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自分の容姿を望んで持って生まれてきたわけじゃない。けれど怜は幼いころから人の目を惹きつける子供だった。
『わあ、綺麗なお顔ねえ』
知らない人、通りすがる人からの賛辞。皆自分を見て口々に感嘆する。
幼い頃はただ不思議な気持ちだった。
なぜ皆、そんなに自分を見るのだろう。
見られるから怜はただ笑い返した。すると皆揃って同じように幸せそうに笑い返してくれた。それが嬉しくてまた笑う。母親もそうしていれば幸せそうで、怜は何の疑問も感じなかった。だがそうした無邪気な行動も、歳を重ね、だんだんと周りの状況が分かるようになってくると一変した。
今では──
「なんか用?」
午前の授業が終わった昼休み、購買横の自販機に並んでいた怜は、こちらを見上げてくる視線に冷えた一瞥を返した。
「何?」
鬱陶しいな。
不機嫌な声に、女子生徒の顔が引き攣った。
「…っ、あ、なんでも…」
まさかそんな冷たい態度を取られると思わなかったのか、彼女の声は酷く怯えていた。ブラウスに付けた校章で、後輩だと分かる。一年生。
「用ないならそんな見ないで? 俺見られるの嫌いだから」
「あ、す、すみません…」
怜の前で泣きそうな顔をして小さくなる彼女に、遠巻きに見ていた周りの生徒たちが同情と憐れみの入り混じった目を向けた。だが怜は気にすることなく自販機に硬貨を入れ、ボタンを押した。がこん、と出て来たものを取り出して、さっさと彼女の横をすり抜ける。
通り過ぎざまに小さく鼻を啜る音が聞こえて、苛ついた。
は?
泣くの?
たったこれだけのことで?
「…めんど」
本当に面倒だ。
女ってなんでこう…
おーい、と聴き慣れた声に怜は顔を向けた。
「なあ、おまえの言ってたパンないんだけど…、って、…なに?」
購買から出て来た友人がその場の異様な雰囲気に怪訝な顔をした。
「別に」
「別にって…」
「何でもねえよ」
怜は肩を竦めると、廊下の先を顎で示した。
「行くぞ中井」
「あー…」
怜の横で俯いている女子生徒を見て、中井は察したように声を発した。頬を人差し指で掻き、女子生徒を励ますように肩をポンと叩く。
「気にしないで、あいつ腹減ってるだけだからさ」
「え…、あ、あの」
「ごめんねー」
すでに歩き出していた怜は聞こえてきた声に面倒くさげなため息を落とした。
余計なことを。
「おいって!」
教室の手前で小走りに追いついてきた中井が怜の背をばん、と叩いた。
「おまえさあ、見てただけの子いじめんなよ」
周りで見ていた誰かにでも聞いたのだろう。顔を顰めて振り向くと中井は袋を押し付けた。
「ほら、言ってたのなかったから別のにしといたぞ」
言われて袋の中を見れば、たしかに頼んだものとは別のものが入っていた。中井は持っていたもうひとつの袋を机に置いた。購買では毎回それぞれが別れて並ぶ。口約束をしたわけではないが、いつのまにかそうなっていた。人でごった返す購買ではそのほうが効率的だし待ち時間も少なくて済む。今日は中井がパン、怜が飲み物だ。
持っていたペットボトルを中井の前に置いた。飲むものはいつも決まっていて、中井はブラックコーヒー、怜はカフェオレだった。
苦い飲み物が苦手な怜はコーヒーが飲めない。
「そんなんでよくカフェのバイトとかやってんな」
「あ?」
「大体さあ、あの店女ばっかじゃん? 見られるの嫌いとかどの口が言ってんの」
しかもコーヒーも飲めないし、と中井は笑った。前の席の椅子に座る。憮然とした顔で怜はペットボトルのキャップを捻った。
「あれはいいんだよ…、あそこバイト代いいし」
確かに矛盾している。それは自分でも分かっていた。
「あ、そ」
中井は呆れたように目をぐるっと回した。
ペットボトルに口を付けた中井を見て、怜も口に運ぶ。
喉が渇いていた。飲もうとして、ふと手が止まった。
甘い匂い。
「……」
昨日、彼は来た。
前来た時から十日ほど経っていた。
注文はコーヒーで、それだけで。
砂糖もミルクも入れない。
いつもと同じ。
高い声の響く騒がしい店の中で、彼の周りだけがしんとしている。
本を読む、少しうつむいた綺麗な横顔。
「? どした?」
「あ、…いや」
どうしてこんなに気になるのか分からない。他の誰にも持ったことのない気持ちだった。
彼だけが特別なのだ。
誤魔化すようにペットボトルに口をつけ、一口飲む。慣れた甘い味が口に広がる。ふと目の前に置かれた中井の飲み物が目に入った。
「なあ、そっち貸して」
「は?」
急に差し出された手に、メロンパンをかじろうとしていた中井は目を丸くした。
「なに?」
中井の疑問には答えずに、怜はコーヒーのボトルを取った。すでに開いている飲み口に遠慮なく口をつける。
「…っ」
むせそうになるのを堪えて、ごくりと怜は飲み込んだ。
不味い。
おい、と怜の手から中井がボトルを取り上げた。
「勝手に飲むなよ…、つうかおまえブラック無理じゃん?」
甘いのしか飲まねえだろ。
思いきり顔を顰めた怜が可笑しかったのか、中井は声を上げて笑った。
そうだけど。
知りたかっただけだ。
ただ。
どんなのだろうと。
「……」
名前も知らないあの人がいつも飲んでいる味を。
「早く食おうぜ」
「ああ…」
「んあー、午後一なんだっけ?」
「現代史」
「やべえ、寝る自信しかねえわー」
怠そうな中井の声を聞きながら、苦みの残る口の中を甘いカフェオレで流し、怜はパンを食べ始めた。
放課後はバイトと相場は決まっている。
まっすぐ家に帰ったことなど、高校に入ってから一度もない。
「じゃあなー」
駅に向かう途中で怜は中井と別れた。彼はこれから他校にいる彼女とカラオケでデートするらしい。
いつもながらマメなことだと怜は思う。
彼女ね…
何がいいんだろう?
「お疲れっす」
「ああお疲れさん」
裏口から店に入ると、そこには店長がいた。甘いパンケーキの焼ける匂いと客の声。夕方の中途半端な時間だというのに、店内は今日も客で埋まっているようだった。
「着替えてきます」
キッチンの向かいにある小さなスタッフルームに入ると中はクーラーが効いていてひんやりと涼しかった。外の暑さが嘘のようだ。怜は床にバッグを放った。学校指定のナイロンのスポーツバッグは多少手荒にしても傷もつかないところがいい。
ネクタイを外し、シャツを脱ぎ、店用の黒シャツを着てエプロンを着ける。部屋を出る前にヘアスプレーで長めの前髪を簡単にさっと上げピンで留めると支度は出来た。鏡でもう一度確認してから慌ただしくキッチンに入った。
「あー後藤、先に片付け頼む」
「はい」
狭いキッチンのコンロの前で作業をしていた店長が振り向いて客席を指した。言われずとももう慣れた手順だと、怜はカウンターの中で手を洗ってから、トレイを手に客席へと出た。
「いらっしゃいませ」
途端に浴びる視線に澄ました顔で笑顔を作る。店の大半を埋めているのは女性客だ。中には何度もここを訪れている顔もあるが、怜は特別視することもせず、客の帰ったテーブルを手際よく片付け始める。
「やだ、ほんとにかっこいい」
「でしょ? ね、言ったとおりでしょ」
聞こえるか聞こえないかくらいの囁き声。
明らかに聞こえるように話す人もいる。
女性客で賑わう店内、これみよがしな話し声を笑顔の裏で耳障りだと思う。
中井に言われたように矛盾しているのだ。見られるのが嫌だというのなら、もっと人前に出ないバイトを選べばいい。そんなもの探せばいくらだってある。でも稼ぐためには仕方なかった。
ここのバイト代は相場よりずっといい。それに…
「後藤、後で手が空いたら練習してみるか」
トレイを手にキッチンに戻ると店長が言った。怜は驚いてぱっと顔を上げた。
「え、いいんすか」
「いいよ」
今日は割と暇だし、と店長は頷いた。口を曲げるその独特な笑い方は、慣れないうちは怒っているように見えて仕方なかったものだ。
今ではもうすっかり慣れてしまった。
「つっても店終わったらになりそうだけどな」
「いや、全然大丈夫っす」
すみませーん、と客席から呼ばれ、怜は振り向いた。
「はい」
オーダー票をエプロンのポケットから取り出そうとして、かさりと指先に触れたものに気がついた。
折りたたまれた覚えのないメモ用紙。ちらりと見えた英数字の羅列。
またか。
怜はそれを躊躇なく握りつぶしてから、客のもとに向かった。
バイトを終えて店を出たのは、もう二十二時に近かった。カフェの営業時間は二十時までだが、その時間通りにバイトを終えたことはあまりない。客のいなくなった店の中でいつも何かしら理由をつけ、残っているのが怜は好きだ。最近はそのまま賄いを食べることが多い。店長も一人分を作るよりはと、いつも怜の分も用意してくれる。
今日は店長にレシピをひとつ教えて貰った。
家までの道を歩く。
足取りは近づくにつれて重さを増す気がした。
帰りたくない。
早く金を貯めて家を出たい。
出ればもっと、──
「あの、」
声を掛けられて怜は振り向いた。
飲食店が多く立ち並ぶ通りはまだ明るい。人通りもまだ絶えない道、店舗の明かりの中に誰かが立っていた。
まるで怜を待っていたかのようだ。
「後藤くんでしょ、クー・シーの」
クー・シーは店の名前だ。
「あれ見てくれた?」
誰、と訊くよりも早く、その女はそう言った。
「…は?」
見てくれた?
何を?
「連絡先、ポケットに入れてたんだけど」
「……」
ああ、と怜は思い当たった。そういえばエプロンの中にメモ用紙が入っていた。
すぐに捨てたけど。
顔に見覚えはなかったが、最近来た客の一人だろうと思った。
そうでなければメモを入れることなんて出来ないからだ。
「バイト終わったんでしょ? よかったら少し話ししない?」
上目にこちらを見上げる女の目の中に、それ以上の期待を感じ取ってしまうのは、気のせいじゃない。
これまでにも数えきれないくらいあったことだ。
怜は内心でため息を吐いた。
「いいけど」
「ほんと?」
よかったあ、と彼女は笑って怜に駆け寄ってきた。傍に来た途端するりと慣れた仕草で腕を絡ませて、体を摺り寄せてくる。
「行こ?」
押し付けられた体の甘い匂いに怜は息を止める。嫌な匂いだ。人工的で、気持ちが悪い。
「ねえどこいこっか?」
こういう人間は多い。拒めば余計面倒なことになるのは、経験上よく分かっていた。
一度相手してやれば満足するのだ。
どうせ帰りたくないと思っていたところだ。
たった数時間、我慢するだけ。
どこでもいいと歩き出した途端、暗がりから出てきた人と肩がぶつかった。
「──すみません」
「──」
小さく言われた声に、はっと怜は振り返った。
黒い髪。
「どしたの?」
不満げに腕を引かれる。
怜はすれ違った人の後ろ姿をじっと見つめた。
違う。
あの人じゃない。
あの人じゃ…
「ねえ」
あの人はもっとすらりとしていて、後ろ姿が綺麗だ。
あんな後ろ姿じゃない。
会計を済ませて帰るとき、ごちそうさまと言う唇はいつもかすかに微笑んでいる。
『また来ます』
また。
次はいつ、来るんだろう。
今度はいつ会える?
今度いつ来ますか、と聞きたい言葉を怜は毎回飲み込んでいる。
『ありがとうございました』
名前さえまだ聞けずにいるのに。
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