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どうしようもなくイライラする。
今だけじゃない。今日だけじゃない。最近だけじゃない。もうずっと長い間、おさまることのないイライラと一緒に日々を過ごしていた。
長い夜。閉め切った窓。淀んだ空気。
泣き続ける声に頭がおかしくなりそうだった。
細く開いたカーテンの隙間。まんまるの月と目が合った。
満月は人を狂わせる。
そんな話を聞いたことがある…ような気がする。
だからきっと、今の状況は全部満月のせい。
満月のせいで、目の前の泣き声はどんどん大きくなっている。満月のせいで私は、全てを捨てて逃げ出してしまいたい衝動にかられている。…―――こいつは、満月のせいで深い眠りから覚めない。
ギャンギャン泣く娘を抱いてあやしている隣で、ガーガー寝息を立てる夫。この泣き声の中、よく眠れるもんだと感心すらする。毎日激務で大変なことも知っている。夫が起きたって娘が泣き止むわけでもないことも分かっている。分かっているけれど、満月に狂わされた今日の私の心は、イビキをかいて眠る夫を寛大な心で見る優しさを持ち合わせてはいなかった。娘を抱っこしたまま立ち上がって、軽く夫の脇腹に蹴りを入れた。一瞬途切れたイビキ。すぐにまたガーガーと口を開ける。…すげぇな、こいつ。寝ている夫を見下ろしながら、寝室を出た。
泣いて暴れる娘を抱っこ紐に押し込めるように入れて、パジャマの上から娘ごと覆えるコートを着た。ゆらゆらと縦に揺れたり横に揺れたり。ほんの少し泣き声が小さくなった娘を連れて、私は寒い冬の夜に入って行く。
古くもなく新しくもないマンションの3階。エレベーターはない。冷たい風が通り抜ける階段を降りて行く。空気が変わったせいか、娘の泣き声は近所迷惑にならない程に小さくなった。
マンションの向かいには、小さな公園がある。まだ歩けない娘は遊具で遊ぶことはないけれど、時々ベビーカーで散歩をしている。
ブランコ、滑り台、砂場、ジャングルジム、ベンチ。丸い電灯が2つだけ光る公園内は暗く、昼間と全く様子が違う。もちろんこんな夜中に誰もいるはずもなく、近くに車通りもない。さっきまであんなに泣いていた娘もいつの間にか小さな寝息をたて始めた。
はぁ、と息を吐く。一瞬宙に浮かんだ白い息はふわっと消えていく。澄んだ空。冷たい空気。ブルっと体が震える。コートは着たけれど裸足にサンダルだった。ボサボサ頭にもちろんスッピン。パジャマの上にコート。こんな格好で外に出るなんて、娘を産む前の私では考えられなかった。
「こんばんは。」
突然聞こえた声に、心臓が跳ねた。
「え、…あ、こんばんは。」
声の主は、ブランコに座った中学生くらいの女の子だった。誰もいないと思っていたのに。ずっとそこにいたのだろうか。全く気付かなかった。
「赤ちゃん、抱っこしてるの?」
女の子は私の胸元にいる娘を見ている。
「そうだよ。」
暗くて、女の子がどんな顔でどんな表情をしているのか分からない。こんな夜中に赤ちゃんを外に連れ出して…とか思っているのだろうか。いや、でも子どもが外に出る時間でもないし人のこと言えないでしょ。責められたわけでもないのに、私は言い訳と反撃の準備をする。
「夜泣き?」
想像していなかった質問に一瞬言葉に詰まる。
「…よく知ってるね。」
「お母さんが言ってた。私が赤ちゃんの時、夜泣きが酷くて気分転換に外に出てたって。」
「よく泣く子だったんだね。」
「そうみたい。全然覚えてないけど。」
そう言って女の子は笑った。
「家の中にこもってると頭おかしくなりそうになることあるよね。」
笑いながら、やけに大人びた言い方で女の子は言う。
「…そうだね。」
でもまぁまさにその通りだった。イライラしていた気持ちは、家の中にいた時と比べて随分小さくなっていた。空はさっきと変わらず満月なのに。
「だからあなたもここにいるの?」
「うん、そう。」
女の子は軽い口調でそう答える。深刻さを感じさせない雰囲気だけれど、こんな時間に子どもが外を出歩いているのはたぶん普通のことじゃない。
「家、この辺?」
「うん、そこのマンション。」
女の子は私が住んでいるのと同じマンションを指差す。
「え、同じマンションなんだ。」
そう言うと女の子はキーっと音をたてて小さくブランコを揺らしだした。
「うちは3階。306だよ。」
「…え?」
思わず声が出た。聞き間違いだろうか。だってあのマンションの306号室は我が家なのだ。まぁでも、きっと聞き間違いだ。そう思って話を広げるのをやめた。幸いにも女の子は私の部屋番号を尋ねては来なかった。
「サンダル寒くない?靴貸してあげよっか?」
女の子は言う。
「あはは、ありがとう。大丈夫だよ。優しいね。」
「足元は温めた方が良いんだって。私今レッグウォーマーも履いてるよ。」
そう言って女の子は私に向かって足を伸ばす。
「それもお母さん情報?」
「そう。」
「仲良いんだね。」
「そう?うるさいとかウザいとか普通に思うよ。」
「まぁそれはそうだろうね。」
「おばさんも昔そう思ってた?」
おばさん…うん、まぁこの子からしたら私は惑うことなきおばさんなのだろうけれど。ちゃんとした格好をすれば‘お姉さん’と呼べなくもない見た目だと一応自負していただけに、心が痛む。
「そりゃ、ね。まぁ親なんてそんなもんなんじゃない?」
「じゃあその赤ちゃんにも、いつかそう思われちゃうかもね。」
そう言って女の子は笑う。
「かもねぇ。」
笑って返事をしながら、胸元ですやすや眠っている娘を見る。本当、黙って寝ていると天使みたいなのに、と毎日思う。私がそうだったように、娘もいつか親に向かって‘ウザい’とか‘クソババア’とか言うようになってしまうのだろうか。想像しただけでゲンナリする。
笑い声が消えて訪れた、長い沈黙。ブランコが揺れる音だけが辺りに響いている。時々吹く冷たい風。雲ひとつない夜空に浮かぶ満月。じっと空を見上げていると、明るい暗闇に吸い込まれてしまいそうだった。
娘が眠ってしまっても、私は縦に揺れたり横に揺れたり。ゆらゆら、ゆらゆら、体は小刻みに動き続ける。抱っこ紐ごと娘の背中を軽くトントン叩く。もう癖になっていた。
「何年生?」
沈黙を破ったのは私。
「中2だよ。」
やっぱり中学生だったのか。
「私も子連れで人のこと言えないけど、時間というか…外にいて大丈夫?」
そう尋ねると、一瞬の沈黙の後女の子はザザっと地面に足をついてブランコを止めた。
「うん、たぶん窓から見えてるし。よくあることだから。落ち着いたらちゃんと帰るよ。」
落ち着いたら。そう言うその子は十分落ち着いているように見えた。そしてやっぱり女の子は、我が家である306号室の窓の方を指差していた。どういうことなのだろう。絶対にあり得ないけれど、100歩譲ってこの子が本当に306号室の住人だったとして、窓からこの子を見ているのは誰?夫?そうなるとこの子は隠し子?…いや、さすがにそれはない。こんな大きな子をこっそりどうこう出来るわけがない。だからきっと、この子が部屋番号を間違えているだけ。
「お母さん、心配しない?送っていこうか?」
大丈夫だと言っていてもこの子は中学生。お節介なのは分かっていたけれど、最近はいろんな事件も多い。というか、下手したら今の私は深夜に中学生に絡む不審なおばさんに見えてしまうのかもしれない。
「優しいね。でも大丈夫。」
女の子は笑う。でも、その声はさっきまでと比べてどこか悲しげだった。
「今はね、お父さんが1人で泣いてる時間だから。」
「えっと、…どういう…?」
意味が分からず言葉を詰まらせる。するとカチャンと音をたてて、女の子がブランコから立ち上がった。
「夏にね、お母さんが死んだんだ。」
さっきまでより少しだけ大きな、澄んだ声だった。あまりにも澄んだ声は、その発せられた言葉とチグハグだった。私は、何も言えずに固まった。
「お父さんさ、お母さんのこと大好きだったくせに仕事ばっかりだったから。」
ザッと、地面を歩く音。
「死んじゃってから後悔して、今でも夜よく1人で泣いてるの。」
ザッ、ザッと女の子がゆっくり近付いてくる。
「空気がさ、もう重くて重くて。家にこもってると頭おかしくなりそうでさ。」
電灯の灯りに照らされてぼんやりと見えた女の子の顔。会ったことなんてないのに、どこか既視感があった。
「お父さんが泣いてる間、こうやってここで時間潰してるの。」
明るく澄んだ声。なのに悲しげで、危うい。世間話のように踏み込んで良い話じゃない。でも、今更何も言わずにいることは出来ない。
「…あなたは、」
たぶん私は、馬鹿みたいな言葉を発しようとしている。
「あなたは、」
でも他に言葉が出て来ない。
「…っ、あなたは、大丈夫?」
ザッと音がして、女の子が歩くのを止めた。
「あはは、」
そして笑う。
「なんでおばさんが泣きそうになってんの?」
泣きそう、じゃない。もう涙は出ていた。
「産後の情緒不安定ってやつ?」
中学生のくせにそんなことよく知ってるな。もちろんそれは無いとは言い切れないけれど。
「おばさん、」
おばさん、おばさん連呼するなよ、とこんな状況なのに頭の片隅でまだ思っている。
「私は大丈夫。」
そう、言い切る。
「だって、」
明るくなった声色。でもその声は滲んでいる。
「もう一生分、ウザいくらい毎日‘大好き’って言われたんだよね。」
澄んだ空気に、言葉がスッと溶けていく。
「あり得なくない?小さい頃ならともかく、中学生になってからも毎日毎日。」
女の子は笑う。
「もう知ってるわー!って。正直、マジでウザかったけど、」
涙を袖で拭うように手を動かした。
「その言葉で、私を強くしてくれてたんだと思う。」
そして、また笑う。
「…なんてね。」
笑って、一歩近付いてきた女の子の顔が初めてはっきり見えた。少し癖のあるショートカット。大きな二重のタレ目。左頬にだけ出来たえくぼ。その顔は、私の知っている顔とよく似ている気がした。
「…椎花(しいか)?」
気付いたら、娘の名前を呼んでいた。
「…なんで、私の名前知ってるの?」
キョトンと目を丸くした女の子。娘の名前を呼んだはずなのに、女の子の口がそう動く。
月が、明るい。
ドクン、ドクンと心臓の音が大きくなる。
胸に抱いた椎花を起こしてしまうんじゃないかと思う程に。
だってあり得ない。
絶対にあり得ない。
こんなことがあるわけがない。
胸に小さな椎花を抱いたまま女の子のいる方へ足を動かした。女の子は動かずにじっとしていた。
あり得ない。
でも、そうとしか思えない。
私はこの子を知っている。
手が震えていた。風が冷たい。でも、そういう震えじゃない。
震えた手を、ゆっくり伸ばす。
「…おばさん?」
女の子が戸惑うように小さな声で言う。その声に、私は何も答えなかった。答えられなかった。
何も言えないまま、女の子の肩に触れた。そのまま私は目の前の女の子をそっと抱き締めた。
そして確信する。
今ここにいる、この女の子は椎花だ。
絶対に椎花だ、と。
何がどうなっているのかさっぱり分からない。
でも中学2年生の椎花がここにいる。
胸に抱いている椎花とは歳も大きさも何もかもが違っているけれど、この子は椎花だ。
椎花は確かにここにいる。
そしてその椎花が、言う。
お母さんが死んだ、と。
中学2年生の椎花の母親、つまり私はもうここにはいない。
13年後、私は椎花と一緒にいられない。
信じられない。実感もない。悲しいとか、絶望とも違う。でもよく分からない感情が体中に充満して、次から次へと涙が溢れた。
「…おばさん、お母さんと匂いが似てる。」
腕の中でじっとしていた女の子が、ポツリと言う。私は思わず抱き締める腕に力を入れた。
「…お母さんのこと、好きだった?」
女の子は私の腕の中でほんの少し体を震わせた後、大きく頷いた。
「お母さんも、あなたのことが大好き。…だったんだね。」
2人の椎花を抱き締めながら、思った。
私は、椎花のために何が出来るのだろう。
逃げ出したい、なんて思ってる場合じゃない。
夫の脇腹を蹴ってる場合じゃない。
どうして気づかなかったのだろう。
時間は永遠じゃない。
良い意味でも、悪い意味でも。
椎花の夜泣きはきっといつか終わる。
私のイライラだって終わるはず。
椎花といられる時間にもいつか終わりが来る。それまでに私は一体どれくらい、椎花に好きだと伝えられるだろう。
「…ありがとう。今夜、あなたに会えて良かった。」
不思議な満月の夜。これは幻かもしれないし、夢かもしれない。もし13年後私が元気に生きていられたとしても、別にそれはそれで良い。今夜のこの出来事は全部満月のせい。
「…よくわかんないけど。私も、ありがとう。おばさん。」
「私はまだお姉さん。」
鼻を啜りながらそう言うと、女の子が吹き出すように笑う。
「子どもがいたらおばさんでしょ。」
「今度フルメイクの時に会いましょう。絶対そんなこと言わせないから。」
「あはは、楽しみにしてる。お母さんも、似たようなこと言ってた。」
「似たようなこと?」
「痩せたらめちゃくちゃ綺麗なんだから、って。」
…デブ化したのか、私。あぁ、だからこの子は今の私を見ても母だと思わないのかも。気をつけよう、マジで。
「じゃあ、私そろそろ帰る。」
しばらくして、女の子が私の腕の中からスルリと抜ける。
「赤ちゃん、可愛いね。」
中学生の椎花が、まだ産まれて半年の椎花を見ている。
「うん、ありがとう。」
「私も、あなたのお母さんの真似して良い?」
「お母さんの真似?」
「毎日、大好きって言い続けるの。」
「良いんじゃない?たぶんウザがられると思うけど。」
女の子は笑う。その顔が、どことなく夫と似ていた。
―――俺より先に死なないでね。
プロポーズの時、あいつは私にそう言った。‘俺はきっと、寂しくて堪えられないから’と。私は笑って、‘分かったよ’と答えた気がする。残していくには、あいつは頼りなさすぎるから。
でも私は、あの時交わした約束を守れない…のかもしれない。夜に1人で泣いている姿が簡単に想像出来た。
「お父さんと、」
さっきまであんなに腹が立っていたのに。
「お父さんと、幸せにね。」
例え私がいなくなっても、2人に幸せでいて欲しい。そう思えるくらいには、私は今の家族を愛せている。イライラした勢いで逃げ出してしまわなくて良かった。
「うん、ありがとう。」
女の子が手を振る。
「おやすみなさい。」
「うん、おやすみ。またね。」
そう言って私も手を振り返す。道を渡ってマンションの中へ消えていく女の子の背中を見つめていると、胸元で動きを感じた。
「あー」
眠っていたはずの椎花が、大きな二重の瞳を私に向けて笑っていた。左頬のえくぼが可愛い。
「起きたの、椎花。」
椎花の柔らかな髪をそっと撫でた。もう女の子の姿は見えなくなっていた。
「椎花、大好きよ。」
いつ死んでしまってもきっと後悔は残るのだろうけれど、それでも出来る限りの愛を、一生分の‘大好き’をキミに伝えていきたい。そう思ったんだ。
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