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「怜、おい──何してんの」
呼ばれて後藤怜は振り向いた。教室のベランダ、湿気の混じる風が生温かい。
乱れて目に被さる髪を片手で払いのけていると、声を掛けて来た友人はひょいと怜の手元を覗き込んだ。
「なにそれ」
「…なんだよ」
「あー、また?」
面白そうな顔をして友人はにやりと口元を歪めた。
「見るなよ」
「いいじゃん、いつものやつだろ」
そうかもしれないが、遠慮もなしに見つめられてはあまりいい気はしない。怜は手にしていたあわいピンク色の紙を、ぐしゃっと握り潰した。
「あ!」
「見んなっつったろ」
「だからって潰すことねーじゃん」
あーあ、と怜の手の中からそれを取り上げ、友人はぐしゃぐしゃになった紙を広げた。やけに慎重な手つきに腹が立つ。これ見よがしにやっているのは明らかで、怜は鬱陶しそうに目を眇めたが、取り返す気はさらさらなかった。好きにすればいい。どうせ要らないものなのだ。盛大なため息を吐いてベランダの手すりに寄りかかった。
「おー可愛い字」
「うるせえな、いいからゴミ箱に捨てとけよ」
「おまえなあ…」
呆れた顔をしてため息を吐く友人を横目に、怜は校庭のほうに目をやった。三階から見下ろす景色は中途半端な眺めの良さだ。夏の日差しの中、楽しそうに笑い合う生徒たちの声が聞こえている。
この暑いのによくやるよな…
夏は苦手だ。
このまとわりつくような暑さが嫌だ。生ぬるい風、ふと思い出しかけた苦い記憶を振り切るように怜は振り向いた。
「俺次サボるわ」
「はア? またかよおまえ」
「いいだろ」
「怒られっぞ」
「知らねえって」
目を見開く友人の手から綺麗に伸ばされた紙を奪い取り、怜はベランダから教室に入った。そのまま教室を横切り廊下に出る直前、入り口のそばにあったゴミ箱に放り込む。だがゴミ箱の端に当たり、床の上に転がった。
ぐしゃぐしゃに丸まった紙のほんの少し開いた隙間から、歪んでしまった文字が見えた。
『後藤くん、好きです』
顔も知らないやつからのラブレター。
今時?
笑えるんだけど。
「じゃあな」
「おい怜──」
追いかけて来た友人の声にひらりと手を振って、怜は教室を後にした。
サボる場所はいつも決まっていて、そこは普段誰も来ない場所だった。校舎北側の棟の二階の端、化学室の隣にある元準備室だった場所だ。化学室が別の棟に新設されたため、準備室は今では行き場のない備品の仮置き場となっている。隣り合う化学室も中は空っぽで、夏休み中の改装工事を予定しているのか、厳重に施錠がされていた。だが、元準備室のこちらは鍵こそ掛かってはいるが、ちょっとしたコツで容易に開けることが出来るのだった。
くすんだクリーム色の引き戸の前に立って、怜は戸の下側を軽く蹴った。かたん、と小さな音がしてから取っ手に手をかけて引くと、戸は簡単に横に開いた。
古い校舎だ。建付けが悪く鍵がしっかり掛からなくなっているのだろう、ほんのちょっとの衝撃で外れるようになっていた。倉庫となった今でも直されないあたり、教師たちの認識の甘さが伺い知れた。
きっと誰もこんなところには来ないと思われている。
中に入ると、空気はひやりとしていた。北向きで年中翳っているから、夏でもどこか涼しいのだ。エアコンの効いた教室とはまた違う涼しさだった。
雑多に物が積まれた中を進み、怜は窓をほんの少しだけ開けそばのパイプ椅子に腰を下ろした。ほとんど毎日のように来ているから全部昨日と同じ場所にある。
窓の下に重ねられた机に脚を上げ、背もたれに深く身を預ける。
こうして窓の外の空を眺めるのが好きだ。
誰にも邪魔されないし、誰も纏わりついて来ない。
向かいの校舎にはちょうど同じところに教室があって、がらんとした中が見える。
いつも誰もいない。
一体、あそこは何の部屋なのか。新設されたばかりの新しい校舎、三年の教室とよく分からない特別室が詰め込まれている白い豆腐のような建物。
中には何があるのだろう。
でもそれを知ったところで…
深く息を吐くと、怜は目を閉じた。待っていたように眠気が降りてくる。一時間はゆっくり眠れるだろう。学校が終わったらバイトに行く。バイトはサボれない。
だって…
考えているとだんだんと意識が遠のいていく。
遠くで誰かの足音が聞こえる。
吸い込まれるようにして、怜はゆっくりとまどろみの中に沈んでいった。
「ありがとうございました」
会計を終えた客を見送ってから、怜はテーブルを片付けに行った。トレイの中に汚れた皿を積んでいると、隣のテーブルからの視線を感じる。確か若い女の二人連れだったな、とちらりと目の端で見れば、案の定彼女たちはちらちらとこちらを気にしていた。同い年くらいに見えるが、おそらくは年上だ。認識だけして面倒だと無視していると、狙いすましたようにすみません、と声がかかった。
「あの、追加注文したいんですけど?」
「はい、かしこまりました」
顔を向けにっこりと笑うと、彼女たちの頬がうっすらと赤らんだ。怜はトレイを持ち上げてカウンターに行き、メニューを彼女たちに渡した。
「決まったら声かけてください」
「あ、はい…っ」
受け取った女がますます頬を赤らめた。怜は駄目押しのように笑顔を作ってカウンターに戻った。
カウンターの奥のキッチンから顔を覗かせていた店長が、すれ違いざまに言った。
「おまえ、分かってやってるだろ」
「何のことですか」
怜は肩を竦め、洗い物をシンクの中に入れた。
「いいけど、いい加減にしとけよ?」
このカフェでバイトを始めてから一年ほどが経つ。怜の周りは常に騒がしく、先日も客だった女に店の裏口に呼び出され一悶着あったことを、戻った早々注意されたのだ。
鼻白んだように怜は鼻を鳴らした。
「俺が悪いんじゃないですよ」
何も、今に始まったことじゃない。
「そりゃおまえはさあ…」
店長が言いかけたとき、すみませーん、と声がかかった。振り向けば先程の客だった。
「はい」
にこりと笑って返事をすると、怜の背後で店長がため息を吐いた。だが仕方がない。今はバイト中で、これは接客の一部なのだ。
「いらっしゃいませ──」
オーダーを取りに行こうとして、入り口のベルの音に怜は顔を向けた。扉を開けて入って来た人に、自然と目が吸い寄せられる。
「いいですか?」
綺麗な黒髪の若い男だった。それこそ同い年ほどの見た目──彼はこの店の常連だった。
時折ふらりとひとりで来ては、いつも窓際の小さな席に座る。
そして静かに本を読むか、参考書を開いて勉強している。その参考書の内容から、彼が自分よりも一つ上なことは知っていた。
高校三年生。
でもどこの高校に行っているのかはわからない。制服だったなら、どこに通っているか分かるのだが、彼はいつも私服で現れる。
「どうぞ」
彼はこくりと頷いていつものように同じ席を選んだ。陽が落ち切る前の淡い日差しが白い横顔を映えさせる。
胸が小さく高鳴っていく。
「あのー」
「はい」
焦れたような声が聞こえ、怜は静かに座る彼から無理やり視線を引き剥がした。彼の横をすり抜け、テーブルに向かう。
「お待たせしました」
「ええっと…、これとー、あとは」
背中に彼の気配を感じながらオーダー票に書き込んでいく。意味ありげに笑い合う彼女たちが小さな紙をエプロンのポケットにそっと入れたことには怜は気づかない。ただ早く、終わらせたかった。
「かしこまりました」
オーダーを復唱しそう言い終えると、彼女たちは揃って怜を上目に見つめた。
「ねえ、あの、歳、いくつですか?」
「17です」
「え、じゃあ高校生?」
「はい」
「えっ、そうなんだあ! へえー、意外!」
高い声で交わされる会話を笑顔で躱しながら、早く終われと胸中で毒づく。
早く、はやく…
終われ。
「ねえ、じゃあ今度…」
延々としゃべり続ける高い声は、次第に怜の耳に入らなくなっていく。
彼がいる。
彼が。
背中に感じる気配。
ノートを捲る音。
彼が来るたびに落ち着かなくなる。身体がふわりと熱に浮かされたように熱くなる。
名前も知らない、ただ、時々ふらりと現れる。
そんな彼が訪れるのを、怜はいつもずっと待ち詫びていたのだ。
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