第三章

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「ゆき君が考えているような場所じゃないのよ。栄えているけど危険な場所でね」  由希は心配顔を浮かべたまま、雪を諭すような口調で言った。  必死に城下町の危険を伝えている由希の話を聞きながら、青褪めたり、へぇーと感心したりしていると戸が開く音がして、二人とも一斉に振り返る。  太助の戸口に久賀が立っていた。  雪の帰りが遅い、と久賀は雪を太助へ迎えに来た、と男は言った。  遅いと言っても陽は暮れていないし、夕餉にしてはまだ早過ぎる。ただ、雪の姿が見えないと不安なのだ。 「久賀様、遅くなってごめんなさい」  謝る必要なんてないのに、雪は久賀に頭を下げて久賀の元へ駆け寄った。  戸口に立つと、男から腰を引き寄せられて一気に外へ出されてしまう。その勢いで久賀の胸に飛び込んでしまった雪は、そのまま抱き締められてしまった。 「え、えぇっ、久賀様?」 「外は冷えるだろ。くっ付いた方が温まる」  ぎゅうっ、と雪を正面から抱き締めたまま久賀は太助の戸を閉めた。戸が閉まり切ってしまう前に雪は肩越しに振り返って由希に手をった。 「またよろしくお願いします」と頭を下げたと同時に戸が完全に閉まってしまう。閉まる寸前に視界に映った由希の表情が酷く不安そうで、それがとても印象的だった。 (僕が城下町へ行くっていうのがそんなに不安なのかな)  閉じた戸に目を向けたままでいると頭上から名を呼ばれて、雪は、顔を上げた。 「身体が冷えている。部屋に戻ったらすぐに温かい茶を飲むんだ」 「はい。あ、そうだ。お茶の葉を先日もらったんです。それを飲みましょう」  にこ、と笑うと少し表情が固かった男の表情が和らいだ。帰りが久賀より遅かったからか、身に纏う空気が怒っているように感じたのだが、いつもの久賀様だ。  久賀の胸に両手を突いて離れようとしたのだが、ピクリとも動かなかった。むしろ、自分の腰を抱く腕に力が入ったように思う。 「あの、久賀様。このままでは歩けません」 「そうか?」 「はい」  正面から抱き締められたまま歩ける筈がない。 「このまま離れたくない、と言ったらどうする?」 「えっ? どうする、と言われましても……このまま歩ける方法があるのですか?」  久賀は思案顔の表情を浮かべるも、すぐ「ないな」と答えた。 「だが、雪の身体が冷えてるから肩を抱いて帰る」  クルリと反転させられて、久賀の左側に収まるとグイッと肩を抱かれた。力強くて逞しい腕にどきっとしてしまう。 「久賀様、今日は由希さんの元でお魚を捌いたんです。それから、らっきょうを漬けました。久賀様はらっきょうお好きですか?」 「雪が作ってくれるものならなんでも好きだ」 「ふふっ。お上手ですね」 「本気で言ってる」と久賀が、そう言い返した。  僕が作ったものならなんでも好き、って答えてくれるなんて久賀様の優しさに違いない、そう思っている雪は久賀が心の底からそう思っているなんて夢にも思わなかった。 「久賀様の好物はなんですか?」 「雪が作ってくれるものなら全部好きだ」  そう答えられて、雪は困惑して眉を下げた。将来、久賀の元を離れる前に少しでも好きな物を食べてもらいたい、と思って訊ねたのに、その答えでは困る。 「本当に──俺はお前がいてくれるだけでいいんだ」  雪の右耳に久賀はそう囁いた。それを聞いた雪は、クスリと微笑む。 「お優しいですね」 (僕はただの穀潰しなのに)  何の役にも立たない僕は、お優しい久賀様の元を離れなければ。 「そうです、久賀様。由希さんのお手伝いの日数をあと一日、二日増やしても良いですか……?」 「…………何故?」 「寒い季節は温かい食べ物とお酒を求めて、お客様が多いんですって。僕、それの助けになればな、って思っていてですね」  日数を増やして、お金だけでも早く貯めたい。  そう思って、雪は久賀にお願いした。駄目、と言われたらそれまでなのだが……お優しい久賀様は許してくれる、と心のどこかでそう思っている。結局は久賀様はお許しになってくれるのだ。  
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