第三章

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※  夕食を終えて膳を下げようと持ち上げると、久賀に手首を掴まれる。急だった為に、お椀が畳に転がってしまった。転がるお椀を目で追いながら中身が入っていなくて良かったと、雪は胸を撫で下ろした。 「久賀様、ごめんなさい。落としてしまいました」  久賀の手から抜けて拾おうとしゃがむも男の手が手首を離してくれない。  目線を上げると、雪を無言で見下ろす久賀と目が合って、首を小さく傾げた。 「久賀様、どうされました?」 「俺が拾う」 「でも、僕が落としてしまったから」 「手が塞がっていたら拾えないだろ」  片手には二人分の膳を持っている。そしてもう片方は久賀が掴んでいる。確かに、しゃがんで拾おうとしても、手は空いていないから拾えない。  久賀は彼女の手首を掴んだまま、転がったお椀を拾って膳の上に置いてくれた。雪は礼を言って膳を下げようと足を進めるも、彼は雪の手を離そうとしない。 「久賀様?」 「廊下に置いてすぐ戻ってきてくれ」 「でもすぐ洗わなければ、虫が沸いてしまいます」 「寒いから、虫もいない」 「あ。そうですね……」と、雪は納得して頷いた。  何かお話があるのかな、と雪は二人分の膳を部屋を出て右側の廊下に並べて置く。部屋に引き返そうと振り返るとゴンっと硬いものに顔面をぶつけた。 「にゃっ」  素っ頓狂な声を上げて、鼻を摩る。涙目になりながら、正面を向くと深緑が見えた。久賀が着ているものだ。そのまま上を見上げると、彼がジッと見下ろしていた。 「お怪我はないですか?」  顔面をぶつけた雪の方が負傷している。男の胸は無傷だ。それでも、自分が痛かったんだから久賀様も痛いはずだと心配してそう訊ねたら、男は首を横に振った。 「良かったです……! お食事後のお茶を淹れますね」 「お茶はいらない。それより俺と話そう」 「久賀様とお話ですか?」  久賀様とのお喋りは好き。僕の目を優しい瞳で見つめながら、聞いてくれるから。  頬を緩めて俯いたら、不意に宙に浮く。久賀は軽々と雪を抱き上げたのだ。  逞しい腕だけで雪の小ぶりのお尻を持ち上げられて、フラフラして心許ない感覚に、思わず男の首にしがみついた。  久賀が、雪の額に己の額を当てて呟いた。 「まだ軽いな」 「お腹が少し出ましたよ。先月、お餅をたくさん食べたから太りました」  と、雪は腹の上に手を当てる。己の腹が少し出たように感じて感触が柔らかい。そんな自分がだらしなく感じて、羞恥に頬を染めて男の視線から逃れる為に俯いた。そのせいで、そんな自分を久賀が愛おしそうに見つめているなんて思いもしない。 「つい此間(このあいだ)まで寝込んでいたんだ。そのせいで体重は落ちてしまっているから今の雪は太った、に入らない」 「でも、僕が太ってしまったら、久賀様にこうやって抱きあげてもらえません」 「俺はそんな柔じゃない」  俯いたままの雪の頬を、親指でスリスリ撫でながら顔を持ち上げられる。目が合うと久賀が雪に微笑んだ。 「雪がどんなに太っても、俺は雪をこうして抱き上げられるよ」  雪は太った自分を想像して、おかしそうにクスクス笑う。  今の僕は軽いからこうして持ち上げられるだろうけど、久賀様は背は高いけど、お綺麗だし細身のような気がする。先日会った春日さんより小柄だ。でっぷりした僕を持ち上げられるとは到底思えない。まるまる太った僕を必死になって持ち上げようとする美形の久賀を想像したら、可笑しくて雪は一人で笑っていた。  そこに冷たい風が雪の肌を撫でた。  戸を開けたままだから、冷たい隙間風が吹いたようだ。戸のすぐ目の前に立っている雪は、その冷たさにブルりと震えて、可愛らしいクシャミをする。  慌てたように久賀は引き戸を閉めて、雪を抱き上げたまま部屋の中央にある火鉢の前に腰を下ろした。
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