16話:笑って欲しかった

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16話:笑って欲しかった

 <side:ヒスイ> 「なんでだろ?」  心の疑問を、俺は無意識に呟いていた。  自分の生い立ちについて考えると、いつも不思議な気持ちになるのだ。  俺は孤児院で育ち、引き取ってくれた老夫婦が亡くなる前に残してくれた少しのお金と、自身でバイトを掛け持ちしながら奨学金制度で大学に通っている。  裕福な家庭の人に比べると、それなりに苦労の多い日々だった。だが自分の過去を思い返す時、なぜかいつも他人事のような気持ちになるのだ。どうしてもその過去が、自分が積み重ねてきた時間だという実感を持てずにいた。  その違和感が吹き飛んだのは、一人の生徒の声を聞き、真正面から彼女の目を見た瞬間だった。 『卵たっぷり高級プリン』  ーーあぁ、これでいい。  心の中で誰かがそう呟いたのだ。  出会う為にここに来たのだと、過去に対する違和感が綺麗に腑に落ちていく。  だが、そう思う理由だけはどうしても分からなかった。  なぜ初めて会った実習先の生徒にそんな事を思うのか。それはただ、同じ食べ物が好きという親近感から、そんな風に感じただけなのかもしれない。  ーーだけど。 「神崎くん……神崎くん!」  思考の海に沈んでいた俺の意識が、名前を呼ばれて一気に浮上した。なぜかこの苗字もしっくりこず、呼び慣れないという違和感を拭えずにいる。 「あ、岡田先生。すみません! 考え事をしてしまって」 「疲れがでたのかな」  実習期間中に俺の教育係をしてくれるクラス担任の岡田先生に謝罪すると、俺を気遣う言葉を返してくれた。  岡田先生は今年五十歳になる、柔和で優しいベテラン教師だ。 「今日はこれでもう終わっていいよ。ただ、クラス日誌が日直からまだ提出されてないんだ。帰る前に、教室を見てきてくれるかな?」 「はい! 分かりました」  笑顔で岡田先生に返事をして、俺は教室へと向かう。  放課後の校舎は昼間の喧騒が嘘のように静かで、グラウンドで部活をする生徒の掛け声が時折小さく聞こえるだけで静まり返っていた。まるで日中とそれ以後で、別の場所にいるような気分だ。  足早に二年三組までくると、俺は教室の引き戸をスライドさせた。  窓際の前から三列目の座席に、差し込む西陽に照らされ居眠りをする一人の生徒がいる。日誌を書いている最中に眠ってしまったのか、開かれたままの日誌が、机に突っ伏して眠る彼女の腕の下敷きになっていた。  すぐに起こすべきか、もう少し待つべきか。  どうしようかと迷いながら、俺はとりあえず教室の中へ足を進める。  ーーそういや。今日の日直って、誰だっけ?  そんな事を思い、俺はそっと身を屈めて生徒の顔を覗き込む。その顔が、先程まで自分の思考の中にいた生徒で驚いた。無意識に、覚えたばかりの名前が口をつく。 「奥井 澪」  茜色に染まる夕日に照らされ、彼女の髪がキラキラと艶めいている。  触れたらとても柔らかい。その手触りを自分は知っている……。不意に浮かんできた言葉に、俺は屈めていた体を起こし溜息を吐いた。  手触りなど知るはずがない。  それに、まだ実習中とはいえ自分は今、先生という立場なのだ。  ーー生徒に向かって、なに考えてんだよ、俺は!  気持ちよさそうに眠っているが、もう起こすしかないと思い俺は名前を呼んだ。 「奥井さん……。奥井さん、起きて」 「ん、」  小さく身動ぎした彼女が、ゆっくりと瞳を開ける。 「ヒスイ……先生? えっと…………。え? ヒスイ先生っ!」  ぼんやりした瞳が、俺の姿をはっきり捉えた途端に驚きの声をあげる。 「え? ど、ど、どうして……。え、私、何やって……。え? えっと……」  軽いパニック状態で、椅子から立ち上がったり座ったり、また立ったりを繰り返している。 「フフッ。大丈夫だよ、居眠りしてただけだから」  笑ってそう答えると、今度は思い切り俯いてしまった。髪の隙間から見える耳が真っ赤に染まっているのが、柔らかそうな髪の隙間から見えている。 「あの……私、変な寝顔してませんでしたか?」  そして彼女は、俯いたまま聞き逃してしまいそうなほど小さな声でそう問いかけてきた。恥ずかしそうに照れている姿が可愛くて、思わず俺は少し意地悪な嘘を返す。
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