手の優しさと、その瞳の温度、全然違うから……!!) 「ちげぇし」  京は否定の言葉を吐く。雪は二人の会話が聞き取れず、京と由希を交互に見ていた。  不思議そうに見上げる雪へ笑いかけてから幼馴染を見ると、その瞳には明確な嫌悪感が浮かんでいる。  子供は嫌いだが、その嫌いな子供に無理を強いる大人を京は毛嫌いしている。  しかし、京が否定すればする程、妙に勘ぐってしまうのだ。  この嫌悪は、京自身に向けられているのではないかと。 「——由希さん」  名前を呼ばれ、由希は考える事を一旦止めた。   「今夜は焼き鯖に豆腐の味噌汁が作れますね。久賀様は鯖はお好きでしょうか?」 「えぇ。好き嫌いはないはずよ」  では、今晩は焼き鯖にしよう、と雪は言った。  その横顔を見ていたら、由希は罪悪感に押しつぶされそうになった。 (やっぱり……駄目だ) 「いえ、そういえば鯖苦手だったわ。においが嫌いって言ってた」
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