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 暑い。  生ぬるい風が首筋に纏わりつくようにして吹く。  渡り廊下の屋根から落ちる陰の中は少しも涼しくなかった。移動教室も面倒だ。この先の新校舎は普段滅多に行くことがない場所だ。新校舎は怜の学年がこの高校に入学する少し前に完成した。今は三年生の教室と、いくつかの専門的な目的で使われる教室、それとPCルームがある。残りの三分の一の教室は未だ空いたまま、空っぽの状態だ。 「あっつー、まだ六月じゃん…」  並んで歩いていた中井がぼやく。首元のネクタイを珍しく緩めている。指を突っ込んで風が少しでも入るようにと、ぱたぱたと煽っていた。  そうだまだ六月だ。  渡り廊下を渡り切り、半分開いていた扉から新校舎に足を踏み入れたとたん、ひやりとした空気に包まれた。外気よりもずっと低い温度にほてった肌が冷やされる。 「わ、涼し!」  声を上げた中井に続くように怜は深く息を吐いた。汗が一気に引いていくのが気持ちいい。  くすりと中井が笑った。 「おまえほんと暑いのダメだな」 「…いいだろ」 「はは」  それにしても、と思う。どうしてこんなに涼しいのだろう。普段こちらの校舎には殆ど来ない。職員室も自分の教室も何もかも旧校舎にあるから、この二年間、足を踏み入れたのは片手で数えるほどしかなかった。  目指す教室は三階のデジタル技術室だ。昨年新しく導入された設備で、これからのデジタル分野の基礎を学ぶことが出来る。スマホ世代にとってはそれほど目新しくもない内容だが、動画の編集など、生徒の興味を引くような実習が講師を招いて行われている。今日はその授業の二回目、一度目は興味がなくて怜はいつものようにサボっていた。 (空いてる)  三階へ上がる階段へと向かいながら怜は思った。並んでいる教室は半分が資料室やコピー室といったもので、あとの半分は机も椅子もなく、廊下の窓から見える教室の中は、がらんとしていた。ここは二階だから余計にそうなのだろう。一階は三年の教室があるから、ここよりは騒がしいはずだ。 「来年生徒増えんだよなー」 「ああ…」  そういえば、と怜は頷いた。そんな話を聞いた気がする。近隣の高校と生徒数の取り合いになっている現状を変えるためだとか──そんな話だったはずだ。生まれるのがあと二年遅ければ、怜もその科を志望し受験をする未来もあったかもしれない。  階段を上がりかけて、ふと怜は奥に目を向けた。突き当りにひとつ部屋があった。昇りながら見るそこは、やはり他と同じようにがらんとしてなにもない。 (…あ)  ここは。  何気なく振り返った階段の上で、怜は足を止めた。廊下の窓から見える向かいの旧校舎、見覚えのある窓が見える。  ここだったのか。 「どした?」  脇を通って上がっていく他のクラスメイト達。先に着いた踊り場から中井が怜を見下ろしていた。 「いや、何でも」  そこはいつも自分がサボるときに使っているあの準備室だった。あの窓から見えていた場所は階段の奥の空き教室だ。  薄く開いている扉に、怜は中に入ってみたいと思った。  きっと涼しくて気持ちいい。  外の暑さを思い出し、怜は無意識にネクタイを緩めていた。指をかけ引っ張っていると、おい、と呆れた声で中井が言った。 「おまえさあ、見えてるって」 「は?」  見えてる?  中井は人差し指で自分の鎖骨を差した。 「見えてるって、こーこ」  言いながら緩んでいる自分のシャツの襟元を引っ張り、にやりと笑う。 「相変わらずやってんねー、おまえ」  怜は眉を顰めシャツを引っ張り中井が示した場所を確認した。  鎖骨の下が、なに? 「──」  くそ。  付けられていた赤い痕に、今の今まで気がつかなかった。  不覚すぎると渋い顔をして心の底からため息を吐くと、中井が思いきり声を上げて笑った。  午後、気がつくと怜の足は新校舎に向かっていた。  今日の最後の授業は数学だった。やる気があるようなないようなベテランの教師で、正直あまり相性が良くなかった。顔を見れば小言を言いたそうにされる。その髪は何だ、その態度はどういうつもりだと──だが実際に言われはしない。怜の成績が常に上位のため、結局ただ気に喰わないという理由だけでは何も出来ないようだった。  授業をサボるつもりはなかったが、あの鬱陶しい顔を見なければならないと思うだけでうんざりした。隙があれば容赦なく攻撃しようと、指の動き一つ一つさえ見張られていることに気が滅入る。 「…だる」  そんなことに時間を使うだけ無駄だ。  だったらこっちを見なければいいのだ。  俺を気にすることに何の意味があるのか。  どいつもこいつも…  さっきと同じように渡り廊下から新校舎に入る。  北側にあるせいで校舎内は午前よりも陰が多く、やはりひっそりしていた。下の階からひそやかに聞こえる授業の音、ひんやりとした空気の中、怜は出来るだけ音を立てないように廊下を歩いた。今は授業中だが、誰がいるか分からない。それこそ自分と同じような生徒がいるかもしれないし、教師に見つかるのは嫌だった。  廊下を進み、数時間前に昇った階段の前を通り過ぎる。見つけた部屋の扉の前に立ち中を覗いた。やはり誰もいない。引き戸に手を掛け、ほんのすこし力を入れると扉はあっさりと横に動いた。  しんとした廊下に、やけにそれが大きく響く。 「……」  廊下よりも暗い教室。  冷たい空気。  怜は中に入り、後ろ手に扉を閉めた。がらんとした部屋の奥にビニールを被った机と椅子が三つずつ置かれ、スチール製の棚がひとつある。それ以外は何もない。  普通の教室の三分の二ほどの広さ、一体何のために使う予定の部屋なのだろう。怜はゆっくりと歩いて部屋を横切った。なんとなく息苦しくて奥の窓を開けると、入ってきた風が怜の前髪を煽った。窓の外の校庭には誰の姿もなく、敷地の周りを囲うように植えられた欅や銀杏の木の影が濃く落ちているだけだ。  誰もいないのは、いつものことだ。  椅子を包んでいるビニールを取り、窓際に置いた。どうせなら脚を置くのも欲しいと、怜はもう一脚椅子を運び、少し離して向かい合うように並べた。 「ん」  座って位置を確かめる。いい感じだ。背もたれに背を預け、首を乗せた。脚を上げて見上げると、窓からは晴れた空がよく見える。  あくびを噛み殺し、怜は目尻に滲んだ涙を手の甲で拭った。  眠気が瞼を重くする。  静けさの中に意識が溶けだしていく。  輪郭を失くして…  水の底に沈むように、怜は眠りの中に引きこまれていった。 *** 「三沢、ちょっと」  授業が終わったばかりの教室のざわめきの中で、三沢逸巳(みさわいつみ)は振り返った。黒板に下ろしたスクリーンの前で、担任が手を振っている。 「はい?」 「悪いんだけどさあ、ちょっとコピー頼めるか?」 「…いいですよ」  少しも悪いとは思っていない顔だ。逸巳はため息を気取られぬように落としてから担任に近づいた。 「これな、五十枚を二セット。で、コピー室の鍵」  学校の備品をこんなに簡単に生徒に渡していいものなのか、逸巳はちらりとそう思ったが口には出さないでおく。  受け取った鍵には小さなプレートがついている。コピー室、とマジックで書かれたそれを手のひらに握りこんだ。  五十枚を二セット。  結構な量だ。 「あー出来たらさ、教員室の机の上置いといてくれな」 「はあ」  簡単に言ってくれるものだ。だが特に断る理由も思いつかず、仕方なく逸巳は頷いた。 「ん、どうした?」  席に戻るとすでに帰り支度を終えた友人が立っていた。逸巳は彼を見上げると、これ、と担任から渡された原本と鍵を見せる。 「コピー頼まれたから、先帰っていい」  はあ? と友人は心底嫌そうな顔をした。 「あいつまたか…、手伝うぞ」 「いやいいよ」  眉間に皺を寄せる友人に逸巳は首を振った。どうせ時間を潰さなければならなかったのだ。終わる時間を逆算すればちょうどよかった。 「寺山も今日あるんだろ? 僕は大丈夫だから」 「…そうか?」 「うん、また明日」  並んで廊下を歩き、昇降口に向かう寺山と廊下の先で別れた。軽く手を上げて先へ進む。コピー室は階段を上がった二階だ。この校舎の配置はどこか複雑で、一階は教室で埋まっているのに二階は作業や資料を保管する場所として使われ、半分以上は空いていた。そして三階は新しい授業を行うための専用の教室になっている。  来年度から新設されるデジタル技術に特化した科の為のものらしい。だからなのかこの建物は北側に作られ、旧校舎にはない空調システムが効いている。  涼しい廊下から窓を見れば、隣り合う旧校舎が目に入った。  エアコンはあるが建物が古いためか効きがあまり良くなく、夏は蒸し暑かったことを思い出す。二年になってこちらに移動してからはほとんど足を踏み入れることがなくなってしまったが、逸巳はあちらの校舎が好きだった。  別棟の購買にも近いし、図書棟もあちら側だ。  それに… 「……」  逸巳は軽く頭を振って頭の中のものを消した。  階段の下から聞こえてくる同級生たちの声を背に、人気のない階段を昇る。  コピー室は上がって左側。  鍵を取り出しながら上がり切ったところで曲がろうとして、ふと足を止めた。 「…あれ?」  反対側の奥、小さな教室がひとつあるのだが、その入り口が… (開いてる)  そこには余剰分の椅子や机、あとは行き場のない授業の資料などが置かれているだけだ。普段出入りするようなところではない。  締め忘れ?  いつもはきちんと鍵がかかっている。一度生徒達が入り込んでたまり場になっていたことがあって、それ以来施錠はされていたはずだ。  逸巳は拳ほどの大きさに開いている扉に近づいた。引き戸のそれに手をかけてそっと引く。  ひんやりと冷たい空気。中は廊下より薄暗い。  何もない未使用の教室。  誰か、いるんだろうか。 「…──」  首を巡らせ見渡した逸巳は息を詰めた。  案外狭い部屋の奥、小さな窓の傍に誰かがいる。  そっと近づいてみる。  二脚の椅子に体を預け、静かな寝息を立てている。はみ出している長い脚。 「──」 (あ) 「ん…」  見下ろしていると彼は眉を顰め、瞼を震わせた。  うっすらと開いた瞳が美しい。切れるような二重、ゆらゆらと揺れるそれはぼんやりと彷徨って、やがて逸巳の顔の上で焦点を結んだ。 ***  どれくらい眠ったのだろう。  怜は誰かの気配にふと目を覚ました。  いる…?  誰かが…そこにいる。  すぐそばにいる。  見られている感覚に怜は重い瞼を上げようとした。直前まで深く寝入っていたためか、思うように体を動かすことが出来ない。  誰だ。  俺を見るな。 「ん…」  上手く力が入らない。  ようやく開いた目の中に誰かの影が映る。  ぼんやりとした輪郭。  逆さまに怜を見下ろしている。 「起きた?」  男だ。  男の声。  その声を知っていると思った。  知っている──  ぼやけた視界がゆっくりと像を結び鮮明になって──怜の心臓が大きく跳ね上がった。 「具合悪い?」  そう問いかける彼を知っている。 「な、ん…」  なんで。  どうして。 「大丈夫か?」  なぜ、ここに──  彼は、彼だ。 「…え?」  いつ来るかわからない、騒がしい店の中でいつも静かな空気を身に纏っている、彼が──ただ待つことでしか会えない彼が、じっと怜を見下ろしていた。
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