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「奥井さんっ! もうみんな部室に揃ってるよ」
「一宮くん……」
彼女の言葉で、扉を開けた生徒が同じクラスの一宮という生徒だったと俺は今朝の自己紹介を思い返す。銀縁眼鏡を掛けた真面目そうな生徒で、確か彼女と同じ合唱部の数少ない男子メンバーだと言っていた。
一宮はズカズカと足を進め、こちらに近づくなり彼女の手首を乱暴に掴んだ。
「行くよ、奥井さん」
「え? あ、一宮くん……。待って、痛いよ!」
突然強く引っ張られ、彼女の声が戸惑いで揺れている。しかし一宮は、その手首を掴んだまま強引に歩き出した。
「わっ……」
転びそうになり、彼女がなんとか体勢を立て直している。それでも一宮は、彼女の手首を強引に引っ張り続けていた。腕の痛みに耐えるように、彼女がギュッと目を閉じる姿が目に入る。
ーー何やってんだよ、こいつ。
俺は焦って一宮の肩を掴み呼び止める。
「奥井さんが、痛いって言ってるよ」
生徒相手に感情的にならないように、努めて穏やかな声をだした。
そんな俺に、一宮が強い視線を向ける。眼鏡の奥の瞳が、はっきりと俺に対する嫌悪を示しているのが分かった。突き刺すような一宮の視線を受け止め、俺はもう一度、窘めるように同じ言葉を繰り返した。
「一宮くん。奥井さんが、痛いって言ってるよ」
そこでようやく手を離した一宮が、俺には何も言わず彼女を振り返った。
「みんな待ってるから、行こう!」
「う、うん。待たせて、ごめんね。……すぐ行く」
鞄を持って駆け出した彼女が、一度立ち止まりこちらを振り返った。一宮の態度やこの状況に戸惑っているのか、不安そうな表情をしている。
「部活頑張って」
俺が穏やかなトーンでそう声をかけると、彼女は安心したように頷き、それから駆け出して行った。
恐らく一宮は、彼女のことが好きなのだろう。しかし、付き合っている彼氏と彼女には見えなかったし、仲の良い友達という雰囲気でもなかった。ただのクラスメイト。恐らく二人の関係値はそれなのだろう。
ーーでも、思い切り牽制されたよな、俺。
あんなに分かりやすい態度をとられる程、自分は一宮にとって要注意人物だと判断されたのだろうか。だとしても、彼女にとった態度はあまりに乱暴過ぎるような気がする。もう少しで、彼女は転んでしまうところだったのだ。
相手にどんな表情をさせているのか、それが全く目に入らないほど頭に血が昇っていたのだとしたら……。
ーーあいつ、少し注意した方がいいのか?
しかし自己紹介の時の一宮は、真面目で大人しいタイプの印象だった。どちらかと言えば他人にあまり興味がない我が道をゆくタイプに見えたのだ。
けれど先程の彼女への態度には、好きな子に対する単純な嫉妬だけではない。何か嫌な違和感を覚えた。
ーーなんだろう。何かが引っ掛かる。
二人は同じ部活仲間であっても、距離のある関係性に見えた。彼女の驚いた様子から察しても、普段それほど話しかけて来るタイプではないのだろう。だが先程の一宮の態度には、その距離感には見合わない、どこか強い執着のようなものが見えた気がしたのだ。
しかし、出会って間も無い生徒をたった一度の出来事だけでそうだと決め付けてしまうのは良くない。好きな女の子が、別の男と仲良くしているのを見てヤキモチを焼く。そんなこと、学生でも社会人でもよくある感情じゃないか。
そう思う。
そう、思うのに。
俺の胸の中にはなぜか、いつまでも心配の火種が燻り続けていたのだった。
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