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 気がつけば抱き締めていた。  結局二十時過ぎまで逸巳とクー・シーで過ごした。店長に好きにしていいと言われた通り、思いきりその言葉に甘え、練習をした。逸巳は傍で見たいと言ってカウンターの中に座り、怜のすることを眺めながら、参考書を開いていた。  使ったキッチンやテーブルを片付け、電気を落としてふたりで外に出た。外は夏特有の、西の端がほんの少し明るい夜になっていた。 「こんなにいて足立さんに怒られないかな」 「大丈夫だろ」  何か言われたら謝ればいいだけだ。足立はそんなことは気にも留めずに笑うだけだ。  ゆっくりと歩き、通りに出た。 「送る」  じゃあ、と言おうとした逸巳を遮って、怜は言った。 「ダメって言っても無理だから」  あんなことがあった後で独りで帰せるはずがない。怜は強引に逸巳の腕を掴むと、駅のほうに向かって歩き出した。  逸巳は何か言いたそうにしていたが、怜は気づかぬふりをした。いつもとは違うホームでふたりで並んで電車を待ち、やって来たそれに乗り込んだ。逸巳の最寄りは二駅先で、車内は比較的空いていたが、ドアの傍に立っていた。  怜の前に逸巳がいて、車体に背を預けるように立つ彼の前で、怜はつり革を掴んで立っていた。すぐ近くに座っていた女子高生がちらちらとこちらを見るのが気に喰わなくて思わず睨みつけると、彼女は真っ赤になって目を逸らした。  視線に過剰に反応する自分が馬鹿馬鹿しいと思う。  でもいまだに拭えないのだ。 「…あ」  逸巳が何か言ったとき、駅に着いた。一緒に降りてここまででいいと言う逸巳を無視して知らないホームを歩き、改札を抜けた。 「こっちだよ」  今度は逸巳が先に立って案内する。駅を出て右に曲がり、横断歩道を渡った。怜の使う最寄り駅よりも降りる人は少なく、暗い夜道が続いている。  こんなところを、毎日こんな時間に歩いているのか。  見慣れない景色の中を逸巳の後ろからついていく。やがて閉店間際のスーパーの前を通り、左に曲がって住宅街に入った。来た道を怜はしっかりと頭に刻んだ。 「もうすぐだから」  この先が家だと逸巳が指を差す。  ここが逸巳が毎日通る道。  毎日見る景色。 「ここまで来なくてもよかったんだよ?」 「俺が嫌なんだよ」  立ち止まって振り返った逸巳に、言葉が強かったかと怜は慌てて言い直した。 「いや、心配だから」  目を瞠った逸巳から怜は視線を逸らした。 「俺が心配だから…、いいんだって」  逸巳の視線を感じる。  かあ、と身体が火照った。  顔が熱い。夜でよかった。街灯の少ない場所でよかった。  そうじゃなきゃ…  きっと真っ赤になった顔を逸巳に見られていた。  怜は誤魔化すように腕で顔を擦った。 「ありがとう、今日はいろいろごめん」  情けない。これじゃまるで… 「…先輩のせいじゃねえだろ」 「うん、でも」 「謝んなよ、そういうの鬱陶しい」 「……そっか」  しまった、と思ったときには遅かった。逸巳はじっと怜を見つめ、淡く困ったような笑みを浮かべると、くるりと背を向けた。 「…あ」  静かに歩き出した逸巳の背中に、すうっと胸の内が冷えていく。  何言ったんだ俺は。 「先輩──」  待って、と言うよりも早く、怜は逸巳の腕を掴んでいた。その勢いのまま振り向かせる。 「待って、違う、そうじゃなくて…」  驚きで目を丸くした逸巳と正面から視線が絡む。思うよりもずっと近い距離に心臓が跳ね上がった。手で握りつぶされたようにぎりぎりと痛む。 「そうじゃねえんだよ、…っ」 「…」 「俺は…」  このまま、また抱き締めたい。  腕の中に囲って、抱き締めて──  でも、と怜は自分に言い聞かせた。  でも出来ない。  さっきとは状況が違う。あれは震え出した逸巳をどう慰めていいのか分からなくて、ほとんど反射的に抱き寄せていた。逸巳に拒絶されなかったのは、弱いところに付け込んだから…涙を拭うふりをして唇を当てたのも、本当はずっとキスしたかったから。  キスがしたくて。 「俺──」 「? …後藤くん?」  そうだ。  最初からそうだったのだ。  気づかないふりをしてただけだ。分かっていたくせに、目を背けていた。知らない感情だと嘘をついていた。自分が男を好きになるなんて、思いもしなかったから。  この人が好きだ。  この人が。 「先輩、俺…」  掴んだままだった腕から肩に手のひらを滑らせる。空いていた手を反対の肩に置くと、逸巳がぴくりと肩先を震わせた。合わさった視線が揺らぐ。逸らされそうになって、駄目だとその目を覗き込む。 「な、に」 「…先輩」  さっきから同じ言葉しか出て来ない。もどかしくて唇を噛みしめた。こんなとき、なんて言うのかまるで分からない。  でも今言わなければ、もう言えない気がする。  怜は声を絞り出した。 「先輩、が…心配、だから」 「うん…それはもう聞いて」 「だから、違くて…っ俺は」  自分の顔がひどく歪んでいるのが分かった。  逸巳の目には、どんなに滑稽に映っているだろう。  どうしてこんなに言えないのだろう。 「上手く言えねえけど、俺は、先輩が、……すきで」 「……え」  小さく呟いた逸巳の声に怜の心臓の音が重なった。  耳の奥がどくどくと脈打つ。 「すきだから、先輩をひとりにしたくねえ」 「──」 「一緒にいたい」  少しでも長く。  今日が終わるぎりぎりまで。  怜は肩を掴む指に知らず力を込めた。 「俺と…付き合ってください」  逸巳の目が見開いた。切れ長の綺麗な二重、その奥の瞳が怜を見つめている。  唇が薄く開いて閉じ、また開く。 「僕…?」  困惑の滲む声に怜は頷いた。 「男、…だけど」 「関係ない」  先輩だから、と怜は続けた。 「先輩が…先輩がいい、先輩が、っ、俺はずっと──」  ずっと。  そのとき、はっとしたように逸巳が顔を逸らした。暗がりの向こう、道の先を振り返る。怜もその視線を追って息を吞んだ。  誰かがいる。 「逸巳さん?」  女の声だ。  ゆっくりとした足取りでこちらに歩き、離れた街灯の薄暗がりの中に姿が見えた。  怜の手のひらの下で逸巳の体が強張った。 「お、かあさん」 「──」  おかあさん?  この女が逸巳の母親? 「おかえりなさい。今日も遅かったんですね」  母親はそう言って怜を見た。 「こちらの方はお友達?」  こんばんは、と怜に微笑んだ。怜は逸巳の肩から手を下ろし、軽く頷くような会釈を返した。 「…どうも」  彼女はじっと怜を窺うように見てから、逸巳に言った。 「この間言っていた塾のお友達?」 「そ…、うです。送ってくれて…」 「そうなの」 「…おかあさんは、出掛けるんですか?」  逸巳の問いに母親は頷いた。 「仕事が少しあって」  母親は怜を見てまたにっこりと笑った。 「よかったらゆっくりして行ってくださいね。すぐそこですから」  そう言うと、逸巳に軽く頭を下げて怜の横を通り過ぎた。すれ違いざまに香る香水の匂い。  その甘い匂いに怜は顔を顰めた。  母親の後ろ姿がやがて角を曲がって見えなくなる。 「行こう」  逸巳がゆっくりと歩き出した。怜はその背中を追った。 「あの人…本当に先輩の母親?」  たった今すれ違った逸巳の母親は、まだ三十代くらいにしか見えなかった。親と呼ぶには若すぎる容姿だ。  自分の親とはまるで違う。  感じた違和感はそれだけではないけれど…  振り返った逸巳は怜に苦笑した。 「うん、違う。あの人は父親の恋人だった人だよ」  父親の恋人? 「実の母親はもういないんだ」  もういない?  逸巳はそれ以上何も言わず歩き続けた。 「ここだよ」  道の右側に家が見えてきた。指を差されたそこは周りよりも少し大きな家だった。家の敷地を囲う煉瓦の壁。逸巳の足がその門扉の前で止まった。黒い鉄の格子を押し、怜を振り返った。 「お茶、淹れるから…」 「ここでいい」  今ふたりきりになったら、何をするか自分でも分からない。 「でも」  首を振り、格子を押す逸巳の手に怜は自分の手を重ねた。 「自分を好きなやつ、簡単に入れないで?」  逸巳の耳元でもう一度告白する。  びくりと跳ねた細い体を抱きしめたい衝動を抑え込みながら、怜は手を放した。 「おやすみ」  逸巳を残し、背を向けてもと来た道を帰る。  振り切るように駅まで走った。帰りの電車に乗ると怜はふたつ目の駅で降りた。  まだ帰るわけにはいかない。  そしてそのまままっすぐ駅の構内を抜け反対に出ると、マリオンに向かった。  中に入り店の中をうろつく。案の定すぐに見知った顔が見つかった。 「おー怜」  どうした、と言う彼に怜は渋々ながら近づいていった。
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