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 平安時代、紫式部によって書かれた『源氏物語』。  光源氏と美しい姫君たちとの恋の物語は世界最古の長編小説とも言われている。  このお話は、そんな平安貴族たちによく似た人たちが住む世界のお話です。  ひぐらしの声が悲しげな盛夏の夕暮れ。佐理(さり)の横で、びたんっ! と腕を叩いた高子はその腕を舐める。 「こら、年頃の娘がそんなはしたないことをするものではないよ」 「お兄様、超貧乏下流貴族の娘が今さら気取っても仕方ないじゃありませんか。蚊なんかに血をくれてやるのはもったい。ああ、ひもじい。今晩の夕食も雑草汁かしら。私にはあの夕日が干し柿に見えますわ」  佐理は西の空に落ちていく干し柿に視線をやる。 「完熟の 沈む夕陽 我が身と重かし けふも腹の虫鳴く」 「まぁ、素敵なお歌。お兄様は本当になんでもお上手ねぇ。それになんと言ってもその美貌、男にしておくのは本当にもったいない。お兄様でしたら超リッチな殿方を誘惑して、がっつり貢がせることも可能でしょうに」 「高子、私が男の花月嫌いなのを知っているだろう。それより高子こそ金持ちの殿方を捕まえるか、リッチな月の姫君をたぶらかしてはどうだい」  花月とは同性同士で結ぶ婚姻のことで、女役を花、男役を月と呼んだ。 「お兄様だって私が大の殿方嫌いのバリバリの月の女だとご存知なくせに」  貴族は貴族でも瀬央氏は下流貴族。それもだいぶ落ちぶれた超貧乏貴族ときている。父は宮内省(くないしょう)の大丞(だいじょう)で貴族としては最下位の役職だった。仕事はほぼ雑用だ。  そんな瀬央氏の末裔であるこの二人。姫君と見まごう美貌の持ち主の佐理は御年十七歳。妹の高子は十六歳。こちらは幼い頃から男児顔負けの活発な姫君で、その姿の凛々しいことと言ったら。  一見、“とりかへばや物語”に出てくるような二人だが、違うところは佐理が姫君のようなのは美貌だけで、それ以外はいたって健全な男子ということだ。舞や笛、和歌や漢詩にと、教養深く、特に唐の詩人白居易の長恨歌(ちょうごんか)に合わせて踊る佐理の舞は、見るものを一瞬で虜にするほどだった。  二人はそろそろ結婚を考えてもいい歳なのだが、如何せん、家が貧乏過ぎて誰からも相手にしてもらえない。  佐理のその美貌と才をもってしたらなんとかなりそうなものだが、男女が顔を合わせるのは文のやり取りを経て、それからである。が、なにより一番大事なのは家柄で、落ちぶれ下流貴族の瀬央氏では、まともに文を読んでさえももらえない。これでは佐理の良さをアピールしようにもできないのである。まさに宝の持ち腐れであった。  このままでは瀬央の血も家も絶えてしまう。二人は同時に弱々しい息をついた。空腹でため息さえも力が入らない。  その日の夕食は高子の予想した通り雑草汁とアワのお粥で、床に入る頃にはまた腹の虫が鳴く始末だった。  貴族たちの朝は早い。  日の出前の暗いうちに起きてまずすることは、占いで今日の運勢をチェックすることだ。彼らにとって占いは重要だった。外出時の方角や爪を切ってよい日まで、全てこの占いで決まる。  今日の佐理の占い結果は、“禊(みそ)ぎ”だった。方角と時間帯も占い、白湯だけの朝食を済ませると身支度を整える。普通だったらお供を従え牛車(ぎっしゃ)に乗るところを、超のつく貧乏貴族の佐理はふらりと一人、徒歩で出かける。  まだ午前中とはいえ、夏の太陽は容赦ない。近所の池には白い水蓮が水面に咲き誇っていた。  木陰で着ていた狩衣(かりぎぬ)を脱ぐ。無地の若草色のそれは着古され、袖口は擦り切れていた。  水の中にそっと足を差し入れる。光を反射した水面が、目を閉じても瞼の裏できらめく。佐理の足の間をするりと小魚が通り抜けていった。  くすぐったくて佐理は鈴のような笑い声をあげる。頭まで水に潜ると、小魚を追いかけた。水面に顔を出すと蝉の鳴き声が降り注いでくる。 「ふう〜、気持ちいい」  背中でぷかぷかと水に浮きながら、佐理は全身で世界を感じた。  蝉の歌声、木々と風のざわめき、水蓮の花の中で戯れる蜜蜂の羽音、そして夏の太陽の雄々しさ。  いつまでも木の葉のように水面をたゆたっていたいと、佐理は顔をほころばせた。  神聖な禊ぎの儀式がただの水遊びのようになってしまっているが、佐理は去年元服を迎えたばかり。傾きかけているとはいえ、いや、だからこそ瀬央氏の嫡子である佐理は家ではしっかりしていなければならず、こうして一人でいる時が佐理が本来の自分に戻れる唯一の時間だった。  佐理は手で水をすくうと空に向けて放った。小さな太陽を閉じ込めた水の破片がキラキラと降ってくる。佐理は笑いながら何度も水を放った。 「春寒うして浴よくを賜ふ 華か清せいの池」 (春のまだ寒い時期、華清の宮で湯浴みを賜り)  佐理は長恨歌の一節を口ずさんだ。自然と身体が動き出す。  唐の皇帝玄宗とその愛妃、楊貴妃の悲恋を詠んだこの歌が佐理は好きだった。いつか自分もこんなふうに深く誰かと愛し合ってみたい。 「温泉水滑らかにして 凝脂(ぎょうし)を洗ふ」 (温泉のお湯はなめらかに、美しい肌を洗う)  佐理は水をすくって肌に滴(したた)らせた。  蝉の鳴き声に混じって小鳥の羽音がし、それと重なるように水辺の茂みで葉が擦れる音がした。この辺りには野生のシカやタヌキが多く、水を飲みにやって来たのかも知れない。  佐理は振り返った。  その時、周りから全ての音が消えた。  佐理の視界に飛び込んできたそれは、シカでもタヌキでもない、人の形をした影だった。太陽を背中に背負い、輪郭が七色に縁取られている。  佐理は慌てて水の中に潜った。禊ぎをしている姿を人に見られてはいけないのだ。  どうにか身を隠せるような岩陰まで泳ぎ着くと、水から顔を出し苦しい呼吸を整える。  しばらく待って、そっと岩陰から顔をのぞかせ水辺をうかがって見ると、七色の人影は消えていた。  一瞬だったのでよく分からなかったが、影は成人男性に見えた。それも多分、身分の高い貴族。そう思ったのは背後の太陽が後光のように七色に輝いて見えたせいだけではない。  シルエットから着物は貴族が朝廷に出仕する時の束帯(そくたい)にも見えたし、普段着の直衣(のうし)にも見えた。  頭には冠(かんむり)を被っているのが、その象徴的な形ではっきりと分かった。冠は朝廷に赴く時に被るもので、直衣で出仕できるのは上流貴族だけに許されることだった。  小魚が体を弓のように反らせて水面を跳ねた。その音で世界に音が戻ってきていることに気づいた。  蝉と木々の歌声が水面をそよ風と共に滑っていった。
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