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スマホのアプリというのは好きになれない。しょっちゅうアップデートを繰り返し、その度に操作が変わるからだ。同じ理由で電子書籍も好きになれない。いつ誰がどのように中身を変えるかわかったものではないからだ。誤字脱字の修正ならともかく、ある日突然書いてある内容がガラリと変わってしまったらどうなる? オーウェルの小説でもあるまいし。そういう個人的な趣向もあって、十年前に売りに出されていたこの古書店「好事家」を前のオーナーから引き継いだ。紙の本に書いてある内容なら未来永劫変わらない。そういうところが気に入っている。
古書店と言っても学生向けの古本屋とは違う。うちは安い本を扱っていない。「好事家」という名前の通り、コレクター向けの本ばかりだ。そういう本を扱う仕事の性質上、客は金持ちが多く、直接家に出向くことも多い。その日もさる富豪の書斎に招かれた。前のオーナーの代からの贔屓客で、応対したのはその客の専属秘書だった。
「最近話題のあのニュースはもちろんご存知ですよね?」
その秘書は40代で、おそらく私と同年代くらい。無駄な贅肉がなく、神経質な小男だ。声が高く、いつも気忙しい。指をコツコツと机にたたきつけていたり、書斎の周りをぐるぐる回ったり、コマネズミのような男なので、私はひそかに彼をコマネズミと呼んでいる。
さて、コマネズミの質問には困った。私は普段ニュースというものをほとんど見ない。スマホのアプリと同じくらい嫌いなのがテレビなのだ。そこで語られている内容のほとんどは意味がない。
だが、私もプロだ。この手の質問には常々「もちろんです」と答えることにしている。ヒントは向こうから得ることができるだろう。
「実に困ったことになりました。好事家さんに取り寄せてもらった本はほとんどが彼の著作なのです。ご存知のことと思いますが、この書斎にはお客様も入ることがあります」
先が読めた。呼ばれたのはそういうわけか。大正時代の文豪にまさかスキャンダルの恐れがあるなんてだれも考えないだろうが、近頃はそういう例が多い。技術の進歩で知人にあてた手紙だとか、愛人への贈り物、はては変態趣味の遺品などが掘り起こされる。そのうち小学校のときの文集や、SNSへの差別的な投稿などが取り沙汰されるようになるに違いない。嫌な時代になったものだ。
「万事承知しております。なに、ものの1週間もいただければ書斎をすべて入れ替えましょう」
「一週間? いや、それは困る。明後日には来客があるのです」
明後日か。今は午前9時、それでも急げばなんとかなるだろう。
「よろしい。明日中には書斎の入れ替えを終えましょう」
するとコマネズミはほっとしたような表情を見せたが、それも一瞬のことで、「蛇足かとは思いますが、書斎に必要なことは」と人差し指を立てながら私に迫った。
「お任せ下さい。何よりも威厳、ですね」
この仕事をするまで想像したこともなかったが、本を一種のインテリアととらえている金持ちは多い。海外から取り寄せためずらしい初版本、文豪秘蔵の本、明治以前に作られた手引書、あるいは和歌集など。書斎の棚に並べられた本の背表紙から本人の人柄が現れると信じているからこそ私の仕事に需要がある。むろんその考えは正しいが、それはあくまで書棚に読んだ本を入れている者に限る。
「へぇえ、この本を今日中に全部ね。ずいぶん金払いがいいと思ったらそういうわけかい」
「どれも貴重な作品ばかりです。くれぐれも傷つけないように」
「わかってるよ。好事家さん」
クマとその仲間たちが次々と本を運び出していく。クマは私の懇意にしている業者で、普段は引っ越しを生業にしているが、好事家からの依頼で高価な本の搬入や搬出も請け負っている。美術品に関する扱いにも詳しく、フットワークが軽いので重宝しているというわけだ。
クマは大柄な男で、もちろん本名はクマではないが、濃いひげといい、どこか間の抜けた表情といい、絵本に出てくるようなクマに見えるので私は彼をクマと呼んでいる。
「それで、この書斎を空っぽにした次はどうするね? どの本を入れる?」
その日もクマの仕事は丁寧で迅速だった。軽トラックいっぱいに、丁寧に梱包された本が積まれるのを見て、私は満足した。助手席からバインダーを持ってきたクマが首にかけたタオルで汗をふきながら私に尋ねてきた。
私はにやりと笑った。
「いいえ、書斎に本は入れません」
翌日、コマネズミからふたたび電話があった。ずいぶんと慌てている様子だった。
「困ったことになりました、好事家さん。ニュースは見ましたか?」
もちろんこのときもニュースは見ていないが、察しはつく。なにか別の発見があって、作家の評価が変わったのだろう。コマネズミから話を聞いているとまさしくその通りで、今日中に書斎に来て本を入れ替えてほしいのだと言う。今度は政治上の理由だ。過去の著作で特定の民族に対する差別的表現が見つかったらしい。
本を入れ替えたふりをして大金をせしめてもいいのだが、今回は一芝居うって無料にしておこう。コマネズミ氏との友情価格というやつだ。
「そういうことでしたらご安心下さい。今書斎に入れますか?」私は手元の端末を操作しながらコマネズミに言った。「その著者の作品は一冊も書斎に入れておりません」
するとコマネズミは電話口の向こうで動揺したようだった。
「ですが、あの著者はリストにあったはず」
「かねてから著者の思想には政治的リスクがあることを承知しておりましたので、勝手ではありますが、こちらで別の著者の作品に差し替えておきました」
端末の文字を変え、ボタンを押す。すると遠隔でコマネズミのいる書斎の本の背表紙が入れ替わる。クマに搬入を依頼したのは私の開発したそういう特殊な端末だ。一見すると本物の本のような形をしているが、背表紙と表紙は遠隔操作で自由に変えることができる。
ただ、一つ懸念もある。外側を変えることができても中身は変えることができない。あの書斎は一冊残らずそういう特殊な端末に変えたので、もし中身を見られたら大変なことになるが、おそらくコマネズミにしても依頼人にしても、そして依頼人の来客も、本など実際に手にとって読むことはないだろう。
果たして書斎を見てきたコマネズミは「ああ、助かりましたよ、好事家さん」などと背表紙だけ見て安堵の声を上げている。誰かが私を詐欺師だと糾弾するかもしれない。だが、私としては価値の分からない人間に渡った不運な本を救済しているにすぎない。クマに頼んで書斎から回収してもらった本は、すべて古書店「好事家」の地下で眠っている。そこは本が劣化するような強烈な光は入らず、温度と湿度は完璧に保たれており、私は一冊一冊丁寧に古書の手入れをする。そこに置かれた本は未来永劫変わることがないのだ。
了
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