第一章

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 由希がそう言うと、雪は残念そうな表情を浮かべた。そして晩御飯をどうするか、再び考え込んだ。 (この子は凄く、良い子だ。この子に嫉妬するのは間違っている。京は遊んではいるけど、妙なところで潔癖な男なのだ)  自分と重ねてしまった子を助けた、助けたその子が凄く良い子で絆されただけかもしれない。だからこそ世話係で置いているのだろう。近所の人達が、絆されたように。 (あの男にも人を慈しむ心があったのだ)  ※ ※ ※  炊き立ての白米に、きゅうりの漬物、豆腐の味噌汁、生姜のきいた油揚げと大根の煮物。そして焼酎。それが昨日の夕餉(ゆうげ)だった。  今朝は、米、きゅうりの漬物、豆腐の味噌汁、焼き鮭。 一昨日の晩もそのまた朝食も米、漬物、味噌汁、おかずと必ず四品、夜は必ず酒がついてくる。  不思議な事に食費は渡しているが、減った様子がなかった。酒代くらいしか減っていない。 「おいしいですか?」  不安そうに訊ねられて、正直に美味しいと答えれば、ぱぁっと笑顔を向けられた。  美味しいし、喜ばれれば、普通におかわりするだろ。  ニコニコとご飯を茶碗によそいでもらえれば食べるし、雪の食事が一向に減らずに気になって食べるように促すが、自分が食べる半分の量でさえ多いようだった。通りで一向に肉が付かない筈だ。  追手から逃れる為には女らしい体つきになっては困るのだが、正直なところ、追手の事は京が秘密裏に対処しておりその心配はないのだが。 ※ 「――太ったか?」 「ごほっ」  京は縁側に座り、雪から握ってもらった握り飯を頬張っていた為、口から思わず吹き出しそうになってしまったが、寸での所で堪え、咳き込みながらもどうにかして飲み込んだ。 「太っただろ?」  と、再度訊いてきたのは、京の九つ年上の兄、一条(いちじょう) 隼馬(しゅんま)だった。十三年前に一条剣術道場の一人娘と結婚し婿養子として籍を入れた為、苗字が違うのである。  此処は、隼馬が師範を務める道場と同じ敷地内にある兄夫婦の自宅の縁側だった。そこに弟である京は腰かけ、握り飯を頬張っていた。 (人の後ろをそのまま大人しく通り過ぎていけばいいものの) 「太っただろ」 「同じ事を何度も聞くなよ、うっとおしい」 「顔が少しふっくらしてきたな。健康的な太り方だ。結婚するのか?」 「なんでふっくらしたくらいで結婚に結び付くんだよ」 「幸せ太りか?」 「俺の質問に答えろよ」  苛々しながら答えるも、隼馬はそれを知ってか知らずか、顎に手を当てながら縁側に座る京を見下ろして考え込むような仕草をした。  隼馬は京とは種違いの兄弟だが、お互いの父親が血の繋がった兄弟だからか顔の作りは似ていたが、中性的な京に比べて隼馬の方が骨が太い。  目も弟同様切れ長ではあるが、兄の方が鋭く、癖なのか眉間に皺を常に寄せている為、睨みつけているような表情である。 「顔だけではなく、腰回りも太ったか?」 「考えていたと思ったら、でてきた台詞はそれかよ」 「ふむ」と隼馬は頷いて見せた。 「ここ最近、握り飯とお茶を持たされているだろ。他人が握った飯なんて食えない、板前じゃない奴の飯は食えたもんじゃないと、わぁわぁ喚いていたお前が、握り飯を食っている。神経質で性格が捻くれたお前が太ったなんて、心を許した女が出来たに違いない。その握り飯の女から毎日食事を作ってもらっているんだろ。だからお前は太った。その女の作る飯が美味くて」  珍しく的を得ていて驚いたが、京は勿論顔には出さなかった。顔に少しでも出れば「会わせろ」と言ってくるに違いないし、自宅に押し掛けてくるのは目に見えていた。  男にだらしなく育児放棄した母親の代わりに二人の弟を育てたのは、この男、隼馬だった。幼い弟二人を抱えて、道行く女性にまだ乳飲み子だった京を育てる為に片っ端から母乳を強請り、また次男に飯を食わせる為に一軒一軒頭を下げて乞食をした。弟二人を立派に育てたのは隼馬である筈なのに、弟二人は兄からの的外れで時には斜め上の好意を迷惑がっていた。  隼馬は弟達に結婚をして欲しいと思っていた。ふらふら遊び歩いている三男坊が所帯を持てば落ち着くだろうし、ろくな親に育てられなかった三兄弟ではあるが、それでも家族を持つ事は許されているのだと、弟に妻と子供を持って家族という幸せを知って欲しいという兄心だった。しかしその気持ちは京にとって迷惑そのものだった。雪だけは特別に許可しているが、他人を自分の領域に入れたがらない男だ。女と一夜を共にするのは性欲が発散出来て良いだけであって、一晩だけの関係だ。自分の性欲が満たされれば、それで良い。そこに心を決していれたくなかった。三兄弟の真ん中も隼馬から結婚を催促される事を迷惑がっている節があり、滅多な事がない限り顔を出さないのである。しかも次男の恋人は同性である。女性と結婚をする気はないと言う。 「相手は分かっている。由希ちゃんだろ」 「なんで知ってんだ?」  聞いたところで、しまった、と京は思わず舌打ちをした。  雪を知っている筈がなかった。家から離れた場所へは外出を許可していないのだ。  ゆきはゆきでも、幼馴染の由希の事を隼馬は言ったのだ。  しかし、京の先程の発言のせいで、更に誤解を招いてしまった。  朴念仁の兄が嬉しそうに笑うのを、京は苦虫を潰したような表情で見上げた。 「好き嫌いの激しいお前が唯一付き合いが長いのは由希ちゃんだ。彼女もお前の性格は知っているし、昔からお似合いだと思っていたんだ。遂にお前は決心したんだな」 「何も決心してねぇよ」 「ふらふら遊びまわって、定職にも付かず、昔馴染みの者から紹介されたきな臭い怪しい仕事をしているようなお前が、うちの道場を手伝いたいと言ってきた時は槍でも降るんじゃないかと思ったが、太ったお前を見ていると、将来結婚するつもりだから、腰を据える為に働こうと思ったんだろ? いつも俺の誘いを断っていたというのに、自分からお願いしてきたんだからな」  いつも以上に口数が多く、常に不愛想な顔のくせに今日は気持ち悪いほど上機嫌である。 (こっちの方が、槍でも降ってきそうという表現が合うじゃねぇか) 「太るのも大概にしとくんだぞ」 「良いからその話から離れてくれ。ついでに結婚の話からも」 「明日結婚するか?」 「話が飛びすぎだろ」 「挨拶が先か。でも親御さん、亡くなってたよな。葬式に出たな」 「頼むから俺の話を聞けよ」 「そう言ってすぐ刀を抜こうとするのはお前の悪い癖だぞ。しかし残念だな、今は胴着を着ているから差しているのは木刀だ。こら。木刀を触るのはやめなさい。お前の悪い所は暴力に訴えるところだぞ」 「人の話を聞かないのも悪い癖だろ」 「そうか?」と首を傾げられた。隼馬は弟の性格は把握できても自身の事は何一つ把握出来ていないのである。  それに対して苛ついても疲れるだけだという事も、京には分っていた。 「しかしだ。最近のお前は大人しい。誰かの影響を受けたに違いない。良い傾向だし結婚しよう。こうして由希ちゃんの作る飯が食えるようになったんだぞ」 「それとは関係ねぇよ」    敢えて、違う雪ではあると訂正はしなかった。
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