第一章

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 隼馬から道場を手伝うよう言われており、断っていたものを急に受けたのは、雪と離れて過ごすのを極力避ける為だった。昔の仕事を受ければいつ帰って来れるか分かったものではないし、断っている始末だ。別に自分がしなければならないものでもなかった。  家に帰れば、美味しい飯がある。その飯以外食う気は起きなかった。京はこの一カ月で胃袋を掴まれていたのだ。  他人の作る飯は食えないと、確かに昔喚き散らかした。本当の事である。  しかし、雪の作る飯だけは胃に入れる事が出来るし躊躇もしない。自分で作る飯よりも遥かに美味かった。見世で作らされていたのかと訊ねたら、酷く悲しい顔をされ、それ以上訊き出せなかった。  自らの領域にも入れ、部屋の掃除も許している。私物に触られても腹も立たない。  自分の知らない者と住んでおり、身の回りの世話なんてさせていると知られれば、有無を言わせず押し掛ける。  それが十三歳の少女――男装させている雪を見ればなんと言うか分ったもんじゃない。  あの性格である。人の話を全く聞かない。鈍い男だから、性別が女だと気付く事はないだろうが……。 (と言っても……)    雪を傷つけたくないからなのか、男に会わせたくないのかは判別ついていなかった。 「――終わったら、一緒に由希ちゃんに挨拶に行こうな」 「行かねぇからな」  この話を切上げようと立ち上がると、道場へ向かった。隼馬もその後に続いた。 「本当に行けば俺は二度と道場に顔を出さねぇからな」 由希の所へ行かれれば、下手すれば雪と鉢合わせしてしまう。隠している意味がない。 「それは困る」  隼馬は唸る。  京は十二の頃に腕の立つ男と修行の旅に出ると言ってこの町を出て行き、三年前にふらりと帰ってきた。その間に鍛え、免許皆伝を授けられたようだった。ただ強いだけでなく、子供に教えるのが非常に上手いのである。  大人は殺そうとしてしまうが……子供相手には手加減をする。俺の息子の(はじめ)に対して心なしか表情が柔らかいのだ。  ……しかしそれは隼馬がそう思っているだけで実際は違うという事だけは言っておかなければならないが、京は子供相手だろうがボコボコにする大人げない男だ。 「あ」と隼馬が道場に入る手前で立ち止まり、空を見上げ、京も思わず道場から顔を出し空を見上げた。  今にも降り出しそうな空だった。 「……道場、蒸れて暑いから帰って良いか? 野郎ばかりだし汗臭い。それに傘を持ってきていないし」 「馬鹿な事を言うな。雨が降ろうがあるものはある。野郎といっても子供だろう。お前は子供好きだろう」  変な誤解をしている兄を弟は睨みつけた。 「ぼうっとするな。行くぞ」    隼馬は、ずかずかと道場に入っていく。  ぼうっとしていたのは、お前だと喉まで出かけたが言えば面倒な事になるのは目に見えた為、京はただその言葉を飲み込んだのだった。 ※  自分の屋敷の前で同じくらいの年の子供が傘を差して立ち尽くしていた。 (年下かも?)  道場の志願者かと思ったが、片手には閉じられた傘が握られていた為、兄弟の誰かの傘を持ってきてあげたのだろうと推測できる。  門下生ではないから入りにくいのか、中に入ろうか悩んでいるように見えた。  声を掛けたが、雨の音で聞こえないのか反応が返って来ず、一条 肇は肩を叩いた。  そこまで強く叩いたつもりはなかったが、飛び上がる程驚かれてしまい、肇までビクッと驚いてしまった。 「ごめん、驚かすつもりなかっ」  肇へ振り向いたのは、へんてこな髪型をしている男の子だった。  つい髪に視線が行きがちだが、父親からの「人と話すときは目を見なさい」という教えが功を成したのか顔を見て、肇は目を見開いた。 (……男? だよな???)  女の子のように色白で、肇は思わずドギマギしてしまった。寺小屋の女の子にこんなに可愛い子は居ない。  つい、自分より少し背の低い相手をじっと穴が開くほど見つめてしまった。 「えっと、ごめん、僕、傘を持ってきたんだ」 (僕……という事は男の子だったのか)  何故だか落胆してしまう。 「もう終わると思うから、入って待ってたら?」 「勝手に来ちゃったから……怒られるかもしれないし」 (兄弟なら喜びはするし、怒らないとは思うけど?)  不思議に思い、また喋りかけようとしたが、玄関の門が開いた。 「肇さん、玉子もらってきましたか?」    顔を出したのは肇の母親である文枝(ふみえ)だった。 「これからは早く言って下さいね。お陰で今日の試合に参加出来ませんでした」 「ふふ。京君との打ち合いをせずに済んだのだから良かったじゃない」  その名に反応したように見え、肇は隣に立つ少年をみると、文枝も存在に気付いたようだった。 「見学かしら?」 「いいえ、傘を届けに来ました。久賀様に……」 「久賀様って京君の事かしら」 「はい」  相手が女性だからか自分と話すよりも喋りやすそうだった。  妙に傷ついたのは何故だろう、と肇は首を傾げた。 「僕、久賀様の身の回りの世話をさせて頂いてます……ゆきっていいます。傘を渡してもらえますか?」 「僕? あなた男の子?」 「え、あ。そうです!」  女の子に間違えられ怒るならまだしも、顔が青褪めたような気がするが、今は普通そうで、どうやら肇の気のせいのようだった。  否定しているのを見て、少し落胆した。  肇は「実は女の子です」と言って欲しかったようである。  肇は青くなったり赤くなったり忙しそうだった。 「可愛いから思わず女の子かと思ったわ。ごめんなさいね。もう終わりますからね。お待ちなさいな」  母親はさっと肇から玉子を受け取ると門の玄関を閉めた。  門の前には二人だけ残された。 「えっと……叔父さんの身の周りの世話をしてるの?」 「叔父さん?」 「俺、あんたの言う久賀様の兄ちゃんの息子なんだ。俺、肇」 「久賀様に、ご兄弟いらっしゃるなんて知らなかったです。僕、ゆきって言います。宜しくお願いします、肇さん」 「――さんってなんか恥ずかしいから呼び捨ての方が良いよ」  何故急に肇が顔を真っ赤にしたか分からない雪は思わず首を傾げて見せた。  その仕草が非常に可愛いのである。無意識にしていたら怖いし、自覚していても怖いし……。  話題を変えようと、肇は首を振った。 「身の世話って何してんの? まさか、下の世話?」 「お掃除、お洗濯、お料理。下の世話って何ですか?」  アハハと笑っていた肇は、笑いを止めた。  冗談で言ったつもりだったが聞き返されるとは思わなかったのだ。冗談で返されると思った。墓穴を掘ったようだった。
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