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狼の遠吠えが聞こえ、サーナは窓を見た。 「近い」 おもては夜の闇で暗い。ガラスに近づくと月明かりの雪景色がわずかに見える。しかし動きはない。 「だいじょうぶ」と後ろで父のラスカスが言った。「ここにいれば安全だ」 ラスカスは暖炉の前に座り革細工を続けている。鹿革の財布に模様を入れている。 ふたりの住む山小屋は石造りで確かに安全だった。ドアは木製だが錠はある。狼の体当たりぐらいでは壊れない。 しかしサーナは胸騒ぎがした。狼の遠吠えは慣れていたがあまりに近い。どんどん近づく。    *** 原因はテイルという男だった。防寒着を着ず左肩から血を流し、雪に足を取られながら森を走っていた。痛む左腕を揺らさないようかばい、右手には棒。杖に使うため拾った枝だが狼の襲撃に振り回す。 雪上に続く彼の血のにおいで狼は集まり、テイルは崖に追いつめられた。見下ろしても闇で崖下は見えない。狼は迫る。テイルは飛び降りた。雪深い斜面に着地しそのまま転げ落ちる。 左肩を何度もぶつけ「ああ!」と声が出た。埋もれた雪の中から這い出すと明るい月に煙が一筋。元を辿ると煙突が見える。そして小さな建物の陰。 テイルは向かう。狼を引き離したが気配は迫る。息が切れた。脚は重い。肩の出血は止まらず意識は朦朧とする。 森を抜け建物が見えると左の藪から狼が飛び出した。牙を剥きテイルを襲い、テイルは力いっぱい棒で叩く。    *** キャン、と狼の悲鳴が聞こえ、サーナはドアを見た。悲鳴はすぐそこで山小屋の前。そしてドアが叩かれる。ドンドン。 「あけてくれ」と男の声。ドンドンドン。「あけてくれ」 サーナが向かうと「あけるな!」とラスカス。「よせ」と首を振る。 「なぜ?」とサーナ。「なぜいつもそんな」 問われたラスカスは目をそらす。 「ああ!」と男の叫び声が聞こえた。 「死んじゃう」とサーナは暖炉の薪を取る。 「待て!」とラスカスは手を伸ばす。    *** 狼はテイルの左手に噛みつき食いちぎろうと頭を振り、テイルはその腹を杖の持ち手で何度も突いた。 狼はたまらず離れ、テイルは山小屋に寄りかかる。立っているのがやっとだった。目がかすむ。狼は他に3匹。テイルを囲むように動いて迫る。 ドアがあいてサーナが燃える薪を振り回した。狼たちはひるみ後ずさる。サーナは前進しテイルのそばから追い払う。 横から来た狼を殴ると薪は弾かれ闇の中に落ちた。狼たちは再び迫る。サーナは壁にもたれたテイルを抱え上げる。 狼が牙を剥いたとき銃声がした。 サーナが見ると山小屋の入口にラスカス。猟銃を構え狼たちに対峙し「早く!」 サーナはテイルを引きずり中へ入れる。ラスカスは狼たちと向き合い後ずさりドアを閉めた。    *** 闇の中で銃声が聞こえ、テイルは目をあけた。 かすむ視界がはっきりしてもここがどこかわからない。木の天井の下にいる。窓がそばにある。窓の外は明るい。ベッドに寝ていた。向かいの壁の中央には暖炉。その前に髭の男が座っている。テイルには気づかない。何か手作業をしている。手元を見ようとしてテイルは痛みが走りうめいた。 その声にラスカスは目を上げる。革細工の道具を置き立ち上がる。 テイルは左腕の傷の痛みに耐えつつ体勢を変え、深呼吸し、 「具合は? 飲めるか?」 声で見上げるとベッドの横にラスカスがいた。手にしたカップからは湯気。暖炉前のケトルから注いだお湯だった。 「ああ」とテイルはひとこと言って首を振る。 ラスカスはカップを枕元、低いチェストの上に置く。 「ありがとう」とテイルがかすれた声で言うと、 「礼は娘に言え」とラスカスは首を振る。「助けたのは娘だ」 そうなのか、とテイルはうなずく。記憶がない。その娘を探して見まわすが近くにはいない。 「傷は縫ったが、素人の処置だ」とラスカスは立ったまま続ける。「ここまで医者は来ない。痕は残るだろう。諦めてくれ」 テイルがうなずくと、 「指は動くか?」 テイルは自分の左手を見る。重くて上がらないが指先は動く。 「神経が無事だといいが――」とラスカスも見て「なるべく動かすことだ、痛みが取れたら」 テイルがまたうなずくと、 「追われてるね?」とテイルの顔を見る。「噛まれた傷のほかに、撃たれた痕があった」とラスカスは自分の左肩を指さす。「弾は抜いておいた」 テイルは目を伏せ「すまない――」しかし事情は言えない。「事情は――」と言いかけると、 「いい。聞かない」とラスカスは首を振る。「関わりたくないんでね」と強い目で見る。「とにかく今は、休むこと。早く治るように」 テイルはうなずく。 「帰ってきた」とラスカスはドアを見て歩きだす。 ドアはテイルから見えない位置だった。諦めて天井を向く。無理に首を動かすとまた痛みが走りそうで怖い。 ラスカスは錠を外してドアをあけ「おかえり」 「ただいま」と入ってきたサーナは肩に猟銃を下げている。仕留めた鴨を1羽、右手に持っていて、 「目を覚ました」とラスカスが言うと、「そう」と部屋の奥を窺う。 「俺がやろう」とラスカスはサーナの手から鴨を取り、 「うん」 サーナはうなずいて銃を奥の戸棚にしまう。 ラスカスは暖炉から火のついた薪を1つ取り、自分の上着を持って外に出た。 サーナはベッドに近づき、 「痛い?」 テイルの視界に入って聞くと、テイルは目を向ける。しかし答えない。 サーナは目をそらし、防寒着を脱いで壁にかける。ケトルの湯を水桶に足して手を洗う。人見知りだった。動きながら何をどう話そう、と思う。 テイルは目で追うのをやめ天井を向く。まだ眠りの中の気がした。サーナは美少女だった。    *** 暖炉の真裏の屋外には同じ煙突を使う煮炊きの場所がある。においや煙が強い調理の時はそこを使った。ラスカスは持ってきた薪で火をつけ、雪の入った鍋を熱する。そばにはサーナが仕留めた鴨。湯漬けして脱毛しそのまま焼くつもりだった。 屋内ではサーナがチェストの上のカップを手に取り「冷めちゃったね」とベッド横に膝をつく。「あっため直す? 飲みたい?」 テイルは「いや」と首を振る。 「そう。飲めば出たくなるしね」とサーナはうなずき「あ、したくなったらそこ」とトイレの方を指さす。「足は怪我してなかったけど、歩ける? まだ元気ない?」 「ああ」 「そう。あ、飲みたいけど飲めない? 起こす?」 「いや――」テイルはまた首を振り「ありがとう」 「ん?」 「君が助けてくれたって」 「あぁ――」サーナは目を伏せる。表情が曇る。 『あけるな!』と昨日の夜、父のラスカスは言った。『よせ』と。 『なぜ? なぜいつもそんな』とサーナが問うと、目をそらして答えなかった。 「ありがとう」とテイルが繰り返すと、サーナは照れて微笑し「サーナ」と名乗る。 「え」 「名前。あなたは?」 「――テイル」 「テイル」 覚えるようにうなずくと、「どこから来た?」とサーナ。 テイルは目が泳ぐ。髭の男、彼女の父親は聞きたくないと言った。関わりたくないと。 「山あいの町からも遠いし。家には時計ないけど、3時間くらい?」とサーナは首をかしげる。「この先には何もない。こっちには山を2つ越えて別の町があるって言うけど、ここらを通る人はいない」 「――」 無言のテイルに「私の話し方、変?」とサーナ。 「ん?」とテイルが見上げると、 「家族以外と話すこと、ほとんどないから」とサーナは苦笑し首を振る。「父さんは無口だし。話し方が変だったらごめんなさい」 「いや――」 サーナの話し方は変でもなんでもなく、余計な詫びをさせたのも悪く、 「ここでふたりで?」とテイルは話題を変える。 「うん。母さんは4年前に死んで、病気で」 「そう」 「なんかわけあるのよね? いいの。困ったことあれば言って」 サーナはうなずくと立つ。部屋の奥に行く。しゃがんで床板の一部を外し、床下から芋を3つ出した。    *** この小説は電子書籍で出版しました。詳しくはプロフィールからどうぞ。
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