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サッチ・ア・フィーリング
今日はやけに、疲れが溜まっていた。私は、家に着くなり、すぐにシャワーを浴びて、パソコンを開いた。お気に入りのバンドの曲を、爆音で流す。音が割れるギリギリ。シャワーで流しきれなかった疲れが、音と共に昇華されていくのが、分かる。
やっかいなファンたちの対応に疲れた時は、いつも、こうやって音楽を聴く。地下アイドルという職業上、好んでくれる人のために、愛嬌を振り撒くのは仕方ないし、生活のためにもやらなければいけない。それでも、人間だから、疲れは溜まる。だから、仕事中は我慢して、家に帰った途端に、全部を吐き出して、流す。
でも、今日は漏れ出てしまった。長年、私のファンでいてくれている、サスケさん。疲れをそのままに、私は冷たい対応をしてしまった。サスケさんは「お疲れですな」と言って、寂しそうな顔をしていた。
そんな反省も兼ねながら、大好きな「アンブレランズ」の曲を聴く。いつものスタメン曲を聴いていると、関連に、新曲を見つけた。ご褒美だ!なんて思いながら、すぐに再生する。
ドストライクだった。《アンブレランズの良さが全部詰まっている、どう考えても最高傑作だ。》と、そんな小っ恥ずかしいコメントを書いてしまうくらいに、良かった。
私はハマったら、おかしくなるくらいに繰り返し聴くタイプなので、曲が終わって、またすぐに再生した。何度も、何度も。体の中に幸せ成分が増えていく。芯から気力が蘇ってくる。
再生を繰り返して、五回目くらいだった。
何かが、聞こえた気がした。気になった私は、その箇所に戻して、また聞き直した。
「ヴィーリンッ」
やっぱり聞こえた。「such a feeling」とボーカルが歌った後に、掠れたような、変な声が混じっている。明らかに、コーラスやハモリではない。奇妙で、汚い、恐怖を感じるような声だった。
聞いたことがある。
これは、アレだ。
音源に、幽霊の声が混ざってしまう、アレ。
興奮と緊張でドキドキしながら、私はコメント欄を見た。上から下まで、全部スクロールした。でも、どこにもそんなコメントは書かれていなかった。まだ新曲だから、気付いていないのかもしれない。私は、親切心と、一番乗りに気付いた優越感に手を引かれて、コメントを残した。
《2:52の部分…変な声が聞こえるような…》
次の日、同じグループのメンバーにも、同じ話をした。それで、実際に聞かせてみた。
「聞こえなくない?」
その通りだった。メンバーが言うように、その曲の中で、変な声は全く聞こえてこなかった。昨日は確実に聞こえたはずなのに、今は、なぜか聞こえなかった。とっても不思議で、納得がいかなかった。自分の耳が間違っていると思えなかった。
私は、モヤモヤを残したまま、ライブに挑んだ。少しだけ、ダンスに集中できていなかった、ような気もする。なんとか無事に終えて、帰っていくファンの人たちを眺める。サスケさんは、ライブには来ていないようだった。
家に帰り、すぐにパソコンを開いた。最後にもう一度だけ確かめるために、アンブレランズの新曲を流した。もちろん、爆音で。
「ヴィーリンッ」
やっぱり聞こえた。変な声が混じっている。私の耳は、やっぱり正しかった。何度も何度も、確かめるように聞いた。
「ヴィーリンッ」
「ヴィーリン」
「ヴィー、リンッッ」
何度だって聞こえた。私の気持ちが昂っているのかなんなのか、その声は、再生するたびに変わっているように聞こえた。ヴィーリン。その声に、ピンときそうな気がしたり、しなかったりした。
音楽を止め、私はシャワーを浴びた。お風呂上がりに、冷蔵庫を開けて、余っていた緑茶を飲み干した。喉がとてもスッキリした。私は、そのままの勢いで、アンブレランズの新曲のサビを口ずさんだ。
「なななな、さっち、あ、ふぃーりん」
「ヴィーリンッ」
一瞬、理解が出来なかった。さっきまでと同じように、変な声が聞こえてきた。それは、分かっていた。間違いなかった。
でも、曲は流れていなかった。
私は、唾をごくりと飲み込んで、声の聞こえてきた、押し入れのあたりをじっと見つめた。視点を一点に定めて、落ち着いて状況を整理する。整理すればするほど、混乱していく。
私に聞こえている、ヴィーリン。
メンバーには聞こえなかった、ヴィーリン。
でもやっぱり聞こえる、ヴィーリン。
曲がなくても聞こえてくる、ヴィーリン。
私の歌でも聞こえてくる、ヴィーリン。
不規則で不安定な息を落ち着かせて、覚悟を決めると、私は、もう一度、口ずさんでみた。
「なな…な、さっち、あ、ふぃーりん」
その瞬間、押入れの戸が、開いた。
「ヴィーリンッ」
ぬるっと、大きな体が出てきた。下から、履き潰れたスニーカー。腰に巻かれた、推しタオル。紫色の派手なライブTシャツ。とっくに見慣れていた。それでいて、少しだけ、久しぶりな姿だった。にゅるにゅると、どんどん視界に入ってくる。
「推しの好きな曲は、ハマってしまいますな」
サスケさんは、油で光った髪の毛をかきながら、照れ臭そうにしていた。小さな白いフケが、地面に舞い落ちていく。そんな様を眺めながら、私はただただ、その場に固まっていた。
「ヴィーリンッ。ははっ。癖になりますな」
幽霊の声なんかじゃ、なかった。
私が曲中で発見した、その声は、分かりやすいほどにむきだしの、ありのままな人間の声だった。
「カラオケでも、いっちゃいます?」
私は、最後の力を振り絞って、愛嬌を振りまいた。必死に笑って、そう言ってみせた。でも、返ってきたのは、あまりに冷たい、確実な人間の声だった。
「カラオケなんか行ったら、また疲れますよ」
白いフケが着地して、床に消えた。完全に冷え切っていた私の体の中で、まだ温かみを残していたのは、お風呂上がりの、まだ乾いていない髪の毛。それだけだった。
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