第三章

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 久賀が歩く足を止めて、雪も釣られて足を止めた。不思議に思って男を見上げると、彼は眉間に深い皺を寄せたまま遠くを見つめていた。何か思い詰めたような表情で、雪は不安になる。 「久賀様?」  何か、僕が悪い事を言ったのだろうか。好物を訊ねられたくなかった? 僕如きに知られたくなかったのだろうか……。 「……久賀様……」  戸惑いながらも、雪は久賀の様子を窺いながら弱々しく、彼の袖を引っ張った。そうしたら、ハッと弾けるように目を見開いて雪を凝視すると、暫くして苦笑を浮かべてみせる。 「すまない。考え事をしていた」 「……そうなんですね」 「そうだ、俺は考え事をしていたんだ」  久賀は確認するように、そう断言した。 「──雪にまつわる話だ」 「僕にまつわる話ですか?」  雪は首を傾げて久賀をじっと見るも、男もまたこちらの様子をじっと見つめるだけで、『雪にまつわる話』を一向にしてくれない。雪は戸惑って瞳を揺らすと、久賀の唇がゆっくりと動く。 「雪の妹の話だ。冬が明けたら知人に探してもらうよう手筈を整えてもらった」  年が明けてすぐに、久賀が知り合いに頼んでくれる、と言っていた。それを実行に移してくれるという。 「正月に雪の願いは全部俺が叶えてやる、って言っただろ? 俺はそれを実行に移そうとしているだけだ」  もし、久賀様のお知り合いの方が桜を見つけたら? 僕の計画は潰れてしまって──僕は倉苗町(ここ)に残る事になる。そうしたら久賀様にズルズル甘え続けて、久賀様を不幸にしてしまう。それだけは避けなければ。 「で、も……それは悪いです……僕の妹ですし」 「何か不都合でも?」  すっ、と細まった目になんでも見透かされているような気がして、背中に嫌な汗を掻く。気まずさに俯いて目を逸らしたのだが、それが不都合があると言わんばかりの行動だという事に、気が動転している雪が気付く事はなかった。 「庭に桜が咲く頃までに見つけてもらうようにするよ」 「──桜の木が庭にあるのですか?」  久賀が呟いた言葉に反応して、顔を上げると「あるよ」と久賀が答えた。久賀と雪が過ごしている部屋の前の庭にある大きな木は、あれは桜の木なのだという。時期になるとそれは見事な桜を咲かせるのだと教えてくれた。 「桜が好きか?」 「妹と同じ名前で、妹が生まれた時に咲いていた花なので大好きです。それに小さい頃に二人でよく桜の木を眺めていました」  懐かしい思い出を浮かべて雪は微笑んだ。  小さい頃、夜中に二人で縁側に並んで、桜の木を見上げた記憶は今も鮮明に思い出せる。脳裏に浮かんだ思い出は雪を懐かしくさせるも、寂しくもさせた。 (やっぱり、久賀様のお知り合いに探してもらうわけにはいかない)  もし見付かって、久賀の元を離れられなくなってしまうという気持ちよりも、自分の大好きな唯一の妹を他人に探させてはならない、という気持ちが強かった。  雪の記憶の中では、桜は人見知りだ。そんな子が自分を探しているという人間の前に姿を現わすだろうか。 「妹は見つかる。雪は何も心配しなくていい」  その言葉に雪は返事を返さずに、ただただ小さく頷いた。  内心では、妹を見つけませんようにと願う。本当は見つかってほしいのに、他人が見つけてしまっては久賀から離れる勇気がなくなってしまうからだ。  矛盾している気持ちが自分の中を渦巻いて、どう処理したら良いか分からずに雪は泣いてしまいたい衝動に駆られてしまう。だが、ここで突然泣いてしまっては久賀が驚いてしまうだろう。  泣かないように俯いて下唇を思い切り噛むと、骨ばった太い指が下から飛び込んできた。雪の口に指先を突っ込んで、唇を噛むのを止めさせた。 「噛むな」と叱られて、雪は素直に謝って顔を上げる。  久賀の顔を見れなくて、雪はじっと正面を見据えた。その先には久賀と住む元宿屋の屋敷があって、さっき久賀が教えてくれた冬模様の桜の木がそびえ立っていた。  「僕、桜の木が見たいな」  久賀と雪の間に流れる重い空気を誤魔化す為に呟いた言葉なのだが、それは雪の心からの本心だった。
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